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雨の檻  作者: 藤堂かのこ
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 ゆっくりまぶたを開けると、目の前を遮るほどの、土砂降りの雨が降っていた。

 乱暴な雨音が耳をふさぐ。

 見上げた低い空には雲もなくて、暗い灰色の空間から鉛色の雨が放射状に降ってくる。

 ひんやりとした空気の漂う、雨に閉ざされた空間。

 私はそこに、真っ白なワンピースを着て立ちつくしていた。

 視界の端に映る赤につられて目線を落とすと、腰までしかなかったはずの赤毛が床につくほどに伸びて広がっている。

 ああ、また、この夢。

 雨の音がして目を開けると、髪が床につくほど長くなっていて、雨を吸ってどんどん重く、赤くなっていく。地面は雨で緩んで、雨水と一緒に裸足の爪先から体が沈みだす。まとわりつく髪の重みでもがくこともできず、ゆっくり、ゆっくり、もどかしいほどの優しさで呼吸が失われていく。

 途中で夢だとわかっても、どれほど苦しくても、空に伸ばした指の先が灰色の中に埋まってしまうまで、絶対に目が覚めない。

 果たして、ずぷ、と鈍い音がして、裸足の爪先がゆっくりと地面に沈み始めた。

 母の命日が近付くにつれ、見る頻度が上がる夢。最初の頃は、ここから出ようとあがいてみたりしたけど、もがいたところで体に長い髪が絡まって、更に身動きが取れなくなるだけ。途中から、何をしても無駄だと悟った。

 静かに、息が止まるその瞬間を待つだけ。

 ふと、呼ばれた気がして視線を巡らせる。

 ついさっきまで辺りを覆い尽していた雨は、いつの間にか銀糸のように細くなっていた。柔らかい紗のような雨の向こうには、仔猫を抱いた水都の姿。

 彼は優しく笑って、私の方へ手を伸ばす。

「水瀬」

 呼ばれたその瞬間、体がふっと軽くなる感覚がした。水都の方へ駆けだして、その名前を唇に乗せる。


「お父さん」


 自分の声で目が覚めた。

「ゆめ……」

 枕元の時計を見ると、時刻は朝の五時前。室内に射し込む光が、四畳半の部屋をぼんやりと照らしていた。眠りの殻に包まれた、森閑とした空気。

 視線を巡らせると、六畳間に続く襖が少しだけ開かれていて、隙間からむき出しの白い足が父の足と絡んでいるのが見えた。

 次いで、ユキノの少しくぐもった甘い声。

 胸元からせりあがってくる不快感に任せて、乱暴に襖を閉じた。

 朝の光が溶けた、あの女の腕のような乳白色の空間がたまらなく気持ち悪い。

 吐き気がする。


「荻原さん、次の時間も寝てるのかなー?」

 自分の名前が聞こえて、浅い眠りから覚醒した。半眼のまま目線だけを動かすと、薄汚れた大きい窓を雨粒が伝っている。腕のすぐ下からは、湿った木の匂い。

 ここ、どこ?

 心中で呟いてから、教室で居眠りしていたことを思い出した。夢のせいでまともに眠れなくて、自分の席につくなり机に突っ伏して寝てしまったんだった。

 母の命日まで、あと二週間程度。これからしばらくは、雨に閉ざされた世界で何回も殺され続けることになる。

 昨日は珍しく夢の途中で起きたけど、何で目が覚めたのか覚えてない。雨の向こうに水都を見つけた辺りまでは、何となく覚えてるんだけど。

「起きても、体育じゃ出ないでしょ。貧血だとか言ってたじゃん」

「先生も何で注意しないのかなあ。授業中ずっと寝てることもあるのに、ずるくない? 髪だって、地毛とか絶対ウソでしょ」

「や、でもクウォーターらしいから、それは本当じゃん? 黒に染めろよ、とは思うけど」

「確かにー。あたしだったら絶対染める」

 ぼんやりと夢の続きを辿る私をよそに、声量を抑えた、けど、私に届くにはばっちりな話し声は続く。明らかにトゲのある話し方に、そっとため息をこぼした。

 次の時間が体育ってことは、今教室には女子しかいないんだろうな。こういうえげつない話は、男子がいる時には絶対出てこない。

「てかさ、荻原さんが最近芦原と保健室で会ってるっていうの、本当?」

 体が反応しそうになるのを、すんでのところでこらえた。

 危ない。ていうか、何故それを。

「知ってる! こないだ昼休みに一緒にいるとこ見たよ。何か、仔猫連れて来ててさ、ちょー楽しげだった! 他の人に話しかけられてもツンツンしてるのにさぁ」

 ツンツンしてるんじゃなくて、眠くて機嫌悪いだけなんだけど、まあそれは別に良いとして。

 水都とは、あれから何度か保健室で会った。保健室は校舎の一階にあるから、カーテンが開いてて、目に留まることもあったのかもしれない。今度からちゃんと閉めておこう。

 それにしても、楽しげ。楽しげに見えるんだろうか。一緒にいても、お互い何か話すより黙っていることの方が多いのに。そうじゃなかったら、片方が寝ててもう片方が好きなことをやっているか。私は全然苦じゃないし、かえって楽なんだけど。

「荻原さんと付き合ってるのかなあ。芦原くん、ちょっと狙ってたのに」

「うーわ、アンタって趣味悪っ。芦原、何考えてるか全然わかんないじゃん。そりゃ、顔はめちゃくちゃ良いけど」

「だから良いのー! ミステリアスな美少年!」

「いや、絶対やめといた方が良いと思うよ。芦原、あんまり良いウワサ聞かないし」

 そうなの? と訊くクラスメイトと、心の中でハモった。

「中学の時同じクラスだったけど、人妻と不倫してるってウワサ流れてたんだよね」

「不倫?! マジで?!」

「実際、芦原がすっごいキレイな女の人と一緒にいるとこ見たって子、結構いたし」

「ええー、熟女好きなんだあ。ショックー。でも中学生相手にする女の人の方もすごいよね。それもう犯罪じゃん」

 何か、話が悪趣味な方に行き始めた気がする。

 これはちょっと、不愉快、かも。

「しかもさ、芦原って雨の時だけ学校来るんだけど、必ずどっかしら怪我してんの」

「怪我? 何で何で?」

「そこまでは知らない。不倫がバレて、旦那に殴られたんじゃないか、とか色々言われてたけど。もしくは、相手か芦原が、そういう癖なんじゃないの、って」

 悲鳴じみた声が上がったところで、我慢できなくなった。けたたましく椅子を鳴らして立ち上がると、半眼で話し声が聞こえていた方へ目を向ける。

 驚いた様子で目を丸くしてたのは、女の子二人と、多分その周りで話を聞いてた数人。これだけの子たちが、何の注意もしないで笑ってたのか思うとうんざりする。

「下世話」

 女の子たちのバツが悪そうな顔を眺めてから、くるりと踵を返す。そのまま、早足で教室を出ていった。あとで色々言われようが、どうでも良かった。


「クラスの女子とケンカしたそうで」

「何で知ってるの」

 放課後になってから保健室に行くと、水都は深谷先生の机の上で、教科書とノートを広げていた。みなせは回転椅子の上で、丸くなって眠っている。

 盛大に顔をしかめた私に、水都は奥のベッドを指し示した。

「そこで寝てると、となりで勝手に喋っていくやつがいるから」

 前に言っていた、私への微妙な評価の出所を理解した。何でどいつもこいつの寝てる人間の横で、ベラベラいらんこと喋りまくるのか。

「しかも次の時間、すっげー怖い顔で体育見学してたんでしょ? いやー、笑ったわ」

「……反省してるよ。それに関しては」

 あの後、保健室に行くのも癪で、ほとんどあてつけで真面目に授業に出てきてやった。瞬きすら惜しいくらいの勢いでしっかりばっちり見学してたから、女の子たちも相当やりにくかったみたいだ。隣りのクラスとのバレーの試合は、動きが固くてボロ負けだった。

 さすがに大人気なかったと今はちょっと反省してる。ちょっと。

「そんなんだから誤解されるんだよ、アンタ」

「水都もミステリアスで素敵! って誤解されてたよ」

「へー。それはまた」

 ベッドの近くから机の横に静かに椅子を持ってきて、腰を下ろす。深谷先生の机に頬杖をついて、水都が見ていた教科書の端を持ち上げた。

「コレ、何の勉強?」

「中間テスト」

 あー、もうそんな時期。意外と、ちゃんと勉強してるんだ。

「そっちは大丈夫? 毎日寝てばっかで」

「範囲わかんない」

 水都に憐れむような目で見られた。仕方ないじゃない。ずっと寝てたんだから。

「写す?」

「ありがたく」

 範囲を書いたメモを押し頂いた。通学カバンからノートを引っ張り出して、五教科の範囲を写していく。

「アンタってさ、人に何言われても気にしないんだと思ってた」

「私もそうだと思ってたよ」

 今のクラスは一年生からの持ち上がりになる。

 高校に入ったばかりの頃、頻繁にユキノが家に来ていてまともに眠れず、授業中も休み時間も寝ていたら、女子のグループ作りに乗り遅れた。最初の頃は気にしてくれる優しい子もいたけど、優先順位一位から睡眠が動かないせいで、気が付けば完全に孤立してしまっていた。

 いじめられたりするわけじゃない。けど、大切にしなくて良い人間には分類されてるんだと思う。私が寝ている横で平気で悪口が言えるし、それを聞いてた私がどう思うかも考えてない。

 だから、何を言われても、知らないふりをしてたんだけど。

「ありがと」

 突然水都にお礼を言われて、きょとんと瞳を瞬かせた。

「? ありがとうは私の方なんだけど?」

 今まさに。テスト範囲を教えてもらえてものすごい助かっている。今日のことがあるから女子には聞き難いし、男子に聞くとそれはそれで後が面倒くさい。

「だって、俺のために怒ってくれたんでしょ?」

「……別にそういうわけではない」

 棒読みで言うと、水都は軽く笑う。

「アンタ、本当変わってる」

「それ、けなしてる?」

「ほめてるよ」

 そうかなあ。全然そんな風には思えないんだけど。

 眉間にしわを寄せる私を楽しげに見やってから、水都はカバンを肩にかけて、ゆっくり立ち上がった。

「帰ろ、水瀬。雨上がった」

 まだ眠ったままのみなせをそっと抱き上げて、私の方に空いた手を差し出す。

 何か、珍しく上機嫌。

 素直に水都の手を取ると、優しい温もりが伝わってくる。ひんやりと冷たい手を想像してたから、少し意外だった。


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