64話
そのどんぶりに盛られた一杯のGYU-DONを手にして、先代魔王は懐かしさを覚える。
陶器のつるりとした感触には、中身の温度がダイレクトに反映されている。
箸。
左手で持ったその二本の棒は、この世界で魔王として生を受けてのち、一度も使ったことがない道具のはずだった。
……だというのになぜだろう、こんなにも、しっくりくるのは。
地味な彩りの料理だ。
茶色と、申し訳程度の赤。
妙に安っぽい印象を受けた。
一口食べる。
濃いめの味付けと、炊きたてご飯のふっくらとした食感。
ずるりと口の端に垂れた長い肉を吸い込み、タマネギや紅ショウガと一緒に咀嚼する。
「……」
一瞬、動きが止まる。
けれどすぐに、先代魔王はGYU-DONを咀嚼する作業に戻った。
咀嚼、嚥下、またかきこむ。
咀嚼、嚥下、またかきこむ。
その一連の動作は、第三者から見れば極めて事務的なものに見えた。
先代魔王の表情は変わらない。
ごちそうを食べているという様子ではないし。
まずいものをイヤイヤ食べているにしては、動作によどみがないし。
無感動に、無表情に――ただ、食べている。
無言のまま食事をしたせいだろう、一杯のGYU-DONは、あっというまになくなった。
先代魔王は、空になったどんぶりを見て――
がくり、と体を大きく前へ倒した。
「あー……」
「どうした魔王? まずいのか?」
とっくに食べ終えていた勇者が首をかしげる。
先代魔王は、かすかに首を横に振った。
「いや。……いやいや。待ってくれ。混乱してる」
「待つぞ」
「…………ああ、うん。ああ、そうだ、そうだよ。オレ、生きてたわ。異世界で、生きてた」
「……」
「知ってるもん。この味、知ってる。……そうだよ。貧乏でさ、食事といえばこればっかりだった。『もっといいもん食いたいなー』とか思いながら、かきこんで……」
よみがえるものがある。
灰色の空。駅前の雑踏。ビルのあいだを抜ける人々。
通りを行き交う車のエンジン音。
信号と同時に切り替わる人通りの流れ。
高層建築に見下ろされたアーケードには、いくつかの店があった。
ハンバーガー。
ラーメン。
そして、牛丼。
……そうだ、クリスマスの近い、ある冬の日。
歩いていた。すり切れ薄汚れたスニーカー。裾のぼろぼろになったジーンズ。
フード付きパーカーのカンガルーポケットに手を入れて、スマフォにつないだヘッドフォンで音楽を聞いている。
自作の、音楽。
いい歌だと思っていた。
曲がいい。センチメンタルで郷愁を覚える旋律だ。
音がいい。パーカッションもギターもベースも、すべてが調和し、胸を打つ。
歌詞がいい。……すべてを込めた。想いも、持てる力も、伝えたいことも、すべて。
……まあ、でも、今思い返せば、あまりにも当たり前の話。
自分にとって最高なものを、人も最高だとは思ってくれなかったということで。
「昔の俺は夢で生きていきたかったけど、それは難しいことだったんだ」
「……」
「……悪い。わかんねーよな、いきなり言ったって。……でも、言わせてくれよ。オレはさ、夢を追いかけてたんだ。努力だってしてたと思う。でも、現実はそれだけじゃうまくいかなくて……バイト生活さ。貧乏で、きつくて、年の瀬が近付くたびに、こんな調子で来年は生きていけるのかって不安で眠れなくなったもんだ」
胸がつぶれるような、あの気持ちを思い出す。
将来が見えなかったんだ。
がんばらなければいけないと思っていた。
どんどん曲を作って、どんどん発表すれば、どれかはきっと、誰かの心にとどくと思っていた。
……その時、もう、すでに、純粋ではなかったのだと思う。
彼は最初、いい曲を作りたかった。評価されなくても、自分の中で『確信』みたいなものが持てるような、そんな曲を作りたかったんだ。
でも、次第に、評価される曲を作りたいと思うようになっていった。
……別にいい。評価を望むこと自体は間違っていない。自分がいいと思うものを、人にもわかってもらうための努力は、悪いことではない。
でも、人の評価を求めることで、だんだんと追い詰められていった。
創作物の成否を、客観性に求めてしまったことで――
誰にも見られない自分の曲の――自分が大好きで、自分の好みをたっぷり詰めこんだはずの曲の価値を、見失った。
「作っても作っても、オレの曲に価値を見出してくれる人はいなかった。……ああ、いや、ちょっとはいたよ? でもさ、その時のオレはとっくに『大好きな曲を作ってわかってもらう』ことから、『大ヒットすること』に目的が変わってたんだ。んで、目的は――達成できなかった」
評価されぬまま、若くして、彼は死んだ。
劇的でもない。ニュースにもならないような、死に様。
疑問があった。後悔があった。悔しかった。
『自分より実力もない、曲のことなんかわかってないような連中がヒットするのに、オレの曲はなんで誰の心にもとどかない?』
心の叫びは、自分で聞いてもどうかと思うぐらい、醜く濁っていた。
運命を恨んだ。
きっと運さえ向けば、自分にだって成功の兆しがおとずれるものだと、信じていた。
――ならば。
ならば、運命の流れに沿って生きるだけの種族に転生を――
そんな声を、聞いた気がした。
……きっとその声の主は、この世界で言う『神様』ではなかったのだろう。
そいつこそ、『運命』だったのかもしれない。
「……運命」
彼は空になった器を見下ろし、つぶやく。
……日は暮れ、あたりには暗闇が満ちている。
街灯もなく、少し先も見えないような、野生の闇の中で――
彼は、器の中に、過去の自分の顔を見た気がした。
「この世界で、運命に流されて生きた時間は――幸せだった気がする」
「……そうなのか」
勇者の相づちには、納得できない響きがあった。
先代魔王は笑う。
「お前は英雄だから、オレみたいな凡人の気持ちはわかんねーかもな」
「俺は英雄じゃない。ただの勇者だ」
「……いや、英雄じゃねーか。人類のために『感情』だとか『思考力』だとかを捧げた時点で、並の精神性じゃねーのさ。オレはまあ、並だったよ? 魔王並盛り。『運命』っていう名前のガイドラインに沿って生きる、『運命の奴隷』さ。仲間を死なせて、予定通り逃げて、そんで自分の使命を娘に投げてサヨナラしようとしてるんだ」
「……」
「なあ、人はなんのために生きるんだろうな?」
「……難しい」
「考えなくていいよ。聞いて、感じたことを教えてくれ。……最初から運命が決まっていて、それに沿って生きるだけなのか? それとも、それとも、のしかかる運命っていう名前の重圧をはねのけるために、オレたちは人生を生き抜くのか?」
「……」
「……運命に逆らおうとした時さ、強制力みたいなのを感じるの。すげー強い力だったよ。運命に従ってるうちはトントンと進んでたことがさ、いきなり、全然うまくいかなくなるんだ。……魔族全員で、誰かが死ぬ前に逃げようとした時とか。娘をあらかじめ安全な場所に行かせておこうとした時とか……予期せぬ問題が発生して、どうにもならなかった」
「……」
「閉塞してるんだよ。全部、全部、全部! クソッタレな運命が! オレらの『運命以外の道』を塞いでやがるんだ! ……だからオレたちは抵抗をあきらめた。従って生き、従って死ぬ。そうすれば少なくとも――まだしばらくは、娘が運命に殺されることはない」
「お前はそれでいいのか?」
「まあ、抵抗もそろそろ疲れてたからな。次代にたくそうって気持ちだったよ」
「そうか」
「で、どう思う?」
「なにがだ?」
「オレはこのまま、運命通りに死ぬべきだと思うか?」
先代魔王は、軽い調子で問いかけた。
勇者は――
「わからない」
「直感でいいってば」
「違う。今の質問は、俺には答えられない。だって、お前が生きるかどうかなんだから」
「……まあな」
「それでも俺が言えることがあるなら……」
「……」
「心に聞け」
「……」
「生きたければ、生きたらいい。死にたければ、死んだらいい。……難しい話はわからない。だから俺は、『望みに従え』としか言えない。ごめん」
勇者は難しい顔をしていた。
先代魔王は笑う。
「望み、か。オレの、望みねえ。わかったら苦労はしねーんだよなあ」
「……
「でもま、わかったよ。あー、決めた決めた。よし、決めた。いつまでもウジウジしてて悪いな。お前の意見はなに一つ役立たなかったけど、オレは結論出したぜ」
「そうか」
「……いや、嘘だよ。大いに役立った。お前に話してよかったよ。ありがとな」
「気にするな。友達だからな」
「……ハッ」
先代魔王は立ち上がる。
そして――
「じゃあ、日が変わる前に始めるか。――オレの最期の大舞台、名付けの儀式を」
――運命は動き出す。
予定された通りの流れで、予定された通りの結末へと。




