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1私の狐  作者: 川本千根
第一部
28/51

フラグ

さっきこの部屋に吹いた旋風と今までのいろんな出来事が私の頭の中で結びつき決定的な一つの答えを導き出した




思えば最初からフラグは立っていた

あの狭い空間で環さんに声をかけられたときから


あの時、私は雛が北欧のカバを上手に刺繍してくれたペンケースを持っていた


前に文化人類学の講義で聞いたことがある

刺繍にはそれをした人の人の念が宿るという話を


もしそれが本当なら…

下島コーヒーの個室で環さんが感じた懐かしさは、あの時私が持っていた雛の手作りのペンケースが雛の気を発していたからに違いない


それを感じだからこそ環さんはその場にいた私に興味を持ったんだ…


そうじゃなければ彼はフレンチトーストを置いて、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいとだけ言いその場を立ち去っていただろう


付き合い始めの頃、脱がした私のTシャツに環さんが飛びついたのは…

それが私と雛が共有で着ていたTシャツだったから

あのTシャツについた雛の匂いに恍惚を感じていたんだ

それを私の匂いと勘違いして


その恍惚を味わいたくて環さんはよく私の匂いをかいでいた


出会ったばかりだったらきっと気づかなかった

さっき環さんが雛を見てどんなに動揺したか


でも私、環さんのことばかり見てきたから…会っているときだけではなく、家に帰ってからもその日の環さんのちょっとした仕草や言葉の抑揚を何度も何度も思い出して味わっていたから…

気づいちゃった


一瞬息を飲んだ後の環さんの瞳の中の驚きや喜び

そしてそれを私に気づかせないように振る舞う、優しさや思いやり


環さん、環さんのかつての恋人は、雛だったんだね

雛は環さんの恋人だった繭さんの生まれ変わりだったんだね


見つけちゃんたんだね?環さん

前の恋人に似ている人ではなく

…生まれ変わった本人を




雛が部屋を出ていってからは私も環さんも、不自然にどうでもいいことばかりを話していた


沈黙が怖くてただしゃべり続けた


お互いが、何かを感じたことを密かに察しながらもそのことには触れず、話がそっちに行ってしまわないように私達は注意深く話題を選んだ


さっき環さんは昔の恋人の話をすると言っていたけどその話ができる状況じゃなくなってしまったんだよね…


もし他人が今の私達の様子を見ていたらきっと変に思うだろう

この二人はなんでこんなに青い顔をして意味のない会話を続けているのかなって




私に…

限界が来た

ひどくお腹が痛くなってきた




「環さん、私スイカ食べすぎた」


「お腹痛くなってきた、今日はもう帰る」



「…繭、しばらく横になれ」



「ううん、トイレ行きたいから…帰る」



「この家のトイレを使え」



「ヤダ、彼氏の家でうんこしたくない」


私がそう言ったら環さんの表情が一瞬緩んだ

うん…私、がんばってる


「ごめ…タクシー呼んで」


「あと、千円貸して、葉っぱのお金じゃなく本物のお金」


お小遣い前でお財布には1500円くらいしか入ってない

それだけだとタクシー代足りるか心細い


「葉っぱのお金なんか持っていない」と言って環さんは下に降りていく

家電いえでんでタクシーを呼ぶために




しばらくすると外からプッと短くタクシーの鳴らしたクラクションが聞こえてきた

私は環さんに支えられて家を出てタクシーに乗り込む


「繭…」と環さんは私に声をかけたけれど、その次の言葉は出てこなかった

…環さんもいっぱいいっぱいなんじゃないかな

いつもどうりの顔をしているけど


タクシーが発進したあとも環さんは見送ってくれていた


私は振り返ってそれを見た

環さんらしい美しい立ち姿

だけど私にはなんだか途方にくれているように見える


タクシーの後ろの窓から遠ざかってゆくおばあさんの家を眺めて思う

あ、この家の屋根って青かったんだ

毎日通っていたのに今ごろ気づいた


なんだか青でいることを放棄してしまったような煤けた青だなぁ…


あの家に向かうとき、いつも私の心は弾んでいた

だから気づかなかったよ、あの家の瓦があんなに悲しい色だったなんて


うう…それにしてもお腹痛い…

胃や腸がねじられているような激痛

こんな痛み今まで味わったことがないよ


油汗が滲み出てくる

今は…とりあえず早くトイレに行きたい

運転手さん、急いで!!




マンションの前でタクシーを降りてヨタヨタ部屋に帰ったら、ドアを開けた途端雛が飛び出してきた

そして玄関先で土下座した


「お姉ちゃんごめん!!」


バカ!


あんたのしたことはあんたの思っている何億倍も罪が重い


「どいてっ、あんたがそこでうずくまっているとトイレのドアが開けられないっ」


そう言って雛をどかし私は慌ててトイレに飛び込んだ


美しい恋愛小説には書かれていないけれど、どんな悲しみも怒りも生理現象には勝てないのだ



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