15話
それは一本の巨大な槍――かと思ったが、どうにも違う。
生き物だ。
水しぶきをあげながら迫り来る、飛槍のような生き物――魔物。
青白いものは皮膚ではなく、陽光をうけてきらめく鱗だ。
その長さは女神を縦に並べたより長く、その太さは魔王や牧場長の胴体ぐらいある。
そんなものが、高速で――目を閉じたままの勇者めがけて飛来する。
「ん?」
かわせるはずがない一撃。
当たれば胴体が消失しそうなそれを、勇者は左手一本で、つかんで止めた。
「なんだ? 女神か?」
勇者はまだ目を開けていないらしい。
いや、そんなの私知りませんよ――そう思う女神の視界に、なにかが降ってくる。
ひゅーん、べちゃ。
砂浜に顔面から降り立ったのは――尻、だった。
ふんどし姿なのである。
上に着ているのは、白い簡素な羽織りだけだ。
異世界で言うところの旧式海女スタイルという感じだ。――その呼称が一般的か、異世界人ならぬ女神は知らないが。
その、どうやら子供らしい体格の持ち主は、右手に銛を持っていた。
なぜ銛を持った子が空から降ってくるのだろう、今日の天気はいったいどうなっているのか――そんなことを思っていると、尻丸出しの子が起き上がる。
それは青い髪の、物静かな印象の子供だった。
よくよく見れば顔の両側にエラみたいなものがある――人の特徴ではない。魔族だ。
その子は無表情のまま、ぶつけた衝撃のせいだろう、鼻を真っ赤にして、ちょっと泣いていた。
しかし女神がその子の顔を見ることができたのも一瞬だ。
その子はすぐさま女神に尻を向け――勇者の方を向き、言う。
「ふふふ……まさかボクとサンの突進を受け止める人間がいるとはね」
サン――というのはたぶん、勇者に鼻先をつかまれ、ビチビチ跳ねている、青白く細長い海洋生物だろう。
つまりあの子は魔物につかまるか乗るかして勇者めがけて突進し、その突進を止められた反動で吹き飛んで、顔から砂浜に着地した、のだろうか?
状況の把握が厄介だった。
ともあれ、尻――ではなく、青髪ふんどしエラの子が、銛の先を勇者に向ける。
女神からは尻しか見えない。
「人間! 名前を聞いておこうか!」
「俺は勇者だ。名前はなくした」
「…………ふっふっふ…………そうか。お前が勇者か! 魔王さまを倒し、魔族の領土を侵攻し、ボクらの海まで攻め入ってきたと、そういうことかな?」
「そんなつもりはない」
「そうか。まあ、お前がなんと言おうと、ボクは魔族であり、お前は人族。戦いの定めがこの血に刻まれている……」
「そうか」
「だが――まあ、そうだな。これからボクが言うことをよく聞けば、戦いを避けられるかもしれないぞ」
「なんだ?」
「まあ、落ち着いてくれ。ボクはこう見えてまだ子供だ。しかも、女の子なんだ」
「目を開けてないから見えない」
「港町の侵攻戦で両親に先立たれ、こうして魔王領の海で一人、来る日も来る日も魚をとり続けている真面目な漁師なのさ」
「そうか」
「お前を攻撃したのだって、やらなきゃやられるからだ。奇襲をしたのは、まだ子供で、実力がないあらわれ――そう思ってもらって、かまわない」
「そうか」
「ボクが哀れで、真面目で、まだ幼く、今は未熟だが将来性があることを理解してもらったうえで――お前に言いたいことがある」
「なんだ?」
「見逃してください。ボクはまだ死にたくないです。あと、サンを放してください。そいつもまだ子リヴァイアサンなんです」
漁師を名乗る少女は、地面に平伏し尻を突き出した。
これは魔族にある『正座』からの『土下座』という平伏の意思を示す動作なのである。
まあ、女神の側からは尻しか見えないが……
「そうか。わかった」
勇者は平伏の姿勢を見ていないはずだが、承諾した。
つかんでいた『サン』とかいう生き物を放す。
サンはびちびちと跳ねながら、蛇のような動作で漁師のもとへと近寄る。
そして――
「きゅーんきゅーん」
「サン! よかった、無事で……」
抱きしめ合う。
鳴き声が完全に犬なので、見た目とのギャップがひどい。
また、幼げな少女と細長い生き物が絡み合うシーンは、なにかとても危険な感じだった――ふんどしのせいで尻丸出しなので、なおさらだ。
サンは慣れた動作で漁師の腰あたりに絡みつき、漁師の背中に腹をつけ、右肩に顎(?)を乗せた。
どうやら定位置らしい。
「じゃ、ボクらはこれで……」
どこか卑屈な笑みを浮かべつつ、一人と一匹は海に帰ろうとする。
それを――
「待て」
勇者が、止めた。
漁師がビクリと体を止める。
「な、なんです? ボクら見逃してもらったんだよね?」
「お前、漁師なのか?」
「あ、はい。そうだよ」
「つまり魚をとってる」
「……はい」
「魚食いたい。魚にもうまいものがあるって今朝知ったし。分けてくれるか?」
「い、いやあ……ボクらの役割はほら、『魚をとること』『魔王に従うこと』『海軍を率いて人に負けること』だから……魚を分けるのには魔王さまの許可がないと」
「魔王ならそこにいるぞ。娘だけど」
「えっ?」
漁師がようやく気付いたように、女神たちの方向に顔を向けた。
今までポカンと様子を見守っていたので、結果的に存在感が消えていたようだ。
「あ、本当に魔王さま……」
漁師がつぶやく。
その時になってようやく、魔王の娘は意識を取り戻したようだ。
あまりのことに呆然としていたらしい。
「ん、は、ハッハッハ……? 我は魔王の娘であるぞ……」
状況を把握しきれていないのか、笑い声にキレがない。
それでも、漁師には充分だったらしい。
魔王の娘の目の前まで駆けてきた。
「魔王さま! ご無事だったんですね! 一族郎党全員ヒラキにされたかと!」
「な、なんだお前……発想が怖いな……まあ、その、えっと、とにかく漁師よ、今、わたしは色々勇者に任せてるから、勇者が魚食べたいって言うなら、いいよ」
「いいんですか!? やった! 殺されないですむ!」
「いや、勇者は別にちょっと要求を断わったから殺すようなやつでは……うーん……どうだろ、実はよく知らないな……勇者、どう? あきらめろって言ったら、あきらめられる?」
魔王の娘がたずねる。
勇者は目を閉じ、こちらに背を向けたまま答える。
「あきらめるしかないなら仕方ないけど、俺はうまいものを食うためならだいたいなんでもするぞ」
「……その『なんでも』が怖いんだよなあ……で、でも、漁師よ! たぶん大丈夫だ! 勇者はことのほかいいヤツだから! ご飯いっぱいくれるし!」
魔王の娘は餌付けで人に懐くようだった。
世界平和の鍵はご飯が握っているのかもしれない。
「わかりました! じゃあ、ボクとサンでとった魚を、分けます!」
「あとお前もついでに勇者の家に住め! わたしが許可する!」
「え、でも……」
「もう牧場長とマンドラゴラ屋も住んでるから! お前が住んだら隙のない布陣になる!」
「隙のない布陣?」
「肉と野菜と魚!」
「……あ、お食事的な意味なんですね!」
「他になにかあるのか?」
「ナンニモナイデスヨ」
平坦な声だった。
まあ、魔王の口から『隙のない布陣』とか聞かされたら、対勇者パーティーみたいなものを想像するのが、魔族的には普通なのかもしれない。
「とにかくそういうことでいいな、漁師よ!」
「はい。魔王さまがそうおっしゃるなら、ボクはもう全然従っちゃいますよ。よかった。戦わないでいいんだ……絶対殺されると思うし、そういうのなら、ものすごく気が楽です。ボクはただ海が好きなだけだから、戦いとか、嫌なんですよね」
安堵したように笑う。
ともあれ――今晩の食事は決まったようだ。
魚。
どう食べるかはまだ未定だが、魚ならば用意して損がないものを、女神は思いつく。
帰ったらあるものを注文しようと心に決めつつ――
女神は、マンドラゴラ屋に言う。
「あの、マンドラゴラを一つか二つ、夕飯前にいただけますか?」
「……いいけど、なにすんの?」
「いえ、魚ですからね。――すり下ろそうかと、思うんですよ」