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1私の狐  作者: 川本千根
第一部
18/51

雨に濡れて

私は小雨の降る中、自転車を必死で漕いで環さんの家に向った


おととい梅雨明け宣言が出たのに今日も雨が降っている


二十分後環さんの家に着いたときは雨と汗で私はぐしょ濡れだった

自転車を玄関脇に置いて家に飛び込む


「ごめんください、ごめんください!」


応答がない

おばあさんいないのかな

でも環さんはいる

だって靴がある

この前履いていた黒いスニーカー


不法侵入かもしれないけど勝手に靴脱いで階段を上がる

裸足の足も濡れていたのでペタペタと音がする

ああ、私、常識のないことしてる


環さんの部屋のふすまを開けると環さんは布団の上に寝転んで本を読んでいた


私を見るとむくっと起き上がってなに勝手に入ってきてんの?と言いたげな顔をした

…ヒンヤリとした冷たい目


自転車漕いで火照っていた体が一気に冷える気がした


髪も服も濡れて顔や体に張り付いている妙な女の訪問

迷惑そうだ…


ああ、このピンとした空気をまとった人が病気のはずはない

私なにを勘違いして…


ここに来るために、自分の都合のいいように…


バカだなぁ

やっぱり帰ろう、と思ったとき部屋の中の黄色が目に飛び込んできた

テーブルの上のヨーグルトの空き容器に活けてある三輪のたんぽぽの花


戸口で立ち尽くす私に


「帰れ」


と環さんは言った


私はその言葉は無視して部屋に入り、ぐしょ濡れの服を着たまま正面から環さんに抱きついた


じわじわと環さんのグレーのTシャツに水が染みていく


うー


「ごめんなさい…」と絞り出すような声が出た


自分らしからぬこのこの言葉と行動に驚く

自分の語彙の中にこんな言葉があったとは

いや、あったにはあったけど、こんな言葉が口をついて出るとは


恋をするとバカになるって本当だ

今の私には理性やプライドのかけらもない

完全に自分の軸を失っている


ナンパした女の子をその日のうちに部屋に誘って襲うような節操のない男に…階段から落ちて怪我している私を見捨てて一人帰るような冷たい男に対してのこの態度


ほんと、バカ


たんぽぽが…たんぽぽの黄色がいけない


なんだか言葉や態度とはうらはらに環さんが私を待っていたような気にさせた


…間違っていない

だってほら、環さんも私の背中に手を回してきた

 

無言で私たちは長く抱き合った

今はただ何も考えずにしばらくこうしていたい



その時なにかふさふさとしたものが私のふくらはぎをすっと撫でた


猫?

この家猫がいるの?


「繭…服…脱ぎな、風邪をひく」


頬を寄せたままそう囁かれた言葉にちょっぴり下心を感じる…


私は環さんから離れで自分の濡れた服に目を落とし、次に自分のふくらはぎのあたりを見た


なんか…太くて白いふさふさしたものがふくらはぎを撫でている


なんだこれ?

尻尾?


なんの?


その尻尾の根本に視線を移す


するとさっきまでそこにいたはずの環さんはいなくて、代わりに白い大きな狐がいた

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