7
ふと我に返ったのは、雨の音に混じって呼び鈴の音が聞こえたからだった。
のろのろと立ち上がって玄関を開けると、いつもより控え目な化粧のユキノが立っていた。
ドアを開けるなり、ユキノは顔をしかめる。
「あっつ。窓開けてないの?」
「雨、入るから」
「せめて扇風機くらいまわしたら? すっごい熱気がこもってるわよ、この部屋。熱中症になっちゃう」
言いながら、勝手に台所の窓を開け始める。風の向きが反対なのか、窓を開けても雨は入って来なかった。代わりに、濃い雨の匂いがゆったりと部屋を満たしていく。
「お線香あげさせてくれる?」
彼女を拒む気力もなかった。敷居の上に立って、父の遺骨に手を合わせるユキノを見守る。
彼女は静かに目を開けると、和室のテーブルに持ってきた紙袋を置いた。
「これ、余計なお世話だろうけど差し入れ。ご飯、まともに食べてないでしょう?」
「……食べたくないです」
「体もたないよ?」
「そういうのウザいです。頼んでないし、余計なお世話」
「性格全然似てないのね、美雨さんと。顔はそっくりなのに」
「……何で、母さんの名前」
「高校の時の恩師なの。美雨さんも、あの人も」
「え」
「知らなかった? まあ、貴方を生んだ時には、美雨さん教師を辞めてたものね」
知らなかった。そんなこと。
「これ、本当はダメだけど」
ユキノはブランド物のバッグから城南クリニックと書かれたグレーの封筒を取り出して、私の胸に押しつける。
疑問符を浮かべながら封筒を受け取ると、ユキノが空いた手で私の髪を梳いた。初めて、彼女の顔を正面から見た気がする。意志の強さを想わせる、綺麗な黒の瞳。その目元は、少しだけ赤く腫れている。
「私は、貴方が羨ましかった」
彼女はそう言って寂しげに笑うと、呆然とする私を残して部屋を出ていった。
ユキノのヒールの音の余韻を聞きながら、立ったまま封筒を開ける。中には、父のカウンセリング記録と、日記が入っていた。主治医の名前は、澤村雪野。
日付は、事故から三年後、私が中学校に上がった年の、七月から始まる。父が仕事を辞める、少し前だった。そして、最後の日付は父が死んだ、その日。
『美雨を亡くしたあの時、水瀬に「美雨」と呼びかけたのは、あの子の中に彼女の面影を見たのが嬉しかったからだ。「お父さん」と呼ぶ小さな声が聞こえて、あんなにうるさかった雨がやんだような気がした。一人きりじゃないのだと、小さな手のひらが教えてくれたようで、嬉しくて、愛おしかった。
けれど、あの呼びかけはあまりに軽率だった。
水瀬は、どんどん美雨に似ていった。自然と、そして、多分、意図的に。
だから、距離を置いた。水瀬が自分を取り戻すように。同時に、自分があの子を身代りにしてしまわないように。美雨にそっくりな顔で、物言いたげに見つめられることが怖かった。けれど、そんなことをしても、取り返しのつかないところまで来ていたのかもしれない。
もし私があの子を愛せば、残るのは「美雨」で「水瀬」は消える。あの子は、自分を消してしまう。恐らく、自分では全く意識することなく。
今でも、あの時の自分を後悔している。
水瀬が消えてしまう前に、私が消えようと思う』
日記を手にしたままで、どのくらい立ちつくしていただろうか。
ふと顔を上げると、キッチンの奥、洗面台の鏡の中に母そっくりな自分がいる。フラフラと歩み寄って、鏡の中の自分に手を伸ばした。
母と同じように髪を伸ばして、頑なに家を出ようともしないで、不様なくらいに愛されたいと願っていた。父に見てほしいから母のようになることを望んだ。それが、何を意味するのかなんて、考えもせずに。
こんなにも、大事にされていた。
父は、ちゃんと『私』を見ていたのに。
「私が、殺した」
口元にひきつった笑みが浮かぶのと一緒に、悲鳴に似た衝動が喉にせり上がってくる。叫ぶ代わりに、衝動に任せて鏡を殴りつけた。
簡単に壊れると思ったのに、何回殴りつけても鏡はヒビすら入らなかった。ムキになって何度も何度も殴りつける。鏡が割れて、手首が切れて、赤い血が流れ出すまで。
洗面台に散らばる血のついた破片に、母そっくりな自分の顔が映る。
貪欲に愛情を求めたなれの果て。吐き気がするほど、醜悪な姿。
大きな欠片を握りしめて、伸ばし続けた髪を夢中で切った。
指や首筋が切れて血が流れようが、どうでもよかった。
母でも父でもない。私が死ねば良かった。
「……そっか」
そうだ。私が死ねばいいんだ。
口元に恍惚に満ちた笑みが浮かぶ。
首元にあてた破片を握る手に力を込めると、指と手のひらに温かい血の感触。首筋に触れた冷やかな線が熱に代わるその瞬間、強い力で腕をつかまれた。
呆然と振り向くと、水都が静かに私を見返していた。
「何で……」
「カギ開いてた」
「……何で、止めちゃったの……?」
「救急車、呼ぶから」
手の平から鏡の欠片が落ちる。
水都が黙って応急処置してくれる間、私はただぼろぼろと涙をこぼし続けていた。
古びた汚いアパートの前。明るい金の髪と、着崩した制服、腕に仔猫を抱いた水都。首や腕から流血して、血まみれの制服を着た私。二人が一つのビニール傘の下に佇んでいるのは、ひどく歪に見えた。
「アンタはさ、もっとちゃんと感情表現した方が良いよ」
「……無理」
ぼそりと呟くと、水都は「だろうね」と困ったように笑う。
「普通に感情表現できてれば苦労しないか」
「私はいつか、水都のことも殺しちゃうかもしれないよ」
言うと、水都は少しだけ瞳を大きくして、切なげに笑う。
「……そういう選択肢もアリだったかな」
笑顔が解けた一瞬、泣きそうになった表情は、やっぱり父に似ている。
けど、水都を作る輪郭は、父よりももっと曖昧で儚い。降りしきる雨が描く、清涼な境界線のようだ。
「忙しいとこ悪いんだけどさ、俺、今日ここ出ることにしたから。だから、挨拶」
「どこ、行くの?」
「そのうちわかるよ。本当はもうちょっと早く出て行くつもりだったんだけど、アンタと会って予定が狂った」
「……私も、連れてってくれる?」
綺麗な顔に浮かぶのは、落ち着いた柔らかい笑み。
私と向き合って、乱れた髪をなでた。
「ダメ。俺がいたら、アンタはきっとここから出られないから」
「ここ……って?」
煙るような雨で水都の肩の向こう側も見えない。外から置き去りにされたような空間で、水都の金の髪を透明な雨粒が滑る。ひとつ。ひとつ。曖昧な彼の輪郭を撫でて行く。
「ここを出られたらどうなるのか、いつか俺に教えて」
「……意味が、わかんない」
出て行くって言ってるのは水都の方なのに。
「ずっと気持ち悪かった。鏡見てるみたいで」
「……水都?」
「でも、水瀬のこと結構好きだった」
水都は今まで見せたことのない穏やかな表情で笑って、包帯の巻かれた右手で私の髪をなでる。
整った顔がゆっくりと近付いて、掠めるだけのキスをした。
「髪、短い方が似合ってる」
それだけ言うと、彼は傘を私の手に握らせて踵を返した。
救急車のサイレンの音が聞こえてくる。雨に煙る景色の中、見送った後ろ姿は一度も振り返らなかった。
水都の訃報を聞いたのはその次の日だった。
つい先日父が焼かれたばかりの場所。
現実感がないまま、斎場を見下ろせる土手に立って、風に揺れる夏草と自分の腕に巻かれた包帯を見つめていた。夏の葬列が伸びていく。水都と、彼の母親を悼むための。
父の日記を読んだあの日、鏡で切った傷は笑えるほど浅かった。指の方は何針か縫ったけど、首の傷は皮膚を薄く切っただけ。一晩入院しただけで、次の日の朝には深谷先生が迎えに来てくれた。
先生はタクシーの中で、水都が亡くなったことと、彼の母親が精神を病んでいたことを教えてくれた。
「芦原くんは、双子のお兄さんを事故で亡くしてるの。以来、お母さんは芦原くんをずっとお兄さんとして扱っていたみたい。雨じゃない日は、彼が側を離れようとするだけで泣き叫んだり、自殺しようとしたりするんだって。お父さんも、自分の奥さんの変わりように耐えられなくなったみたいでね。芦原くんだけがお母さんの側を離れなかった。でも、お母さんはどういうわけか、雨の日だけ正気に戻るんですって。それで、芦原くんを虐待していた」
そうだったんだ、と呟くと同時に、全てが繋がって胸の中に落ちた気がした。
だから、雨の日しか会えなかったんだ。雨が降らない日は『海斗』の代わりをしてたから。きっと、お母さんのために。
「貴方が『水都』って、名前で呼んでくれて、嬉しかったって」
柔らかな笑顔を浮かべる先生の顔は、今にも泣きだしそうに見えた。
いつもより長い梅雨が終わって、風に濃い夏の匂いがしていた。
見上げた空は眩しいほどに蒼く澄んで、入道雲の中に立ち上る煙が溶けていく。雨の季節はあの雲の彼方。もう、私の手は届かない。
お母さんとのことをもっと早く知っていたら、こんな結末は迎えなかっただろうか。
――ううん。きっと、同じだった。
だって、彼は選んだんだ。お兄さんとして愛されることより、自分自身でいることを。
「良かったー。もうなくなってて」
「なあ、首のない仔猫の死体って本当か?」
静かに、空へ向けていた視線を下ろした。乾いた道路の向こうから、中学生くらいの男の子二人が歩いてくる。
「信じてねーな? 本当にこの辺で見たんだって! 赤茶の毛の、首のない猫!」
「車に轢かれたとかじゃねーの? 今そういうのあると『動物虐待!』とかいってすぐニュースになるじゃん」
「……そりゃ、そうだけど。うーん、だけどなあ」
すれ違っていく男の子たちの背中を目線だけで追いかけて、それから静かに踵を返した。
そっか。あの子は、ちゃんと連れて行ってもらえたんだ。
水都と初めて会った藤棚の下に行くと、植え込みの中にくたくたになった段ボールが残っていた。座り込んで指をかけると、中にエメラルドグリーンのリボンが入っている。可愛い鳴き声が耳の奥で響いて、小さく胸が痛んだ。
「……お兄さんには、会えた?」
そっとリボンを撫でると、爪先に小さな雫が触れる。疑問符を浮かべて、リボンを目線の高さに持ち上げると、木陰からこぼれる夏の光を浴びて、淡い光がきらりと揺れた。
まるで、雨上がりの葉に残る雫のような、雨の季節の名残。水都の金色の髪の耳元で光っていた、小さな光。
ぽとりと、涙がこぼれた。
「……見つけた。水都」
宝物みたいにリボンを胸に抱きしめて、そっと目を閉じた。
何回でも思い出せる。儚くて曖昧な、彼の柔らかい輪郭。
きっと、水都の周りにも、私の夢の中みたいに雨が降ってた。私の夢みたいに、自分を消してしまうものじゃない。彼をほんの少しだけお母さんから遠ざけて、自分自身でいさせてくれる優しい雨。水都を守ってくれる音。
だから、彼の隣はあんなにも優しくて、苦しいほど切なかった。
もう二度と会えない。けど、彼が確かに私の隣にいた証が、ここにある。
一緒に行こう。
公園の鮮やかな緑を鳴らして、夏の匂いがする風が吹き抜けていく。
風に優しく背を押されるように、ゆっくりと一歩踏み出した。
一歩、また一歩。歩くたびに強さを増して、しっかりと大地を踏んで背筋を伸ばして歩く。
短く切り揃えた髪が頬を撫でる。
長い間私を縛り付けていた枷が消えた体は、驚くほどに軽い。
雨が洗い流していった世界は、眩しいほど輝いて目の前にある。
私は、ここで生きていく。