36話
「ちょっとお! 女神! めがみぃ!」
朝。
同窓会翌日だし今日は遅くまで寝ていていい――そう勇者に言われたのに、女神はやっぱり誰よりも早く目覚めてしまった。
習慣というのは怖ろしいものだ。
かと言って二度寝するのももったいない。
どうしようかと思っているうちに、ついフラフラと炊事場に来てしまった。
誰のものかわからない声がかかったのは、そんなタイミングである。
女神は背後――炊事場の入口の方向を振り返る。
誰もいない。
左右まんべんなく見回したところで、人影は見当たらない。
「……え? どこから誰が話しかけてきてるんですか?」
こんな早朝からホラーはやめてくださいよ――そう思いつつ、ふと視線を上にあげた。
いた。
勇者の聖剣が、そのきらめく刀身を今まさに女神に振り下ろそうとしているところで――
「ぎゃあああ!?」
「なによはしたないわね。あたくし、なんにもしてないでしょ」
剣が、甘ったるく、幼く、ちょっと高飛車な声でしゃべる。
その声には敵意はなさそうなのだが、刃物が頭上にあるという状況が怖すぎる。
「あ、あの、話しかけるなら人型になってもらえませんか?」
「別にそんな長話はしないわよ」
「い、いいので、お願いしますから」
「しょうがないわねえ」
仕方なさそうに肩(柄飾り)をすくめて、聖剣が床に降りる。
そして、もうもうと毒々しい紫色の煙を噴き上げ――人型になった。
ズタズタのローブ、角と尻尾のある、全体的に紫色の、高慢そうなかわいらしい少女。
違う世界ならば『悪魔』とか呼ばれそうなコーディネートで全身を統一した、聖剣の精だ。
「ちょっと女神ぃ! あんた、いい加減になさいよ!」
人型になった聖剣の精は、ビシッと女神を指差す。
怒っているようなのだけれど、女神はなにを怒られているかわからない。
「……あ、ひょっとして朝帰りについてご立腹で?」
「違いますう! もういい大人なんだから朝帰りでも夜帰りでも先祖還りでも好きになさいよ! そうじゃなくって、あたくしがあんたにする話なんか、二つしかないでしょ!?」
「一つは――勇者様についてですよね? もう一つは?」
「刃物のことよ!」
そんな話題提供は初めてされたので、女神は困惑する。
こんな早朝に刃物の話題というのも困惑原因の一つだ。
「はあ、で、刃物のこととは?」
「あんた――包丁研いでないでしょ」
「……まあ、まだ切れるのでいいかなと」
「はーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーあ」
こんなに長いため息を初めて聞いた。
聖剣の精は、頭痛をこらえるように額をおさえる。
「あんたたち、生肉に体当たりしたらお風呂入るでしょ?」
「まあ、生肉に体当たりするシチュエーションがちょっと思い浮かばないんですけど……そんなことしたら、お風呂に入りますかね」
「それと一緒なの! あたくしみたいな超パーフェクト刃物ならまだしも、普通の刃物は見えない脂やら汚れやらが堆積するんだから! お風呂入らなきゃ気持ち悪いでしょ!?」
「でも、洗っていますけど」
「水洗いとかなめてんの!?」
「え、ええええ……で、でも、さっきはお風呂でたとえましたよね?」
「そりゃあ、あんたらみたいに肌の柔い生き物はそれでいいかもしれないけど、こちとら繊細で硬質な刃物よ? 見えない傷に溜まった汚れが水洗い程度で落ちると思ってんの!? 傷ごと皮膚を削って平らにならなきゃ汚れは落ちないのよ!」
比喩が痛い。
まあしかし、言っていることは、わかる――刃物を研ぐとは、おおむねそういうことなのだろう、たぶん。
「……わかりました。今日にでも、シャープナーを購入しておきます」
「しゃあぷなああああああ!?」
「な、なんですか……なにが不満なんですか……」
「あんな誰でも簡単に使えるもので、本当に刃物が喜ぶと思ってんの!?」
「いえ、その……いいじゃないですか、誰でも簡単に、一定の成果が出るもの……というか剣の精さんはシャープナーご存じなんですか?」
「あたくしは半分神格化してるのよ!? 神界で扱ってる商品知識ぐらいあるわよ!」
「初耳なんですけど」
「あたくしも初めて言ったわよ! いい!? 勇者様には言うんじゃないわよ! 半分神とか勇者様に聞かれたら、恐れ多くてあたくしを振り回さなくなっちゃうかもしれないでしょ!?」
「いえ、あの勇者様に限ってそれはありえないかと」
「と・に・か・く! 包丁を研ぐために、鍛冶屋を用意なさい!」
要求設備おかしくない?
女神は思う――そもそも鍛冶屋は用意しようと思ってできるものではないだろうに。
「あの、通販でどうにかなるものにしていただけませんか?」
「最近の若者はこれだから!」
「……そういえばあなたは、初代勇者の時代から生きていらっしゃるんでしたね」
「そうよ! あたくしこう見えて年長者なんだから!」
だから考えが古いのか――とさすがに口には出せないが、思った。
シャープナーもいいものなのに……
「しかし現実的にですね、鍛冶屋なんてそのへんに転がってるものじゃないですし」
「転がってないなら転がせばいいじゃないの!」
「いえ、転がせる状況なら転がす前に連れてきますが……」
「揚げ足ばっかりとらないの! ヒップアタックするわよ!」
刺殺を示唆された。
完全に脅迫である――まあ、女神は不滅なので刺されても死なないのだけれど、痛いし怖いので遠慮申し上げたい。
「ええと、じゃあその……朝ご飯の時に勇者様にでも相談してみます」
「最悪誘拐も辞さないわ」
「私としては辞したいところなのですが……」
「誘拐が嫌なら、先に鍛冶屋の家族を連れてきなさい。そうしたら鍛冶屋も自然についてくるから」
「人質!? けっきょく誘拐じゃないですか!?」
「とにかく、あたくしはこれ以上、刃物たちのすすり泣く声を聞くのはしのびないのよ」
「すすり泣くんですか、ウチの刃物……」
「切れ味が落ちるとなにか切る時にちょっとだけ違う音出るでしょ? それを刃物界だと『すすり泣き』って表現するのよ」
「刃物界……」
世の中には色んな界隈があるものだ。
妙なところに感心しつつ、ふと、女神は思いついたことを聞いた。
「あの、その相談なんですけど、私よりも勇者様に直接なさった方がよろしかったのでは?」
「あんた、勇者様を舐めすぎでしょ」
「どういうことです?」
「あの人が食べ物からまないのに動くわけないじゃない」
「あなた、勇者様を舐めすぎでは……?」
「でも、あんたの言うことは比較的聞くから、こうしてあんた伝手に頼んでるんじゃない!」
頼む、とはなんだっただろうか。
脅迫しかされていないような印象を女神は受けているのだけれど……
「わかりました。私から、勇者様に、お願いしておきますね」
「本当に頼むわよ。刃物については他にも色々言いたいことあるんだけど、飲みこんで飲みこんでこれだけは恥を忍んで頼んでるんだから」
「はい、お任せください」
「話は以上。それじゃあ――」
踵を返す――
その状態で、聖剣の精はピタリと動きを止めて、
「――帰る前にもう一つだけいいかしら」
「なんでしょう?」
「なにか切らせて。そうじゃないとあたくし鞘に帰れないわ」
「……」
絶対魔剣だと女神は微笑みながら思った。
今さらすぎるので口には出さないけど。