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梅雨も終わりに近づいた七月の始め。バイト帰りに駅前のスーパーに寄ると、自動ドアの側に水都の後ろ姿を見つけた。横顔に透明なピアスが光るのを認めて、笑顔でローファーの爪先を向ける。
「水都、」
「海斗」
呼びかけて走り寄ろうとした私を押し留めたのは、可愛らしい女の人の声だった。
水都の後ろから、小柄な女の人が出てくる。髪も瞳も色素の薄い茶色で、肌は蝋のように滑らかで白い。作り物めいて見えるほど、全てが完璧に整っている。細い腕には手の甲から包帯が巻かれていて、そこだけが現実と繋がっているように見えた。
「海斗? お友達?」
「ううん。髪の毛キレイだな、って見てただけ」
「ああ、そうね、綺麗な子ね」
私に真っ直ぐに向けられる大きな瞳。長い睫毛が影を落とすその顔は、隣りに立つ水都とそっくりだ。女の人――多分、水都の母親――は、表情をほとんど動かさず私に背を向ける。水都は私に淡く笑って、口元に人差し指をあてただけだった。
彼女が「年上の女の人」だと確信した。あれならウワサになるのもわかる。顔も体も、二十代の後半で時間を止めてしまったように見えるし、本当にそうだったとしても納得してしまうくらい、雰囲気も顔立ちも現実離れしている。
けど、ひっかかるのはそこじゃない。
カイト、って誰?
何で、違う名前で呼ばれて振り返るの?
そういえば、病院に行った時も看護師さんは最初、水都じゃない名前を口にしてた。お母さんだけじゃなくて、他の人にも違う名前で呼ばれてるの?
何で?
「水都!」
弾かれるように振り向いた水都は、唇の端を上げて泣きそうな顔でぎこちなく笑った。その表情が子どもみたいに頼りなくて、このままお母さんと一緒に帰らせたらいけない気がした。
けど、走り寄ろうとして、体が凍った。
全く表情のなかった水都のお母さんの顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。三日月形に細められたガラス玉のように無感情な瞳。人形が笑っているようで、背筋がぞわりと粟立つ。
能面のような笑顔を浮かべたまま、彼女は白い指を水都のそれに絡ませた。
「行きましょう。海斗」
穏やかに水都を促して、二人は私に背を向ける。その背中が見えなくなるまで、私は金縛りにあったみたいに動けなかった。
呼吸することを思い出してから、じっとりと嫌な汗をかいていることに気がつく。まとわりつく空気はじめじめして暑いのに、腕には鳥肌が立っていた。
悪い夢を見た後のような気分で、ぼんやりと考え込んだまま、スーパーで夕飯の買い物を終える。
自動ドアをくぐると、滝のような雨が降っていた。
「うっそお……」
折りたたみ!
とっさにそう思ってカバンの中を探したけど、ない。バイト先のロッカーに忘れてきた。
真っ暗な空を見上げて、途方に暮れる。だから雨は嫌い。
いつ来るかわからない雨の終わりを待っているのも面倒で、意を決して、頭の上にカバンをかざして雨の中に走り出た。
辺りに閃光が走って、遠雷が追いかけてくる。
水都のお母さんの、人形のような瞳が目に焼き付いていた。あの人が、水都を傷つけたんだろうか。頼りないくらい華奢で細い、白い腕。水都の腕を腫れあがらせるような力なんて、とてもなさそうなのに。
けど、あんなに綺麗なのに怖かった。表情にも瞳の奥にも感情が全く見えなくて、水都と良く似ているのに、親しみのひとかけらも持てなかった。どうして?
アパートが見えてから、やっと歩を緩める。十五分くらい走っただけで、バケツで水をかぶったくらい濡れてしまっていた。早く着替えないと、風邪引く。
「ただいま」
ほっとして部屋の中に入ると、異質な空気が背筋を撫でた。
いつもと、違う。
何が違うのかはわからない。ただ、言葉にしようのない不安で胸が騒ぐ。
ふと見ると、必ず閉めているはずの私の部屋の襖が薄く開いていた。
その向こうに、稲光に照らされて、父の姿が見えた。
襖を開け放った私の足元には、母の写真。その前で、父はカーテンレールに電源コードで首を吊って、だらりと、人形のように揺れていた。
瞬間、喉を焼いた悲鳴は自分のものと思えないほど。雷鳴が部屋に轟く中、座り込んで二回吐いた。
涙目でせき込んで、もう一度父を、父だったものを見上げる。
見開いた眼、鼻、口元、全部から体液が流れ出して、服にまだらに染みを作る。凄惨な光景と、糞尿の匂い。瞳は既に白濁し始めていて、もう何も映さない。
私の姿さえも。
何で。
何で。
何で。
だって、死ぬ理由なんて全くないじゃない。
お酒を飲んで、ただ享楽的にあの女と毎日を過ごして、母も、私のことも顧みないで生きていくんだと思ってた。
「……とう、さん」
長い間、口にしなかった言葉。頭の中で、何かが外れる音がした。
「……とう、さん? 何やってんの? ねえ! お父さん!」
制服が汚れるのも構わずに歩み寄って、父の体にすがりつく。触れた大きな手のひらは硬くて、突き放すように冷たい。
母が死んだあの日、びしょ濡れで泣いていた背中が脳裏をよぎる。「お父さん」と何度も呼びかける間に事故の記憶が蘇ってきて、痛くて、怖くて、ものすごく心細かった。もう自分も死んでしまったんじゃないかと思ったその時、やっと父は、呼びかけに気付いてくれた。
ひんやりと冷たい手で私の頬を撫でてから、泣きそうな顔で笑って、そして呼んだのだ。
『美雨』と、母の名前を。
「……やっぱり、私はいらなかった?」
頬に歪な笑みが浮かぶ。
そうだ。私はずっと、この人に見てもらいたかった。
母とそっくりな顔で母譲りの赤い髪を伸ばして、そうやって母と同じにしていれば、きっと振り返ってくれると思っていた。こっちを見てくれるなら、母の代わりだって良い。名前を呼んで、優しく髪を撫でて、怖いことも痛いことも悲しいことも、もう大丈夫だって言って守ってほしかった。
呆れるくらい貪欲に、私は父の優しい手のひらを求めてた。
「おとうさん」
腕に取りすがって、力なく膝をつく。ぼろぼろと涙が頬を伝う。今更そんなことに気がついても、もう遅い。私が何度呼びかけても、父は虚空を見つめたまま、決して私を見なかった。
警察には、何度も父を呼び掛ける私の声に気が付いて、大家さんが連絡してくれた。
遺書もなかったけど、特に不審な点はなく、父の死は自殺で片づけられた。
葬儀もその前後のことも良く覚えていない。父の遺骨の前に制服のまま座り込んで、黒いフレームの中、優しく笑う父を見ていた。
雨の音が聞こえる。母を失くした時と同じ、叩きつけるような雨の音。
じめじめとした空気が、熱気を孕んで部屋にわだかまる。
髪も、手も、足も、何もかもが重い。
夢と同じように体が沈みだすのを待っていたけど、いつになっても願いは叶わなかった。