21話
「まずはご飯にかけてみてくださいね」
女神はそう言うけれど、勇者はまったく同意できなかった。
だってコレはモンスターである。
今朝も食卓で勇者は食事と向き合う――GYU-DONではなく、今朝は女神からのアドバイスもあり、なにも乗せないご飯にした。
そしてみそ汁、そしてお新香。
ここまではいい。
ただし一つだけ異彩を放つ小鉢が存在した。
とろろ。
女神がご飯にかけろと言った、『牛肉とタマネギの煮込み』をどんぶりに盛りつけなかった理由であり――
勇者が手を止めた一品である。
勇者はスプーンをとろろに突き立てる。
だが、突き立たない。
その粘性があり、しかし水のように流動的な性質は、突き入れたスプーンをのみこみ、からめとり、まるで底へ引き込もうとするかのようだ。
百歩譲って底なし沼。
譲らないなら、スライムという粘性のモンスターの白いヤツ。
これがスライムの肉だと言われれば勇者は納得しよう――しかし女神は言うのだ。
「『とろろ』は長芋と呼ばれる野菜の一種をすり下ろしたもので、滋養にいいとされているんですよ。おしょうゆをかけて、混ぜて、それでご飯にかけてみてくださいね」
野菜。
どんな野菜をどうすり下ろせばこうなるというのか、想像もつかない。
それでも勇者は女神を信じることにする。
女神の提供するものは奇妙だったり、微妙だったり、珍妙だったりはするものの、いつだっておいしかったから。
しょうゆをかける。
粘性のある真っ白なとろろをスプーンでかきまぜれば、わすかにしょうゆの色がつく。
香りは――香ばしく、塩気のあるしょうゆのもの。それから、なんだろうこの、今までかいだことのない淡泊な、よくわからないにおい。
「ああ、手などにつくと、かゆくなる可能性があるので、お気をつけて」
小鉢を持ち上げた段階でそんなことを言われてしまった。
手につくとかゆくなる――そんなものを体の中に入れてしまって本当に大丈夫なのか? なにか悪い病気になったりしないのか?
不安は今までになく大きい。
けれど、それでも、女神を信じて――ご飯の上にかける。
とろろは、どろりとご飯の上にこぼれた。
不安以外なにをいだけばいいのか。
スプーンでご飯ととろろをすくう。
真っ白いご飯と、ややしょうゆ色になったとろろとの組み合わせ。
コントラストはGYU-DONを思わせる――少しだけ、ためらいが減る。
かゆくなると言われたので、ことさら大口を開けて、唇に触れないよう、一気に口の中へ放り込んだ。
――ずるん。
瞬間喉奥へ滑り込むとろろ――勇者は呆然とした。
口へ入れた。
けれど、飲み込もうなどと思ったつもりはなかった。
それはそうだ。だって、食事はどんなものだって噛んで味わうことが肝心なのだ。それを、まるで飲み物みたいにするりと飲み込むなどと、しようとはしない。
そもそも――ご飯なのだ。
固形物である。これが一度の咀嚼さえせぬまま喉奥にすべりこむなど、そんなの、ご飯自体が意思を持って体内に侵入してきたとしか思えない。
やはりとろろは生き物なのだろうか?
自らの意思で体内に入り込むモンスターなのか?
そうは思うのに――勇者は、とろろを乗せたご飯を、もう一口食べたくなった。
無気味さを飲み下してまでもう一口食べたいと思わせるなにかが、とろろにはあったのだ。
スプーンですくう。
とろろを乗せたご飯。その見た目はやはり、米の白としょうゆの黒いような、茶色いような色とのコントラスト。
これは間違いなく美しい――いや、おいしい。だっていつも食べるGYU-DONと似た色合いなのだから。
口へ運ぶ。
今度は飲み込んでしまわないよう、その動きには多少の慎重さがあった。
舌に乗せ、喉側に運ばないよう気をつけ、咀嚼する。
食感は、そうだ、半熟卵の白い部分に似ているのだ。
しかも、アレよりよほどなめらかだ。
それだけではない。このぬるりとした――粘性。
歯で押しつぶそうとすれば逃げて、押しつぶせば粘る、この不思議な食感。
風味も独特だ。
今まで経験したことがなく、また、似たものも思いつかない独特な風味。淡泊なのだが、淡泊な味が濃い、とでも言えばいいのか――その独特さは一瞬ためらうものの、悪くない。
さらに噛んでいき味をたしかめよう――
そう思ったのに、するん、と飲み込んでしまう。
勇者は戸惑う。
先ほどもそうだった。飲み込むつもりがないのに、喉の奥にすべりこんでくるような、この感覚。まるでとろろ自身が意思をもって体内への侵入を試みているような、違和感。
三口目をスプーンに――そう考えて、やめる。
まどろっこしい。
勇者はどんぶりをつかむ。
そして、スプーンでとろろを乗せたご飯をかきこむことにした。
ガツガツとかきこむ。しかし、すぐに喉に滑り込んで腹に落ちてしまう。もっと味わいたい。だから行くな――そう思いつつなくなった分だけ口の中にかきこむ。でも駄目だ。すぐに腹へ腹へと落ちていく。
なんだこれは、なんなんだこれは。ご飯は固形物で、とろろだって液体に性質は近いものの、別に飲み物ではない。
だというのに――次々と、よく噛みもせず、だというのにひっかかりもせず、腹へと落ちていくこの食べ物は、いったいなんなのだ!?
香り、味。それが重要なのはわかる。
だがなんだこの――のどごしは!
ああ、駄目だ。とろろを乗せたご飯をかきこむ手が止まらない。
噛んで飲む。よく味わう。それができない――
いや、そうではないのだ。
これこそが、体の求める『とろろ』の味わい方なのだ。
味、風味、それ以上にのどごし。するりするりと体に入っていくこのなめらかさ。
とろろの意思などではない。これこそが、とろろを求める人の――体の意思だ。
うまい、ではない。
味の濃厚さ、歯ごたえ、肉汁――そういったものは、このとろろにはない。
淡泊で、固体か液体かもわからない。噛んでしみだすものも、ない。
だというのに――止まらない。
ああ――終わってしまった。
いつの間にか、食べて、いや、飲んでしまった。
なんという不思議なものだったのであろうか。
味も、食感も、名状しがたいものだった。
これは、足りない。
「女神、とろろをもっとくれ。今度は『牛肉とタマネギの煮込み』と一緒に食べてみる」
自然とおかわりを頼んでしまうような存在。
とろろとは、そんな、不思議な食べ物であった。
「はい、ただいま。ああ、それと勇者様、本日のご予定は?」
毎朝の日課となりつつある質問。
勇者はおかわりを待つあいだ、腕を組んで考え――
「……ミノのエサやり……しか思いつかない」
勇者は牧場長の方を見る。
赤い髪で片目を隠した、頭の左右に角の生えた少女は、勇者の視線を受けてうなずいた。
「すまねえだす。今日もお願いするだす。けんど、今日はウチもミノの小部屋まで行くだす」
「そうか。食われるなよ」
「わかってるだす。でもこういうのは少しずつ覚えていかねえと。いつまでも勇者に頼ってたら、とうちゃんやその前の牧場長に、二代目牧場長として申し訳ねえだす」
「……ん?」
「なんだす?」
「そういえばお前は二代目なのか?」
「そうだす」
「でも、お前のとうちゃんの前にも牧場長はいたのか?」
「そうだす」
「だったら二代目じゃないように俺は思うぞ」
「……そうだすな。でもウチは二代目って、とうちゃんが……あれ?」
牧場長が首をかしげる。
その時、響き渡る笑い声があった。
「ハッハッハ! わたしの出番か!?」
テーブルにのぼりながらそんなことを言うのは、勇者の正面で食事をしていた魔王の娘である。
勇者は首をかしげた。
「お前の出番なのか?」
「そうだ! 魔族の常識について解説が必要なら、それはわたしの出番だろう!?」
「別にちょっと不思議に思っただけで、そこまで興味はないぞ」
「興味持てよ! わたしとの会話イヤか!?」
「別に」
「別に!? イヤなの!?」
「いや、別にイヤではないっていう意味だ」
「そうかそうか……ハーッハッハッハ! 魔族はな、寿命が長いというか、基本不老不死だから在任期間が長いのだ! だから何代目だろうが『現在在任中の者の役割を次に継ぐ者』は二代目と呼ばれる! だって長く勤めてるうちに自分が何代目か忘れるからな!」
「そうなのか」
「そうだ!」
「でも、きょうだいとかいたらどうするんだ?」
「いない!」
「いないのか」
「そうだ。我ら魔族は、基本的に一人っ子なのだ!」
「でも生まれる時もあるだろ?」
「ない! きょうだいがいるとしたら、それは二人以上必要な役割を持つ一族だけだ!」
「そうなのか」
「そうだ。我らは様々なことを運命により定められている……役割、きょうだいの有無、そして――死ぬタイミングもだ」
「そうなのか」
「うむ。魔族は基本的に、子供ができたら『もうすぐ死ぬサイン』と受け取る。自分の役割を継がせる者が生まれ、それを育てながら死んでいくのが魔族なのだ」
「なんかすごいな」
「そうだ、すごいだろう!」
「つまり魔王の娘は、子供ができるまで死なないのか」
「そうだ」
「じゃあ産まなかったらずっと死なないんだな」
「…………」
「魔王の娘、どうした?」
「産む? 子供を?」
「……子供は、産むものだろ?」
「……ハッハッハ! いやそんなまさか、卵じゃあるまいし。子供はそういう担当の魔族がどこからか運んでくるものだろ?」
「そうなのか。俺は魔族の常識に詳しくないからよくわからないが、人族とはけっこう違うんだな。人族の場合だと、人は、人から生まれるんだ」
勇者は納得する。
横で聞いていた女神は、魔族が本当にそういう繁殖形態なのか、それとも子供だから詳しく知らないだけなのか判断がつかなかったが……
「産むだす? ミノだすか?」「産む? 産むってなに?」「魚みたいだね、人って」とザワザワする魔族たちを見て、『ここから性教育とかする流れになったらやだなあ』と思った。
話題を変えることにする。
女神はごほんと咳払いをして――
「ではどうでしょう勇者様、ミノの世話が終わったら、このあたりに新たな魔族がいないか捜してみませんか?」
「ん? ああ、そうだな。それはいいかもしれない。同居人が増えたらメニューが増えるし。でも急にどうした?」
「他に話題の変え方が思いつかなかったので……いえ。ところで、魔王の娘さん」
早く今の話題を忘れ去ってほしいので、次々話題を提供していこうと女神は思った。
魔王の娘はテーブルに乗ったまま、
「なんだ?」
「他に、このあたりに施設はないんですか? 牧場とか、農場みたいな、誰かいそうな施設などは……」
「んー……このへんでおいしいもの、なにか他にあったっけなあ……」
「いえ別に、食べ物関係じゃなくてもいいんですけど……」
「んー……思いつかないな! でもそういうわたしを頼る姿勢、すごくいいと思う! これからもどんどん頼るといいぞ! なにせわたし、次期魔王だし!」
その場にいる全員が『なんて頼りにならないんだ』と思った。
かくして本日の方針がなんら具体性を持たぬまま食事が終わろうという時――
ピンポーン、ピンポーン。
来客を報せる音が屋内に鳴り響いた。
なんだろうと全員が顔を見合わせていると――
ガチャリ。
炊事場に誰かが入ってくる。
黒く長い髪。
真っ白い肌。
そして――赤い瞳の、少女。
薄汚れてはいるが仕立てがいいとわかるドレスに身を包んだその少女は、鼻をひくつかせながら部屋の入口あたりで立ち止まって――
「……おなか、すいた」
そう言うと、ばたん、と倒れた。
その場にいる全員が倒れた少女と――魔王の娘を見比べる。
「……なんかあいつ、わたしに似てない!?」
魔王の娘が言う。
全員が同じ感想だった。
そう、今来た少女は魔王の娘にそっくりで――
魔王の娘より、よほどお姫様みたいな格好をしていたのだ。