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雨の檻  作者: 藤堂かのこ
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 薄墨を広げたような空の下、電車のドアに額をつけて、ぼんやりと外を眺めていた。

 例年より早い梅雨入りから一週間。灰色の雲は飽きもせずに雨粒を落とし続けている。

 雨は嫌い。

 じめじめするし、傘は邪魔だし、電車は混むし。

 通勤ラッシュに巻き込まれるのが嫌で早めに家を出てくるのに、雨の日は早起きの意味がなくなってしまう。身動きできないほどじゃない。けど、立っているだけで体のどこかが他人と接してしまう距離感は、ひどく息苦しくて気詰まりだった。

 電車が地下に滑りこんで、スーツや制服姿の人たちと、自分の顔が窓に映る。蛍光灯の白い光の下、私だけが浮いている。

 腰に届くほど長い、緩い弧を描く赤茶の髪。

 外国の血が半分入った母の遺伝なのか、私の髪は生まれつき赤味がかった茶色。細い髪に詰まった色素は強力で、黒く染めてもすぐに色が抜けてしまっていた。窓に映った髪を指でなぞると、水滴に色素がにじんでくるんじゃないかと思う。

 モノトーンになじめない赤。

 思いきり短くしたら、少しは目立たなくなるだろうか。

 ふと、自分の世界に沈んでいた意識を浮上させたのは、腰の辺りに何かが当たる感触。

 始めは誰かの荷物が当たっているだけかと思ったけど、段々とその感触はねっとりした意思を持って下に下りてくる。

 汗ばんで湿った手が太ももを撫であげる感覚に、ぞわり、と嫌悪感が体を駆け抜けた。

 耳の裏側を濡れた感触が這って、きれいな髪だね、と、吐息混じりの囁きが吹き込まれる。喉元までせり上がってきた悲鳴は、太い指に乱暴にふさがれた。勿体ぶるように下着の縁を撫でる指。息が上手く出来なくて、目の前がくらくらする。

 気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い。

 気付いて、誰か、

「この人痴漢でーす」

 不意に、体をなでまわす感覚が消えて、間延びした声が車内に響いた。

 呆然と顔を上げると、以前公園で見かけた男の子が、スーツを着た男の腕をひねりあげていた。


「災難だったね。常習犯ぽかったよ、あのオッサン」

 次の駅でサラリーマン風の男を駅員に突き出すと、彼はホームにへたり込んでいた私をベンチまで連れて行ってくれた。

 近くの自販機で水を買ってきて、私の目の前に差し出す。

「ほい。飲める?」

「何で、助けてくれたの?」

 やっとそれだけ言うと、彼は整った顔をことりと傾けた。

「最後までやられちゃった方が良かった?」

「絶っ対、嫌」

 語尾に被せるように首を振ると、彼は肩を竦めて少しだけ笑う。

 となりに座ると、ペットボトルのキャップを緩めてから私の方へ差し出した。促されるままに一口水を飲むと、ひんやりした感覚がゆっくり体の中に落ちていく。それで、少しだけ落ち着いた。

「ま、アレだよ。こないだの傘のお礼」

「覚えてたの?」

 初めて会った雨の日、私は彼に無言でビニール傘を押しつけて、逃げた。

会った時点で相当濡れていた彼に傘を貸したところで、意味なんてないとは思ったけど、雨に濡れた横顔があまりにも儚げで頼りなくて、何もせずにその場を離れることが出来なかった。

 まさか、覚えてたなんて。

「風邪引かなかった? あの後」

「それは、大丈夫だったけど」

「アンタ、B組の荻原水瀬(おぎわらみなせ)でしょ?」

「え。何で知って……」

「同じ高校。同じ二年。アンタ有名だからさ。とっつきにくい美人だって」

「……何、そのビミョーな評価」

「お母さんがハーフなんだっけ? 大変だね、目立つ人は」

「そっちだって、人のこと言えないじゃない」

 こんな目立つ子、同じ学年にいて何で知らなかったんだろう。

 プラチナに近い金の髪に左耳のピアス。身長は他の子たちより頭一つ分高くて、顔もびっくりするほど整っている。男の子なのに、肌もきれいだし、まつ毛も長い。

 一回見たら、絶対印象に残ってそうなのに。

「あ、俺、水都ね。芦原水都(あしわらみなと)

「芦原くん」

「名前の方が嬉しいなー」

「水都」

 素直に名前を呼ぶと、水都は嬉しそうに笑った。

「さて、もう落ち着いた? そろそろ行かないと電車出ちゃうよ?」

 腕時計を見ると、乗り換え電車の発車時刻がせまっていた。これを逃しても遅刻はしないけど、ラッシュに巻き込まれるのは確実だ。痴漢に遭った直後に、満員電車は避けたい。

 慌てて、ベンチから立ち上がる。

 数歩歩いてから振り返ると、当然ついてくると思った水都は、ベンチに座ったまま私の背中を眺めていた。

「行かないの?」

「俺は行かない。久々に外出たんだし、もうちょっとゆっくりしていく」

「ゆっくりって、どこで……」

 向かいのホームに、電車が到達するアナウンスが響く。グレーのスーツと、制服の波。

 急がないといけないのに、何故かそのまま別れてしまうのが惜しい気がした。向かいのホームと水都とを交互に見ていると、彼は唇の片方だけを上げて笑う。

「それとも、一緒に来る?」

 電車がホームに滑り込んで、雨の混じった風が吹きつける。

 それに背中を押されるように、私は水都の方へと踏み出していた。


 水都はどこへ行くとも何か用事があるとも言わなかった。学校とは反対方向の電車に乗り込んで、雨に煙る街並みをじっと眺めているだけ。

 そっと見上げた綺麗な横顔。

 全然似ていないのに、あの時何であの人のことを思い出したんだろう。

「俺の顔、何かついてる?」

「こんな目立つ子、どうして知らなかったのかな、って」

「俺、学校たまにしか行かないからじゃない? 行っても保健室だし」

「あー、そりゃ知らないわ」

「……アンタ、変わってるって言われない?」

「全然」

 変わってるとか変わってないとか、そういうの教えてくれる人周りにいないし。それに休み時間はだいたい寝てるから、保健室通学の格好良い男の子がいるなんて噂も当然耳に入らない。

「まあ、いいや。そっちのが俺もありがたいし」

「……? 変なの」

 その後は、お互い何も話さなかった。

 主要駅を離れるにつれて、人も段々と少なくなっていく。ラッシュを過ぎた電車は静かで、除湿の効いてきた車内は、適度に涼しくて過ごし易かった。

 時折肩に触れる水都の体温と、穏やかな電車の揺れ。静かな、雨の音。

 向かいの席に座った小さい女の子とお母さんの話す声が何だか耳に心地良くて、うとうとと眠気が押し寄せてくる。いつの間にか、そのまま寝入ってしまっていた。


 湿った風が頬を撫でて、薄く目を開けた。

 右側に温かい人の感覚。ゆっくり目線を上げると、金色の細い髪が揺れた。

「起きた?」

 笑い含みの声に、一瞬で意識が覚醒した。ごめん、と、呟いて慌てて体を起こすと、水都は気にした様子もなく笑う。

「寝不足?」

「……私、どのくらい寝てた?」

「二時間ちょっとくらい、かな」

「もしかして、終点から折り返してる?」

「うん」

 どうりで、周りに人がいないわけだ。

「起こしてくれて良かったのに」

「いや、でもすんごい良く寝てたから。起こすの悪いかと思って」

「ごめん。退屈だったでしょ?」

 人様の隣りで爆睡するなんてダメすぎる。

 片頬を手で覆ってこぼすと、そうでもないよ、と静かな声が響く。

「アンタの寝顔見てたから。キレイだな、と思って」

 ぽつり、と雨音が聞こえた気がした。

 不思議と、嫌な感じも鼓動が揺れる感覚もなかった。

 ただ、静かに胸に落ちる。まるで雨のように。

 何となく、今まで水都を知らなかった理由がわかった気がした。すぐ側にいるはずの彼の存在は、明け方に降る雨のように、密やかで、遠い。

「感動してた。美人てのは涎垂らして寝てても美人なんだなあ、と」

 高速で口元をぬぐった。

 不覚。そこまで熟睡するなんて。

「結構神経太いね。今朝痴漢に遭ったばかりとはとうてい思えない」

「うるさいな」

 鏡を取り出して、涎の跡が残ってないかチェック。髪もてぐしで直してから、乱暴に息を吐いた。

「……こないだの猫、どうしたの?」

「話題変えた」

 じとりと睨むと、水都は笑って肩を竦める。

「いるよ、家に」

「拾ったんだ」

「まあ、離れ難くなっちゃってね。会いたい?」

「うん」

「じゃあ、今度連れてくるよ。次の雨の日に」

「何で、雨の日?」

 首を傾げると、水都は淡く笑って人差し指を口元にあてる。

「それは秘密」

「……変なの」

 外に視線を投げると、朝から降っていた雨はだいぶ勢いを弱めていた。

 ぐっすり寝たせいか、最悪だった気分もかなりすっきりしている。

 何でこんなに深く眠れたんだろう。この季節はいつも眠りが浅くて、熟睡できることなんてほとんどないのに。

『まもなくー、S駅ー。S駅でございます』

 間延びした車内アナウンスに顔を上げる。

 ゆっくりと硬くなった体を伸ばしてから、鞄を肩にかけて立ち上がった。

「帰るの?」

「ううん。学校行く」

 また寝直す訳にもいかないし、家にも帰りたくない。

「水都は? まだ帰らないの?」

「もう一往復くらいかなー」

「やることないなら帰れば良いのに」

「今はここにいたい気分」

「……あそ。じゃあ、私はここで降りるね」

「うん」

 会話が終わるのとほぼ同時に、電車が駅に到着する。

 ホームに降り立ったところで、くるりと振り向くと、水都は私を見送ってくれていた。首を傾ける水都に向けて、口の横にメガホン状にした手のひらをあてる。

「ありがとう。助けてくれて」

 発車のベルが鳴ってドアが閉まる。

 水都は一瞬だけ瞳を大きくして、あとはほんの少し笑っただけだった。


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