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雨の檻  作者: 藤堂かのこ
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 私の家は駅から離れた住宅街にある。

 もとは社宅だったらしい木造二階建てアパートは、壁や屋根の隙間に長年の汚れが蓄積して、晴れた日でもうらぶれて暗い。雨に濡れると古さが一層際立って見えた。

 老朽化でギシギシ音を立てる外階段を上って、通路の一番奥にある部屋の鍵を開ける。

「ただいま」

 惰性で呟いて扉を開けると、紺のタイトスカートに白シャツ姿の女が、シンクに寄りかかって煙草を吸っていた。

 思わず舌打ちしそうになったのをどうにかこらえて靴を脱ぐ。

 黒髪を綺麗に巻いた女はゆっくりと煙草の煙を吐き出して、おかえり、と赤い口紅を引いた口元をあげた。

「早いのね。今日バイトは?」

「ない」

「そ。あたし、克彦さん帰ってきたら、一緒にご飯食べてくるから」

 返事の代わりに、一瞥を投げただけで女の前を通り過ぎる。テレビがついたままの和室を抜けて、自分の部屋の襖に手をかけた。

「髪、暑くない? まとめてあげようか?」

「いらない」

 わざとらしいため息を背中に聞いて、乱暴に自分の部屋の襖を閉めた。

 仄暗い四畳半の中には、生温い空気と煙草の匂いが澱んでいた。

 自分にもあの女の吐いた煙がまとわりついている気がして、乱暴に制服を脱ぎ捨てて窓を開ける。サビの浮いたトタンの壁が迫るほど近くて辟易する。それでも、煙草の匂いが雨の中に溶けて、少しだけ気分が落ち着いた。

 父が「ユキノ」と呼んでいるあの人は、週に三日か四日、家にやってくる。

 曜日や時間はいつもバラバラで、父が日雇いの仕事でいない時は、勝手に部屋の掃除や洗濯をしているらしい。ユキノが来た日は部屋の中が綺麗に整っていて、冷蔵庫の中に高そうなお惣菜が入っていた。父が帰ってくると、一緒にお酒を飲んで、私がいることもおかまいなしにセックスして、翌朝、自分の家に帰っていく。

 世間的に見たら恋人というやつなのかもしれないけど、経済的に豊かなことが一目でわかる彼女の身なりは、みすぼらしいほど痩せた父にも、この古くて汚いアパートにも不釣り合いだった。年齢も多分、ユキノの方がずっと下だ。

 仕事も、住んでる場所も知らない。

 父は何も教えてくれないし、私も何も訊かないから。

 部屋着に着替えて、母の写真の前に腰を下ろした。

「ただいま、母さん」

 母を失くしてから、八回目の六月。

 じめじめした雨の降り続く季節、私と父は、子供みたいに無邪気で優しかった母を失くした。


 母が死んだのは、蒸し暑い、大粒の雨が降る六月の夕方だった。

 まだ五時前だというのに、辺りはうっすらと暗くて、何だか心細い。私は母の温かい手をしっかり握って、長靴の爪先を見ながら歩いていた。

 二人で、父が勤める高校に傘を届けに行く途中だった。

 信号待ちの最中、「雨、すごいねえ」という他愛もない話をしていたところで、私の記憶は衝撃と共に突然途切れる。

 うっすらと目を開けると、まつ毛についた水滴が世界を滲ませていた。耳に音が戻ってくるのと同時に、視界がゆっくり広がっていく。

 歩道を転がる赤い傘が、信号機に突っ込んだ乗用車のドアに当たって止まる。そのすぐ側に、母が倒れていた。雨に奪われるように、細い体から色が消えて、水たまりにじわりと赤がにじんでいく。

「水瀬」

 かすれた声と、私の方へ伸ばされた傷だらけの細い腕が見えて、意識はまた急速に沈み始める。白い腕が水溜りの中に落ちるのと同時に、私の意識はぶつりと切れた。

 次に気が付いたのは病院のベッドの上だった。体中が痛くて、上手く動かない。

 何度も母の名前を呼ぶ声にゆっくり視線を動かすと、びしょ濡れのスーツを着た父が、母の手を握って泣いていた。包帯をまだらに染めた血の色と、シーツからこぼれる長い、赤の髪。

 濃い、雨の匂い。

 父の声をかきけすように、雨が乱暴に窓を叩いていた。

 おとうさん、と呼びかけたけど、父は私の声に気が付かなかった。何度も何度も呼びかけて、ようやく振り向いた時、私に見せた泣きそうな笑顔。水都と初めて会った雨の日、もうおぼろげにしか思い出せなかった表情が、はっきりと線を結んだ気がした。

 不意に、玄関のドアが開く音がして顔を上げた。

「おかえりなさい、克彦さん」

 襖の向こうで、私と話す時よりワントーン高いユキノの声が響く。次いで、畳の上に何かが倒れる音と「やだあ」という甘い笑い声。

「もしかしてもう飲んでるの? 水瀬ちゃん帰ってきてるわよ」

「構わない」

 密やかな笑い声が聞こえてすぐに、ぴちゃぴちゃと嫌な音が響き始める。くぐもったような甘い声と、衣擦れの音。

 イヤホンとケータイを鞄からひっぱり出して、思いきりボリュームを上げた。

 気持ち悪い。イライラする。



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