16話
勇者の家――
炊事場兼食卓、すなわちダイニングキッチンには、今日も多くの人が集まっている。
テーブルに着いているのは四人だ。
勇者。
魔王の娘。
牧場長と、マンドラゴラ屋。
女神と漁師は、調理をしていた。
勇者は珍しいなと思った。
なにせ、女神が調理を自分ですることは、今までなかったのだ。
だいたい専門の者に任せている。
ミノは牧場主が切り分けた。
マンドラゴラを揚げた時は監督していたものの、実作業はマンドラゴラ屋だ。
しかし――今日は女神が、シンクのあたりで一心不乱になにかをしている。
ゴリゴリと洗濯物を板でこするような、そんな音がする。
なにをどうこすっているのか、それは女神の体に隠れていて、勇者からは見えない。
今勇者がわかることは――においだけだ。
香ばしいにおい。
それは魚が焼ける香りだった。
今晩のメニューは『焼き魚定食』らしい。
これは炊いた『白米』『みそ汁』『焼き魚』、そしてお好みで『生卵』という、贅を尽くした夕食なのである。
もう、メニューを聞いただけでよだれが出そうだ。
あのモチモチの、噛むと甘みがしみ出す、炊いた白米!
朝に初体験した芳醇な楽しいスープ、みそ汁!
それに――焼き魚!
とどめとばかりに生卵までつけていいらしい!
こんな贅沢許されるのか?
人族の英雄になった程度で、ここまで恵まれた食事をしていいものなのか?
勇者は楽しみが大きすぎて逆に不安になってきた。
それにしても――魚が焼けるにおいというのは、素晴らしい。
ジュウジュウという音、香ばしい脂のにおい。かいだだけで絶対においしいとわかる。
待ちきれずに、勇者の腹が鳴る。
そういえば――今日はさっきまで砂浜でずっと遊んでいたせいか、クタクタだ。
いつもより腹が減っている気がする。
早く、早く。
目の輝きは、決して勇者だけのものではないだろう――食卓に並ぶ四人が全員、そんな目をして、魚を焼く漁師の尻を見ている。
ほどなくして――
「焼けましたよー」
そんな声とともに、漁師が皿に乗せた焼き魚を持ってくる。
皿は一人一人の目の前に置かれ、そこには焼き魚が一尾ずつ乗っていた。
細長い形状の魚である。
どうやら魔王領ではよくとれる一般的なもののようだが、勇者は初めて見た。
無駄のない、刀剣のようなフォルム。
やや細身すぎて食いでにとぼしいような気もするが――魚、白米、みそ汁、どれも今日はお代わり自由なのだ。
いずれ山盛りでもらうつもりだが、まずは一尾、いただく。
焼けた銀色の皮にフォークを突き立てる。
皮に刺さった時のパリッとした感触は、よく焼けている証拠だ。反対に、身はほとんど感触がない。柔らかく、ほろほろとフォークを動かすたびに崩れるようだった。
たまらない。これを口に入れたらどんなうまみが広がるのか――想像しつつ、勇者は一口目をいただいた。
噛みしめれば広がるのは魚のうまみだ。
肉にも野菜にもない、独特な風味とともにあふれだす魚の脂。皮はパリパリと楽しく、香ばしい。反対に身はほとんど抵抗なくつぶれていく。焼き魚だというのに、まるでとろけるような、それは極上の食感だった。
ハフハフと口の中で熱を楽しみつつ、二口目をとる。
やはり、うまい。小骨はたしかに厄介なものの――舌でさぐりつつ噛みしめれば、ギュムウ、とつぶれた身からうまみがあふれ出す。小骨を除く時間さえ、おいしい。
三口目――
そう思ってフォークを伸ばしかけた勇者の耳に、女神の声がとどく。
「お待たせしました。いや、私にできるぐらい単純ですけど、結構大変ですね、この作業」
そう言いながらボウルに入れてなにかを持ってくる。
女神はスプーンを使って、全員の皿に、ボウルの中身を入れていった。
それは新雪の積もった丘を思わせる物体だった。
室内照明を受けてキラキラと輝く、謎の存在。フォークでつつけば、その丘は簡単に崩れた。どうやら小さな粒の集合体らしい。
「これはなんだ?」
勇者は問う。
女神は笑顔で答えた。
「マンドラゴラをすりおろしたものです。『大根おろし』の代わりになるかと思い、先ほどおろし金を購入しまして、それで」
なるほど、先ほど女神がしていた作業がそれだったのだ。
勇者はようやく納得して、それから――
「これはどうやって食べるんだ?」
「焼き魚を口に入れてから、入れてください。まあ、一緒に食べてもいいですけれど」
そうやって食べるのか、と勇者はうなずく。
そしてまずは、女神が最初に言った食べ方を試すことにした。
焼き魚を口に入れる。
うまい。相当脂がのっている。身に入った熱もまだまだ冷める気配を見せず、ハフハフと熱々のままいただける。
勇者はそれから、マンドラゴラのすりおろしを口に入れた。
その瞬間――口内でとてつもない変化が起こった。
この世界は過去にあった文明を洪水が押し流し、そのあとにできたらしい――勇者の口内で起こった現象はまさにその世界新生と同じようなものである。
焼き魚の熱さ、脂、そのどちらも、うまさだ。それは間違いない。
しかし――このまま、そのうまさを重ねていけば、どうだ?
口の中は熱い。
脂はどんどん口内にたまっていく。
それはそれで、いいのかもしれない。しかし、ふと、思う時もあるだろう――少し口の中をさっぱりさせたいな、と。
その願いを叶える神の一手こそが、このマンドラゴラのすりおろしであった。
冷たく、シャキシャキで、少しの辛みがある、このすりおろし。
口内に入れれば熱を洗い流し、脂を洗い流し、口の中を最初の状態に戻してくれる――口内の新生を行うのだ。
長く積み重なり、人の手ではとても綺麗にしきれないものを、綺麗にする――まさしくこれは神の一手に他ならない。
しかもこの口内新生は何度だってできるのだ。
魚の脂と熱さを好きなだけ楽しみ――
そろそろ口の中をさっぱりさせたいなと思った時、ほおばる。
なるほど今までこんなふうな魚の食べ方を知らなかった理由も、わかる。
この組み合わせは完全無欠すぎて、とても人では思いつくことができない。
神ならではの深謀遠慮。
人の手によらぬ完全なる組み合わせの妙こそが、『焼き魚とマンドラゴラのすりおろし』なのであった。
「……すごいな」
ふう、と勇者は息をつく。
とてつもない満足感だ。同時に、まだまだもっと食べたい、魚に頭からかぶりつきたいという欲求も出てくる。本当に――うまいものは、不思議だった。
「おいしいお魚を焼いたら、やっぱり大根おろしがほしいですよね。生で食べるのでしたら、わさびとか、しょうがとか、そういうのもよくって――だから、お魚にはとにかくおろし金だと、そう思ったんです」
「女神、やるな。うまい。ありがとう」
「どういたしまして。あなたが喜んでくださることが、私の幸福です」
女神が恭しく礼をする。
勇者はそれを見てから、漁師の方へと視線を向けた。
「漁師もありがとう。魚、うまい」
「いやあ、そう言ってもらえると、ボクもサンもがんばったかいがあるよ」
「サンはどこだ?」
「あの子は海にいるよ」
「じゃあ、サンにもありがとうをしに行かないといけないな」
「うん。……あ、あと、サンに食糧をもらっていいかなあ? リヴァイアサンっていう魔物は海のものは食べないんだよ。海の守護者だから……その習性を利用して、ボクら漁師は漁をしてるわけなんだけど」
「海の守護者を利用して海のものをとるのか」
「うん、そうだよ」
「……なんかすごいな。ああ、でも、そうか。俺もサンも似たようなものかもって、今なんとなく思ったぞ」
「そうなの?」
「……なんかそんな気がした。俺、サンと仲良くなれそうだ」
「そう? よかった。サンはボクの相棒だからね。サンを気に入ってくれるなら、ボクも嬉しいよ。あとでサンもこの家に住んでいいのかなあ?」
「そうか。いいぞ」
「……勇者が魔物と魔族を絶対殺すとかいう人じゃなくって、よかったよ」
「そうか」
「ねえ、ボクらのこと憎くないの?」
「別に。仕事で戦ってただけだし。むしろ、お前らこそ俺が憎くないのか?」
「ボクらの敵は運命だから。まあ――もちろん、複雑な気持ちはないわけじゃないよ。運命だけが敵だ、って他全部を割りきることは、魔族にだって難しい。そこまで超越してたのは先代の魔王さまだけだと思う」
「そうか」
「でも、ボクは漁師だから。仕事で命を奪うこともあるってわかってるし。ボクは魚が憎くて魚をとってるわけじゃないしね。きっと勇者もそういうことなんでしょ?」
「そうだな。俺は魔王好きだった」
「魔王さまのこと好きなの!?」
「こいつじゃない。先代だ」
「……えっ!? 先代って……男……?」
「男だったと思うぞ」
「男なのに、男が好きなの!?」
「……なにかおかしいのか?」
「えっ、あ、うーん……そっかあ。なるほど、なるほど」
漁師はうなずいた。
女神はあとで詳しく話をする必要があるなと思った――いや、それは男が男を好き、の意味をもっと深く……すなわち『友情』と『愛情』の違いを、ということで、邪念はないが。
「とにかく俺はお前らに恨みはない。戦いの中で仲間は死んだけど、その怒りを魔族全体にぶつけるのは筋違いだと思ってる。だからお前らが俺に危害を加えない限り、俺もお前らに危害は加えない。それ以上に、お前らみんなうまいから、守るぞ」
お前らみんなうまい(ものを提供してくれる)から、守るぞ、ということなのだろう。
勇者の言葉遣いはへたくそなので、聞く側に捕捉能力が求められるのだ。
そして――
「えっ!? 味見したの!?」
漁師はどうにも、捕捉能力がない子らしかった。
というか耳年増すぎる。
あとでじっくり話をする必要がありそうだ――女神はそう思った。
▼
翌朝。
女神は炊事場に入ると、二つの変化を察知した。
一つは、食卓だ。
昨日の夜まではたしかに六人掛けだったテーブルが、八人掛けになっている。
すなわち伸びていて、椅子が二脚増えている。それにともない、炊事場も若干広くなっているような気がした。
そろそろこの家の特殊な仕様に慣れ始めている女神だったが、これはもう、軽くホラーの領域にあった。
勇者たちは――気付かないんだろうなあ、たぶん、と女神は肩を落とす。
そしてもう一つは、謎の白い箱が増えているという変化だった。
この家における『かまど』――精霊力コンロのすぐそば、壁にぴったりと張り付くように、女神がすっぽり入れそうな大きさの箱が、出現していた。
その箱には把手のついている面があり、それをつかんで部屋のドアのようにガチャリと開けるもののようだ。
というか――
「……冷蔵庫がついに我が家に導入されましたか」
これでいちいち精霊魔法で冷やさなくても冷たいマンドラゴラおろしができる。
そう喜び、冷蔵庫を開けた。
……そして、真顔になった。
中にはギッシリと青い小鉢が入っている。
小鉢の中身はどうやら野菜のようだ。
中身が全体的に白っぽい小鉢と、赤っぽい小鉢、二種類が存在する。
女神は冷蔵庫を閉じてから、指を振る。
すると、指の軌跡をなぞるように光がはしって、神界の文字がつむがれた。
「……『信者が増えて女神の力が強くなったので、お新香とキムチがメニューに追加されました』……まあ、その、ありがたいんですが……」
こんなにギッシリ詰められても困ります。
女神は神界のある方向――すなわち天を仰いで、そんなことを思った。