68話
今日もまたGYU-DONを食べている。
人のいない、暗い炊事場はどことなく寒々しかったけれど、手の中にあるGYU-DONの器は変わらず温かかった。
勇者は左手で持ったどんぶりを顔に近付け、右手の箸で書きこむ。
牛肉とタマネギの煮込みをたっぷり乗せた、もちもちした食感の、少し硬めに炊かれたご飯。
箸で一気にかきこめば、うまみが一気に押し寄せる。
肉の食感、つゆの香り。
タマネギザクザク紅ショウガ。
溶いた卵を上からかけて、ずるりずるりと飲み込んだ。
しょっぱさ、酸味、かすかな甘さ。
もぐもぐ噛んでるご飯には、すべてのうまみが吸い込まれていた。
「あら、お夜食ですか?」
ぱちり、と炊事場の明かりが灯る。
勇者は声のした方向を見た。
そこにいるのは、金髪の美しい女性だった。
女神のような、けれどもう、女神ではないらしい、女性。
「おかわりなさいますか?」
女神が首をかしげる。
勇者はうなずき、どんぶりを差し出した。
「今日は色々あった」
勇者はなんとなくつぶやいた。
先代魔王が生き残って――
女神が女神をやめたようで――
……色々あったと言ったものの、実際はそれだけだ。
なにも、変わらない。
少なくとも、今までと暮らしぶりが劇的に変化した様子を、勇者はまだ感じていない。
GYU-DONは相変わらずいくらでもあるし。
「うん、やっぱり、色々はなかったかもしれない」
「……どういうことなんでしょう……」
困惑顔で笑いつつ、女神がGYU-DONを差し出してくる。
勇者はそれを受け取り、しばし集中して食べて――
「魔王は、今日、魔王のところで泊まる」
「あ、はい。勇者様が帰ってらした時に、それは聞きました」
「で、今思い出したんだけど、魔王を魔王のところに送り届けた帰りに、あいつに会った」
「あいつ?」
「甘いものの人だ」
「……勇者様まで『甘いものの人』呼びは、その、どうなんでしょう……?」
「俺を殺した犯人が見つかったらしい」
「……あの、重要な話のように思えるんですが、忘れていらしたんですか?」
「魔王とかの前で言うのはどうかと思って黙ってたんだけど、そのせいで忘れてたんだ」
「……う、うーん……な、なるほど?」
「王国騎士団の団長だった」
「……たぶんスキャンダラスな正体なのでしょうけれど、勇者様にかかれば日常の些末事みたいな感じになりますね……」
「どうでもいいからな」
「……」
「あいつは復讐とか色々考えてるっぽいんだけど、俺はそういうのどうだっていいんだ。だってたぶん、仕事でやったんだから。俺は殺したくて殺したことはなかったし、騎士団長も俺を殺したくて殺したわけじゃないと思うし」
「……充分に悲嘆すべき事実が判明しているように思えるのですが、勇者様はおおらかに受け止めているのですね」
「たとえば俺が人間の領地で暮らさなきゃならなかったら、きっと、自分を狙ったやつを突き止めて、なんか色々したと思う」
「『なんか色々』とは」
「なんか色々だ。……でも、別にこっちで暮らせてるし、食べ物にも困ってないし、いいかなって俺は思ってるぞ」
「……まあ、ご本人がそうおっしゃるならば、私から申し上げることはなにもありません」
「あいつはすごい剣幕で『復讐しないの?』とか聞いてきて、正直めんどうだった……」
「……報われないなあ」
「たぶんあいつ、疲れてるんだと思う。仕事辞めてこっち来たらいいのに」
「……」
女神は論点というか要点というか、大事なポイントのズレみたいなものを感じた。
でも、うまく言語化できなかったので、あいまいに微笑むだけにした。
「そ、それで勇者様、これからどうなさいますか?」
「今日の予定か? 食ったら寝るぞ。なんか無性にGYU-DON食いたかったから食ったけど、別にあとは寝るだけなんだ。もう暗いしな」
「……ああ、ええと、ちょっと話題に困ったので聞いただけだったんですが……今日はまあ、寝ますよね。はい」
「今日じゃないこれからの予定は、やっぱり食って寝るだけだと思うぞ」
「……」
「魔王は相変わらず弱いし、牧場長はまだミノに勝てない。マンドラゴラ屋と漁師とコカトリス飼育員はよくやってるから俺が手を出すことはない。剣の精は最近人型にならないから世話がなくていいな。あと、道案内妖精は行方不明だ。たぶんどこかで迷子になってる」
「探したりは……」
「あいつが行方不明なのはいつものことだ。見つかるまで平和だし、探さない」
道案内妖精のことはやっぱり苦手のようだった。
勇者がここまで苦手意識を表に出すのは珍しい。
ともかく――
女神は、笑った。
「なにも変わらないんですね」
「なにも変わらないことを、魔王が望んでるし、俺も望んでるからな」
「……私も神を辞めてしまいましたので、この家のシステムをそろそろ掌握していかないといけませんが……まあ、GYU-DONは相変わらず出ますし、私の方も、やることは変わりないですね」
「女神の願いはないのか?」
勇者が問う。
女神は――すでに女神ではないけれど、女神以外の呼称を持たない女性は、きょとんとした。
「……願い?」
「そうだ。俺は『毎日腹いっぱい食べられる生活』を願った。魔王もたぶん同じようなもんだろう。でも、女神はいいのか? 女神はもう女神じゃないなら自由だろ?」
「私は――」
彼女は考える。
願い。
……神とは、願いを聞き届ける役職だ。
今まで『それ』であった彼女は、己が己のために願うということに不慣れであった。
だけれど――
「――私も、勇者様や魔王さんと同じような願いを抱いているのだと思います」
「だらだらぐだぐだ腹いっぱい食べることか?」
「……そう言われてしまうと、なんとなく『違う』と言いたくなる気持ちがわきあがりますが……」
もっとこう、素晴らしい言い回しも絶対あるって。
なんでそんな怠け者感を全力で出していくのだろう……
「……私は、そうですね、みなが食べ物に困ることなく、幸せで、笑顔でいられる生活を望んでいるのだと思います」
「……俺の言ったのとなにが違うのか、わからないぞ……」
「こちらの方が耳障りがいいというか、人に胸を張って告げられる感じですので……」
「女神は難しいことを考えるんだな」
「勇者様が世間体を気にしなさすぎなのでは……」
「……世間体は嫌いだ。堅苦しいから」
勇者は眉根を寄せて、困り顔になった。
よほどイヤな思い出があるらしい。
女神は――
思わず、笑う。
「……勇者様は、本当に、大変なことも、なんでもないようにおっしゃられるお方ですよね」
「大変なこと?」
「……魔王が生きていたこと。死ぬはずだった彼が、生き延びたこと。自分を殺した相手が見つかったこと。……私が、女神をやめたこと。……どれもこれも、きっと、聞き手が勇者様でなければ、もっとおどろき、さわぎ、あきれたり、絶望したりするようなことばかりに思えます」
「そうかもしれない」
「でも、勇者様にとっては大したことじゃないんですよね」
「……どうだろう。よくわからないな」
「……そういうところですよね」
「どういうところだ?」
「あなたの周囲が平和なのは、あなたがどっしりしているからではないかと、思うのです」
女神はほほえみ、告げた。
勇者は、やっぱり、よくわからないような顔をしている。
「女神の言うことは難しいな」
「そうかもしれません。……反省します」
「反省するほどじゃないと思う」
「いえ。……あなたを見ていると、なにか色々難しいことを話すのが、愚かに思えるのです。幸福とはなにか? 運命とはなにか? 平和とは? ……いくらでもいくらでも、難しく言えます。どれほどでも自在に複雑に考えることができます。……でも、難しい言い回しも、複雑な考えも、本当は必要ではないのではないかと、そう思うのです」
「……難しくて複雑で、よくわからないぞ」
「ようするに、毎日お腹いっぱい食べられたら幸せで平和だっていうことです」
「なるほど」
勇者は重々しくうなずいた。
女神が、勇者の対面に腰かける。
「これからも平和だといいですね」
「そうだな」
それきり、会話もなく。
さりとてすぐに部屋に戻るでもなく。
二人はなんとなく見つめ合い、なんとなく笑って、なんとなく――解散した。
なんにもない一日がこうして終わる。
そうしてきっと――
なんにもない毎日がこうして続いていくのだろう。
魔王と勇者と、神だった彼女の、平和な日々が。




