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雨の檻  作者: 藤堂かのこ
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 ふと我に返ったのは、雨の音に混じって呼び鈴の音が聞こえたからだった。

 のろのろと立ち上がって玄関を開けると、いつもより控え目な化粧のユキノが立っていた。

 ドアを開けるなり、ユキノは顔をしかめる。

「あっつ。窓開けてないの?」

「雨、入るから」

「せめて扇風機くらいまわしたら? すっごい熱気がこもってるわよ、この部屋。熱中症になっちゃう」

 言いながら、勝手に台所の窓を開け始める。風の向きが反対なのか、窓を開けても雨は入って来なかった。代わりに、濃い雨の匂いがゆったりと部屋を満たしていく。

「お線香あげさせてくれる?」

 彼女を拒む気力もなかった。敷居の上に立って、父の遺骨に手を合わせるユキノを見守る。

 彼女は静かに目を開けると、和室のテーブルに持ってきた紙袋を置いた。

「これ、余計なお世話だろうけど差し入れ。ご飯、まともに食べてないでしょう?」

「……食べたくないです」

「体もたないよ?」

「そういうのウザいです。頼んでないし、余計なお世話」

「性格全然似てないのね、美雨さんと。顔はそっくりなのに」

「……何で、母さんの名前」

「高校の時の恩師なの。美雨さんも、あの人も」

「え」

「知らなかった? まあ、貴方を生んだ時には、美雨さん教師を辞めてたものね」

 知らなかった。そんなこと。

「これ、本当はダメだけど」

 ユキノはブランド物のバッグから城南クリニックと書かれたグレーの封筒を取り出して、私の胸に押しつける。

 疑問符を浮かべながら封筒を受け取ると、ユキノが空いた手で私の髪を梳いた。初めて、彼女の顔を正面から見た気がする。意志の強さを想わせる、綺麗な黒の瞳。その目元は、少しだけ赤く腫れている。

「私は、貴方が羨ましかった」

 彼女はそう言って寂しげに笑うと、呆然とする私を残して部屋を出ていった。

ユキノのヒールの音の余韻を聞きながら、立ったまま封筒を開ける。中には、父のカウンセリング記録と、日記が入っていた。主治医の名前は、澤村雪野。

 日付は、事故から三年後、私が中学校に上がった年の、七月から始まる。父が仕事を辞める、少し前だった。そして、最後の日付は父が死んだ、その日。


『美雨を亡くしたあの時、水瀬に「美雨」と呼びかけたのは、あの子の中に彼女の面影を見たのが嬉しかったからだ。「お父さん」と呼ぶ小さな声が聞こえて、あんなにうるさかった雨がやんだような気がした。一人きりじゃないのだと、小さな手のひらが教えてくれたようで、嬉しくて、愛おしかった。

けれど、あの呼びかけはあまりに軽率だった。

 水瀬は、どんどん美雨に似ていった。自然と、そして、多分、意図的に。

 だから、距離を置いた。水瀬が自分を取り戻すように。同時に、自分があの子を身代りにしてしまわないように。美雨にそっくりな顔で、物言いたげに見つめられることが怖かった。けれど、そんなことをしても、取り返しのつかないところまで来ていたのかもしれない。

 もし私があの子を愛せば、残るのは「美雨」で「水瀬」は消える。あの子は、自分を消してしまう。恐らく、自分では全く意識することなく。

今でも、あの時の自分を後悔している。

 水瀬が消えてしまう前に、私が消えようと思う』


 日記を手にしたままで、どのくらい立ちつくしていただろうか。

 ふと顔を上げると、キッチンの奥、洗面台の鏡の中に母そっくりな自分がいる。フラフラと歩み寄って、鏡の中の自分に手を伸ばした。

 母と同じように髪を伸ばして、頑なに家を出ようともしないで、不様なくらいに愛されたいと願っていた。父に見てほしいから母のようになることを望んだ。それが、何を意味するのかなんて、考えもせずに。

 こんなにも、大事にされていた。

 父は、ちゃんと『私』を見ていたのに。

「私が、殺した」

 口元にひきつった笑みが浮かぶのと一緒に、悲鳴に似た衝動が喉にせり上がってくる。叫ぶ代わりに、衝動に任せて鏡を殴りつけた。

 簡単に壊れると思ったのに、何回殴りつけても鏡はヒビすら入らなかった。ムキになって何度も何度も殴りつける。鏡が割れて、手首が切れて、赤い血が流れ出すまで。

 洗面台に散らばる血のついた破片に、母そっくりな自分の顔が映る。

 貪欲に愛情を求めたなれの果て。吐き気がするほど、醜悪な姿。

 大きな欠片を握りしめて、伸ばし続けた髪を夢中で切った。

 指や首筋が切れて血が流れようが、どうでもよかった。

 母でも父でもない。私が死ねば良かった。

「……そっか」

 そうだ。私が死ねばいいんだ。

 口元に恍惚に満ちた笑みが浮かぶ。

 首元にあてた破片を握る手に力を込めると、指と手のひらに温かい血の感触。首筋に触れた冷やかな線が熱に代わるその瞬間、強い力で腕をつかまれた。

 呆然と振り向くと、水都が静かに私を見返していた。

「何で……」

「カギ開いてた」

「……何で、止めちゃったの……?」

「救急車、呼ぶから」

 手の平から鏡の欠片が落ちる。

 水都が黙って応急処置してくれる間、私はただぼろぼろと涙をこぼし続けていた。


 古びた汚いアパートの前。明るい金の髪と、着崩した制服、腕に仔猫を抱いた水都。首や腕から流血して、血まみれの制服を着た私。二人が一つのビニール傘の下に佇んでいるのは、ひどく歪に見えた。

「アンタはさ、もっとちゃんと感情表現した方が良いよ」

「……無理」

 ぼそりと呟くと、水都は「だろうね」と困ったように笑う。

「普通に感情表現できてれば苦労しないか」

「私はいつか、水都のことも殺しちゃうかもしれないよ」

 言うと、水都は少しだけ瞳を大きくして、切なげに笑う。

「……そういう選択肢もアリだったかな」

 笑顔が解けた一瞬、泣きそうになった表情は、やっぱり父に似ている。

 けど、水都を作る輪郭は、父よりももっと曖昧で儚い。降りしきる雨が描く、清涼な境界線のようだ。

「忙しいとこ悪いんだけどさ、俺、今日ここ出ることにしたから。だから、挨拶」

「どこ、行くの?」

「そのうちわかるよ。本当はもうちょっと早く出て行くつもりだったんだけど、アンタと会って予定が狂った」

「……私も、連れてってくれる?」

 綺麗な顔に浮かぶのは、落ち着いた柔らかい笑み。

 私と向き合って、乱れた髪をなでた。

「ダメ。俺がいたら、アンタはきっとここから出られないから」

「ここ……って?」

 煙るような雨で水都の肩の向こう側も見えない。外から置き去りにされたような空間で、水都の金の髪を透明な雨粒が滑る。ひとつ。ひとつ。曖昧な彼の輪郭を撫でて行く。

「ここを出られたらどうなるのか、いつか俺に教えて」

「……意味が、わかんない」

 出て行くって言ってるのは水都の方なのに。

「ずっと気持ち悪かった。鏡見てるみたいで」

「……水都?」

「でも、水瀬のこと結構好きだった」

 水都は今まで見せたことのない穏やかな表情で笑って、包帯の巻かれた右手で私の髪をなでる。

 整った顔がゆっくりと近付いて、掠めるだけのキスをした。

「髪、短い方が似合ってる」

 それだけ言うと、彼は傘を私の手に握らせて踵を返した。

 救急車のサイレンの音が聞こえてくる。雨に煙る景色の中、見送った後ろ姿は一度も振り返らなかった。


 水都の訃報を聞いたのはその次の日だった。


 つい先日父が焼かれたばかりの場所。

 現実感がないまま、斎場を見下ろせる土手に立って、風に揺れる夏草と自分の腕に巻かれた包帯を見つめていた。夏の葬列が伸びていく。水都と、彼の母親を悼むための。

 父の日記を読んだあの日、鏡で切った傷は笑えるほど浅かった。指の方は何針か縫ったけど、首の傷は皮膚を薄く切っただけ。一晩入院しただけで、次の日の朝には深谷先生が迎えに来てくれた。

 先生はタクシーの中で、水都が亡くなったことと、彼の母親が精神を病んでいたことを教えてくれた。

「芦原くんは、双子のお兄さんを事故で亡くしてるの。以来、お母さんは芦原くんをずっとお兄さんとして扱っていたみたい。雨じゃない日は、彼が側を離れようとするだけで泣き叫んだり、自殺しようとしたりするんだって。お父さんも、自分の奥さんの変わりように耐えられなくなったみたいでね。芦原くんだけがお母さんの側を離れなかった。でも、お母さんはどういうわけか、雨の日だけ正気に戻るんですって。それで、芦原くんを虐待していた」

 そうだったんだ、と呟くと同時に、全てが繋がって胸の中に落ちた気がした。

だから、雨の日しか会えなかったんだ。雨が降らない日は『海斗』の代わりをしてたから。きっと、お母さんのために。

「貴方が『水都』って、名前で呼んでくれて、嬉しかったって」

 柔らかな笑顔を浮かべる先生の顔は、今にも泣きだしそうに見えた。

 いつもより長い梅雨が終わって、風に濃い夏の匂いがしていた。

 見上げた空は眩しいほどに蒼く澄んで、入道雲の中に立ち上る煙が溶けていく。雨の季節はあの雲の彼方。もう、私の手は届かない。

 お母さんとのことをもっと早く知っていたら、こんな結末は迎えなかっただろうか。

 ――ううん。きっと、同じだった。

 だって、彼は選んだんだ。お兄さんとして愛されることより、自分自身でいることを。

「良かったー。もうなくなってて」

「なあ、首のない仔猫の死体って本当か?」

 静かに、空へ向けていた視線を下ろした。乾いた道路の向こうから、中学生くらいの男の子二人が歩いてくる。

「信じてねーな? 本当にこの辺で見たんだって! 赤茶の毛の、首のない猫!」

「車に轢かれたとかじゃねーの? 今そういうのあると『動物虐待!』とかいってすぐニュースになるじゃん」

「……そりゃ、そうだけど。うーん、だけどなあ」

 すれ違っていく男の子たちの背中を目線だけで追いかけて、それから静かに踵を返した。

 そっか。あの子は、ちゃんと連れて行ってもらえたんだ。


 水都と初めて会った藤棚の下に行くと、植え込みの中にくたくたになった段ボールが残っていた。座り込んで指をかけると、中にエメラルドグリーンのリボンが入っている。可愛い鳴き声が耳の奥で響いて、小さく胸が痛んだ。

「……お兄さんには、会えた?」

 そっとリボンを撫でると、爪先に小さな雫が触れる。疑問符を浮かべて、リボンを目線の高さに持ち上げると、木陰からこぼれる夏の光を浴びて、淡い光がきらりと揺れた。

 まるで、雨上がりの葉に残る雫のような、雨の季節の名残。水都の金色の髪の耳元で光っていた、小さな光。

 ぽとりと、涙がこぼれた。

「……見つけた。水都」

 宝物みたいにリボンを胸に抱きしめて、そっと目を閉じた。

 何回でも思い出せる。儚くて曖昧な、彼の柔らかい輪郭。

 きっと、水都の周りにも、私の夢の中みたいに雨が降ってた。私の夢みたいに、自分を消してしまうものじゃない。彼をほんの少しだけお母さんから遠ざけて、自分自身でいさせてくれる優しい雨。水都を守ってくれる音。

 だから、彼の隣はあんなにも優しくて、苦しいほど切なかった。

 もう二度と会えない。けど、彼が確かに私の隣にいた証が、ここにある。

 一緒に行こう。

 公園の鮮やかな緑を鳴らして、夏の匂いがする風が吹き抜けていく。

 風に優しく背を押されるように、ゆっくりと一歩踏み出した。

 一歩、また一歩。歩くたびに強さを増して、しっかりと大地を踏んで背筋を伸ばして歩く。

 短く切り揃えた髪が頬を撫でる。

 長い間私を縛り付けていた枷が消えた体は、驚くほどに軽い。

 雨が洗い流していった世界は、眩しいほど輝いて目の前にある。


 私は、ここで生きていく。



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