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雨の檻  作者: 藤堂かのこ
6/8

5

 それからしばらく雨のない日が続いて、水都は保健室に顔を出さなくなった。

 すっきりと晴れないのにじめじめと暑い日が続いて、一足飛びに夏に向かわない停滞感が雲の下に居座っている。

 父は相変わらず、クーラーのないカビ臭い六畳間でユキノを抱いて、私はその隣りの部屋で自分の死ぬ夢を見続けていた。

 母の命日まであと少し。私は、うたた寝の途中でもあの夢を見るようになっていた。

 眠れば必ず雨と一緒に灰色に呑み込まれて、光も空気もない場所に辿りつく。今まで二、三日に一回だったものが、一日に数回。さすがに、目を瞑ることすら嫌になってくる。

 けど、どれだけ夢から逃れようとしても、いつの間にかどろりとした眠りにとらわれて、私は雨に囲まれた灰色の場所にいる。意識は浮き沈みを繰り返して、降り止まない土砂降りの雨や、ユキノの甘い声、灰色の地面に沈みだす足先、衣擦れの音、体に絡まる髪、教室のざわめき、全部、夢と現実の境界線を呑みこんで混じり合って来てる。

 きっと、あと一歩で気が狂う。


 母の命日は、どんよりと薄暗い、曇りの一日だった。

 今にも雨粒を落としそうな空の下、母が好きだった百合の花を抱えて学校から帰ってくる。祈るように見上げたアパートの部屋には、明りが付いていなかった。

 軽い落胆と、安堵を抱えて部屋のドアを開ける。瞬間、顔をしかめるほどの濃い酒の匂いが体にまとわりついてきた。

 確信めいた予感に体が反応するよりも、瞳が見たくもない映像を結ぶ方が先。

 淡く射しこんだ街灯の光が、部屋に散乱した服を浮かび上がらせる。和室に組み敷かれた半裸の女と、その上に覆いかぶさる父の姿も。

「な、に考えてんの? 信じらんない!」

 電気をつけようとして、思いとどまった。

 こんな光景、光の下で見たくない。

 行為の最中に出くわしたことなんて初めてじゃない。けど問題はそんなことより、今日が母の命日だってこと。そんな日に、母以外の女を抱く神経が理解できなかった。

「水瀬」

 私を呼ぶ父の声を久々に聞いた。

 苛立って揺れる瞳をどうにか父に据えて、次の言葉を待つ。

「文句があるなら出て行け。帰って来るな」

 一瞬で怒りが体を駆けめぐっていく。

 悪びれもせずに開き直って、久しぶりに娘に対して発した言葉がそれって、一体どういう神経なの?

 靴のまま部屋に上がりこんで、百合の花束を父の顔に叩きつけた。腕にかけていたビニール傘を握りしめて、父の肩に乗った百合の花を殴りつける。

 ユキノの大袈裟な悲鳴と白い花弁が上がって、部屋に散らばる百合の香り。

「……アンタが死ねば良かったのに」

 父にぶつけるように傘を投げ捨てて、家を飛び出した。

 信じられない。信じられない。信じられない。

 何で、自分の大切で大好きな人が死んだ日にあんなことができるの? 最低だ。最悪だ。母じゃなくて、アイツが死ねば良かったのに。

 怒りに任せてしばらく走ると、ぽつり、と、温い雨が頬を叩いた。真っ暗な空を見上げて、自嘲めいた笑みが浮かぶ。

 ひどく、みじめだった。


 行く当てなんてもちろんなくて、近所をぶらぶらした後、何となく公園に足を向けていた。

 昼間だったら保健室にかけこんで深谷先生に話を聞いてもらえたけど、この時間じゃ先生は帰ってるし、そもそも学校に行く定期もお金も家に置いてきてしまった。頼れる大人も、友達もいない。

 一瞬頭に浮かんだ金色の髪は、首を振って打ち消した。

 雨は、ゆっくりと強さを増していた。髪が水を含んで、前髪から落ちた雫が頬を伝っていく。

 今よりもっともっと小さい頃は、土砂降りの雨になると、母か父が心配して迎えに来てくれた。暗い雨の向こうに両親を見つけた時、どれだけほっとしたかわからない。優しい声が名前を呼んで、温かい手のひらが触れて、周りが見えない雨の中でも心細くなかった。

 今はもう、これより強い雨が降ったとしても、誰も迎えに来てくれない。

 ふと、雨音の中に仔猫の鳴き声が聞こえた気がして顔を上げた。

 きょろきょろ辺りを見渡すと、水都がビニール傘を肩に乗せて、藤棚の下に座りこんでいた。呼びかけると、振り向いて目を大きくする。大股で近寄ってきて、傘の中に入れてくれた。

「何やってんの? こんなとこで」

「水都こそ」

「俺? 俺は、みなせのにーちゃんの墓参り」

「お墓参り?」

 こんな雨の日に?

 目線が示した方を見ると、藤棚を囲む植え込みの向こうに、くたくたになった段ボール箱が見えた。そのすぐ側に猫缶と青い紫陽花の花。みなせが段ボールからこぼれたタオルに鼻を押しつけて、懐かしむように匂いを嗅いでいた。

「初めてコイツ見つけた時、もう一匹一緒だったんだ。もう冷たくなってたけど」

「そう、だったんだ」

「……何か事情あり?」

 首を傾ける水都の耳元で、銀色のピアスが雨粒みたいに光る。言葉を探して視線を落とすと、水都の傘を握る手とは反対の腕が、真っ赤に腫れあがっているのが見えた。

「手! どうしたの、それ?」

「ああ、これ? 転んだだけ」

 本当に、転んだだけでこんなに腫れるだろうか。右腕の途中から手首にかけて、迷彩模様を描くようにまだらに赤黒く腫れあがっていて、指の根元は紫に変わり始めている。こんなの、一回ぶつけた程度で出来る怪我じゃない。

「それ、骨折れてるんじゃないの?」

「平気。このくらいの痛みだったら、折れるまでいってない」

 その、慣れたような言い方が引っかかった。私から見えないように右腕を隠す姿が、女の子たちのウワサする声を思い出させる。

『芦原って雨の時だけ学校来るんだけど、必ずどっかしら怪我してんの』

 クラスメイトの口ぶりから、水都が本当に怪我してたとしても、ちょっとすりむいたとか、ぶつけたとか、そんな軽いものなんだと思ってた。けど、いつもこんなひどい怪我だったとしたら? 誰が水都をこんな目に遭わせてるの?

 水都の手から傘をひったくって、腫れていない方の手を取った。

「みなせ! おいで!」

「ちょ、何」

「病院行くの。放っておいて良い怪我じゃないでしょ?」

「良いよ、別に。もうやってる病院ないし」

「けど、大きいとこ行けば……」

「平気。そこまでする怪我じゃないって」

 俯いたままで、静かに私の腕を振り払う。

 頑なな態度に心が波立つ。転んだだけなら、素直に診せれば良いじゃない。

どうして、こんなひどいことする相手を庇うようなことするの?

「……診せたくないのは、年上の女の人が原因だから?」

 私の言葉に、水都は瞳を見開いた。

 何で、と低く呟いて、私から目を逸らす。

 想像もしてなかった過剰な反応に、動揺して言葉を返せなかった。私が平静さを取り戻せないでいる間に、水都は無言のまま傘から出て、みなせを連れて戻ってくる。

「病院行くから。傘持ってて」

「うん……」

 一つの傘に入って暗い道を歩く間、水都は手の具合を尋ねた私に「平気」とそっけなく答えただけ。あとは、一言も話さなかった。


 水都について近所の個人病院に行くと、ふっくらした年配の看護師さんが出迎えてくれた。びしょ濡れの私と、右腕に怪我をした水都を見て、看護師さんは目を丸くする。

「かい……水都くん? 今日は一人なの?」

「うん。雨だから。まだ先生いる? これ、診てほしいんだけど」

 水都がまだらに腫れあがった腕を示すと、看護師さんは眉をひそめて小さく頷く。診察室に小走りで入ってから、すぐ戻ってきて水都を診察室に招き入れた。私とみなせには、タオルを差し出してくれる。

「ごめんね、猫ちゃんは入口で留守番させててくれる? タオル、足りなかったら教えて」

「すいません。ありがとうございます」

 看護師さんは私に笑顔で応えてから、診察室に入っていった。

 借りたタオルを四つ折りにして、スリッパの入った下駄箱の前に置く。そこにみなせをおろして、体とリボンの水気を拭いた。茶トラの毛並みを撫でて、乾いたことを確認する。

「ここで待っててね」

 みー、と鳴いて丸くなるみなせに笑みをこぼして、タオルで髪と体を拭いてから、待合室の椅子に浅く腰かけた。

 見渡した待合室は、受付と診察室からこぼれる灯りしかなくて、ぼんやりと薄暗かった。雨の音がテレビのノイズみたいで、夜の空気に似ている。時計が示す時間は六時少し前。診療時間はとっくに終わってるみたいだった。

 時間外でも診てくれるなんて、かかりつけのお医者さんなんだろうか。看護師さんも水都のこと知ってるみたいだったし。

 ――やっぱり、良く怪我してるってことなの?

 診察室の扉から足元に視線を落とすと、髪が肩から滑り落ちてくる。雨に濡れて、いつもより赤味を増した茶色の髪。手にとって、そのまま顔を埋めた。

 まぶたの裏に「年上の女の人」の話題を出した時の水都の顔が蘇る。いつもの漂々として本意がどこにあるかわからない水都とは違う、胸の真ん中を射ぬかれてしまったような、絶望に近い瞳の色。

 どうして、あんな無神経に触れてしまったんだろう。きっと、苛立ちに任せて乱暴に踏み込んじゃいけない場所だった。

 診察室の扉が開く音がして、両手から顔を上げた。右手に包帯を巻いた水都は、ゆっくりと私の方へ歩いてくる。

「先生、何だって?」

「折れてないって。しばらく冷やしておけって、湿布もらった」

 利き手じゃなくて良かった、と呑気に言って、私の隣りに腰を下ろす。水都がいつもの調子に戻っていることに、少しだけほっとした。

「水都、ここよくお世話になってるの?」

「うん。まあ、そんなとこ。みなせは?」

「下駄箱のとこ。中はさすがにダメだって」

 そっか、と水都が答えて、二人の間に沈黙が落ちる。リノリウムの床に響く、暗い雨の音。

「……ごめん」

 水都の唇から意外な言葉がぽつりと落ちて、弾かれたように顔を上げた。

「なんで……」

 だって、傷つけたのは私の方だったのに。

 言葉を継げないでいると、水都は膝に頬杖をついて、目線だけをこちらに向ける。

「さっき、八つ当たりした。こういうとこ、アンタにはあんまり見せたくなかったから」

 やっぱり、あんな乱雑に触れちゃいけなかった。

 情けなくなって顔を俯けると、水都の長い指が零れてきた私の髪に触れる。目線だけを上げた先に、真っ直ぐ私を見つめる淡い茶の瞳。

「ちゃんと拭いた? 今気付いたけど、顔色ヒドイよ。具合悪い?」

 そう言われてようやく、父と喧嘩していたことを思い出した。つい数十分前に起こったことが脳裏を駆け抜けて行って、また気分が悪くなってくる。

「……平気。ただの寝不足」

 雨の音が強くなってきた気がする。

 降りやまない雨は、自分の所在を曖昧にさせる。事故の記憶や現実と夢が入り混じってきて、今自分がどこに立っているのか、ひどく不安になる。

「何か、痴漢に遭った時みたいな顔してる」

「何それ」とはぐらかしかけて、口を噤んだ。大きな手で口元をふさがれて、上手く息が出来なくなったあの一瞬がフラッシュバックする。色彩の乏しい地下鉄の中、苦しくて、気持ち悪くて、なのに声も出せない。まるで、夢の再現のよう。揺れ出した意識の中で、確かに思った。

 助けて、って。

「……今日、命日なの。母の」

 ぽとりと、涙みたいに声がこぼれた。

 自分の言葉に、自分で驚いた。誰にも、水都にだって話すつもりなかったのに。寝不足で朦朧としてるせいなのか、それとも、水都の秘密に触れてしまったせいなのか。彼との距離が、上手くつかめない。

 父は、私が中学に上がる頃から変わりだした。

 ユキノが家に出入りするようになって、昼夜問わずお酒を飲むようになった。教師の仕事も突然辞めてしまって、今は思い出したように日雇いの仕事に行くだけだ。

 きっかけが何なのかわからない。あの女なのかもしれないし、母を亡くした日から父の中でゆっくりと変化していったものがあるのかもしれない。けど、母のことを大事にして、愛してることは変わらないと、そう思っていたのに。

「母親が死んでから、雨の季節になるとずーっと同じ夢見るの。髪がどんどん重くなって、雨と一緒に灰色の中に沈んでいくだけなんだけど。指の先まで全部埋まって、息が止まるまで、絶対目が覚めないの」

 夢から覚めるたびほっとして、それからすぐに不安になる。自分がちゃんと生きている実感がなくて、今もまだ夢の続きなんじゃないかと思う。自分の深い呼吸の音を聞いて、頬や指の感触を確かめて、それでどうにか自分を納得させる。

「最近はうたた寝の途中でも見るようになってて、さすがにそんな状態じゃ眠れなくて」

「……水瀬」

 本当は、みっともなく泣いて、叫んでしまいたい。そうすれば、誰かが気付いて助けてくれるかもしれないのに。でも、私は夢の中ですら叫べない。

「けど、父はおかまいなしにあの女のこと家に上げるし、聞きたくもない声とか音とか寝ちゃえば逃げられるのにそれもできなくって、」

 父には、私のことなんて見えてないんじゃないかと思うことがある。もしかしたら、ここは夢の中で、事故のあった日に私はもう死んでいたんじゃないかって。

「水瀬!」

 少し強い調子で呼ばれて、びくりと肩を上げた。ゆるゆると顔を上げると、水都が静かに私を見据えている。淡い茶色をした虹彩の奥に気遣うような色が揺れて、ふっと、肩から力が抜ける。

「私、ちゃんとここにいる?」

「……いるよ」

 水都の言葉を後押しするように、足元で小さな鳴き声がする。

 自分のことを呼ばれたと思ったのか、みなせが足元にすり寄って来ていた。小さくて可愛い温度が、凍りついて毛羽立った心の表面をそっと撫でていく。小さな刺を溶かして、ぽとりと透明な雫が落ちた。ひとつ、ふたつ、瞳からぼろぼろと零れて、あふれ出していく。

 子供みたいに泣き出した私の手を、水都はずっと握ってくれていた。大きな手が時折安心させるように上下に動いて「大丈夫」と低く囁く。触れた肩から、雨の匂いがする。ひざに登ってきたみなせの体温が優しくて、胸が痛いくらい温かかった。


「アンタさ、ちょっと気をつけた方が良いよ。かなり危なっかしい」

 嗚咽がようやく落ち着いた頃、呆れた顔で言う水都に、私は首を傾けた。

「母親と同じ色の髪の毛伸ばして、父親が恋人つれこんでも家から出ていかないのって何で?自分でわかってないでしょ?」

「何でって……」

「……他の人になりたい気持ちは、少しだけわかる気がするけど」

 水都の言葉に、私はただ疑問符を浮かべるだけしかできない。眉間にしわを寄せる私に淡く笑って、水都は私の頭を軽く叩いた。

「ちょっと寝な? まともに寝れないかもしれないけど」

「水都が近くにいると、夢見ないの」

「へえ」

「……さっき、ごめん。傷つけたい訳じゃなかった」

「知ってるよ」

 そっと金色の髪に指を伸ばした。

 出会ってからずっと、雨に煙るように曖昧なままの彼の輪郭。女の人のことを口にした時、ほんの一瞬だけ見せた表情。あれが、本当の彼なんだろうか。

 金色の髪から左耳のピアスがのぞく。軽く爪がかかると、そのまま水都に手を捕まえられた。

「指、冷たい」

「うん。ごめんね。飽きたら、起こして」

 柔らかな雨の音に抱きとめられる。その日、決まって見るあの夢は見なかった。


 その日は、雨が上がってから水都が家まで送ってくれた。

 電気が消えた家の中では父が一人で眠っていて、私が八つ当たりしたせいで花びらがまばらになってしまった百合の花が、きちんと花瓶に生けて置いてあった。静かに寝息を立てる父の後ろ姿に、ごめん、とこぼして、自分の部屋の襖を閉めた。

 次の日から、ユキノは家に来なくなった。けど、それも多分少しの間だけ。きっとまたすぐに何事もなかったようにやってきて、酔った勢いに任せて父とじゃれあい始める。

 私は、居心地の悪いその家に居続ける。


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