08 : 「あのね、ずっ、ずっと言いたかったんだけどね」
六時間目の終了のチャイムが鳴った。号令に合わせて礼をして、すぐに学校を出る用意をする。とらこはもういるとして、本条さんもいるだろうか。
ふと外を見ると、またどんよりとした雲が空を覆っていた。私の席は一番窓側だから、自然と外を見てしまうことが多い。これは降るかな。折り畳みしか持っていないから、できれば降らないでほしいんだけど。というか晴れの日が続くって予報だったから、洗濯物干してきちゃったし……早く帰らないと。
「そういえばこの前さー、あいつなんにもないとこに話しかけてたんだって」
「うっわ、何それキモ!」
ぎゃははは、と下品に笑う女子の声が聞こえてくる。近くにいた人が、うるさそうに顔をしかめた。
……そういえば、って言って、何回その話をすれば気が済むんだろう。あの日から一日に何度かはその話が聞こえてくる。いつも同じ女子たちなんだけど、時間の無駄だと思わないのかな。虎太郎さんというものすごく綺麗な男の人といたせいで、最近は変な噂もされているようだし。
まあ気にしないでいいや。変なものを見るような目で見てくる人は増えたけど、あの女子たちに辟易している人たちがいるのも確かだ。今はとにかく早く帰りたい。
急いでリュックを背負ったところで、
「ああ、あの、ゆう、きさん」
「……佐伯さん?」
隣の席から声がかかった。
この前言えなかったことを言うのか……それとも、昨日本条さんと話したことについてか。わからないけど、佐伯さんの眼鏡越しの目はこの前よりも真っ直ぐ私のことを見ていた。
「ちょ、ちょっと、いいかな?」
「……いいけど、人いないとこ行こっか」
私たちの会話に気づいた女子が、今度は聞こえない声でひそひそと何か話して笑っている。私は全然構わないけど、佐伯さんはここで私と話すのはきついだろう。
こくりとうなずいた佐伯さんと一緒に、ひとまず教室を出る。人がいないところ……ああ、でもそうじゃなくてもいいのか。うちのクラスの人以外、私たちを見て笑うとかはないだろうし。図書室前とかでいいかな。
近くの階段を下りて、図書室のある一階へ行く。うん、あんまり人いない。
立ち止まって佐伯さんのほうを見ると、彼女はびくっとした。
「何の話?」
「あのね、その」
「うん」
焦らせないように、じっと待つ。洗濯物が気になって集中できそうになかったけど、ちゃんと聞かなくてはいけない気がした。
佐伯さんは泣きそうになりながらも、そう時間をかけずに話し始めた。
「唯ちゃんが、えっと、結城さんと、はな、話したって聞いて」
「うん、話したよ」
「えっとね、それでね……あー、ごめんね、わたし話すの苦手で、すぐわーって頭が真っ白になっちゃうんだけど、えーっと、その」
「洗濯物干してるからできれば早く帰りたいけど、ゆっくりでいいよ」
「うぅ、ごめんね! あのね、ずっ、ずっと言いたかったんだけどね」
必死に何かを伝えたがっているのがわかる。
こんなに話すのが苦手だと、苦労しただろうなと思った。私とは別の種類の苦手さだ。佐伯さんが自分で言ったとおり、現在の彼女の頭の中もきっと真っ白になっているんだろう。
緊張のせいか、この暑さと湿気のせいか、佐伯さんの顔に汗が浮かぶ。それをタオルハンカチでせわしなく拭いていた。
ぱくぱく、とただ口を開け閉めしていた佐伯さんだったが、やがてきりっとした顔になった。
「わたしのせいで、こん、こんなことになって、ごめんね」
言い切るころには、その顔は元の泣きそうな顔に戻っていた。
……本条さんは私の言葉を伝えなかったんだろうか。謝罪の言葉はいらないと言ったのに。それに、今いじめが悪化しているのは確実に私自身のせいだ。
「それから!」
私が口を開く前に、佐伯さんが大きな声を出す。こんなに大きな声も出せるんだ、と少しびっくりした。
「ありがとう」
「……え」
ぽかんと、してしまった。
ありがとう。お礼。なんで。
疑問が単語の羅列として、頭の中を占めた。……お礼を言われるのは、特におかしなことではない。私がいじめられるようになってから、彼女がいじめられることはかなり少なくなったのだ。彼女の中には、そうなったことへの申し訳なさと感謝があるのだろう。
だけどやっぱり、予想はしていなかった言葉で。
今度は私が、口をぱくぱくとしてしまう。そんな私を見て、佐伯さんは少し緊張のほぐれた顔で笑った。
「ずっと言いたかったんだ。わたしのせいだから謝らなきゃ、って思ってたんだけど、ええっと、うん、謝るより、お礼のほうがいいかなって。だから、ありがとう」
「……私が、勝手にやったことだから」
「ううん、ありがとう」
さっきまでとは違って、佐伯さんはきっぱりと言う。なんだ、こんなふうにも話せるのかとぼんやりと思った。
「せっかく助けてくれたのになんにも変われてないんだけどねー」
早口で言った彼女は眉を下げ、あははと乾いた笑みを漏らした。
……なんにも変われていない。そうだろうか。佐伯さんとはまったく話したことがなかったし、関わりもなかった。以前の佐伯さんを知らない私には、何も言えないけど。今の言葉は少し、違うんじゃないかと思った。
「それだけです。ごめんね、引き止めて。雨降ってきて洗濯物が駄目になったら……うあぁ、ごめ、ごめんなさい! は、早く帰ってね!」
急いで階段を駆け上がっていく佐伯さんを、ぼうっと見送る。おさげ髪が焦るように揺れていた。
よくわからない。これはどう形容すればいいんだろう。心がふわふわしているというか、あまり現実にいるという実感が湧かないというか。
深呼吸をして、何となくその場で一度ジャンプする。足が床に着いた。私はここにいる。それを確認したところで、一人で何をやっているんだろうと自分に呆れてしまった。
――帰ろう、かな。
もしかしたらもう、本条さんは待ちくたびれているかもしれない。先に帰ってしまっている可能性もあるけど。
二階の昇降口で靴を履き替え、バス停へ向かう。雨がぽつりと顔に当たった。なんとか持ちこたえてくれそうだけど、念のため折り畳み傘を腕にぶら下げておいた。このまま家まで降りませんように。
バス停では、本条さんがスマホをいじりながら待ってくれていた。もう一本早いバスに乗れたはずだから、待ってくれていた、と思っていいんだろう。
マルチーズは、本条さんの足元でしっぽをぶんぶんと振っていた。近くにとらこがいるというのに、気にする様子はない。もう危険はないと判断したのだろうか。
私の気配を感じたのか、本条さんはスマホから目を上げた。
「あ、結城さん。瑞穂からなんか言われた?」
すぐにスマホをしまう本条さん。
まるで佐伯さんが私に何か言うことをわかっていたかのような言葉だった。もしかして、と思ったことを、そのまま口に出してみる。
「本条さんがお礼言うようにって言ったの?」
「ううん? あたしはただ、結城さんとちょっと喋ったよって言っただけ。話した内容はなんにも言ってないよ。まあ瑞穂、あたしと付き合い長いし、あたしがなんか口滑らせたんじゃないかって思って慌てたんじゃない?」
にひひっ、といたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「でもそっかー、謝りたいんじゃなくてお礼言いたかったんだ―」
わざとらしいびっくりした顔。……本条さん、絶対わかってたでしょ。
なんとなく、食えない子だと思った。
どう返せばいいのかわからなくて、無意味に折り畳み傘をぶらぶらしていると話題を変えてくれた。
「ところで結城さん、帰宅部なの?」
「うん」
「なんで?」
バスに乗り込みながら、本条さんは首をかしげる。私の隣に座ると、その膝の上にはマルチーズも乗った。
まあ確かに、うちの学校は部活をやっている人が多い。強制ではないのだが、部活に入るべきという雰囲気が浸透している。だから本条さんの疑問ももっともだった。
なんて答えよう。
あまり事情を細かく訊かれないように、慎重に答える。
「……部活やってると、時間なくなるから」
「あーまあ確かに、時間なくなるよね。あたしも今体操部休んでるけど、ほんとはこんなに時間あったんだ、びっくり! って感じ。でも時間あったとこで、ただダラダラしちゃうだけなんだけどねー。結城さんは家帰ったら何してるの?」
「……掃除したり、ご飯作ったりとか」
「えっ、家事? うわー、女子力高い。すごいねー、あたしご飯とかまだ一人で全部作ったことないよ! 一品でさえないもん。不器用だから遅くてさー、いらいらしたお母さんに全部奪われちゃうんだよね」
「そうなんだ」
大げさなほどびっくりして褒める本条さんに、これが女子高生のノリというものなのか、と感じた。すごい、なんだかキラキラしてる。私には合わないけど、すごい。
本条さんはおかしそうに笑いながら「そーそー」とうなずいた。
「あ、掃除もご飯も作るってことは、もしかしてお母さんお父さん忙しい感じ?」
……そっちに話が飛ぶのか。
「うん、共働きだから」
「へぇ。兄弟とかはいないの?」
「……一応、妹が」
「あ、妹ちゃん? じゃあ手伝ってもらっちゃえば? 今のうちから家事マスターしておけば楽でしょー。妹ちゃんいくつ?」
「五個下」
「うーんと、ってことは小五か。生意気になってきたところって感じ?」
「そうかもね」
別に嘘はついていない。一応、と言ったし。今何歳なのかと答えたわけでもない。
だけどちょっとだけ罪悪感があった。
「だよねぇ。あたし一人っ子だから、妹とかめっちゃ羨ましいんだけどさ、妹いる人ってみんなうざいとか生意気とか言うんだよねー。もうそれも羨ましくってさ」
うざくもなかったし、生意気でもなかった。普通の子供のようにちょっとわがままで、だけど周りの雰囲気に敏感な、優しい子だった。
全部、過去形。
そこからの会話は、ただ短い相槌を打つだけになってしまった。本条さんも何かを感じたのか、全然関係のない、相槌だけで会話が成り立つような話をずっとしてくれた。
バスのアナウンスが、本条さんのバス停を言う。それを聞いて、本条さんは立ち上がった。止まるまで座っていたほうがいいと思うのだが、昨日もそうだったからもう習慣になっているのかもしれない。
「じゃあまた明日ー。あ、そだ、結城さん。下の名前千聖だよね?」
バスが止まる前に、本条さんがそんな確認をしてくる。知ってたんだ、と思わず目を瞬いた。
……本条さんの下の名前はなんだっけ。
頑張って思い出そうとしながら、「そうだけど」と答えると、本条さんはにっと笑った。
「じゃあちっさーだ。よろしくね、ちっさー。あたしのことは唯でいいから、とととっ」
バスが止まる反動で、バランスを崩しそうになる。近くの手すりに掴まって持ちこたえた本条さんは、どことなく期待した目で見てきた。
……今、呼べと。
嫌ではないのだが、人の名前を下の名前でちゃん付けにするなんて小学校以来だから、言いづらくて口がなかなか開かない。だけどバスが止まってしまった今、待たせるわけにもいかないだろう。
あー、とちょっと気恥ずかしさを誤魔化すように声を出してから、彼女の名前を呼ぶ。
「……唯ちゃん」
それを訊いた途端、本条さん――唯ちゃんは破顔した。
「うんうん。よし、また明日ー」
「じゃあね」
ちっさー。小学校のとき同じクラスだった別の『ちさと』ちゃんがそう呼ばれていたな、と思い出す。
ちっさー。とらこからのちーさんとは、また違う呼ばれ方。……あだ名みたいなものって、特別感というか、そういうのを感じるんだけど、もしかして私唯ちゃんと仲良くなってきてる? 友達の基準はなんだろう。どこまでいったら友達なんだろう。
混乱した頭で真面目にそんなことを考えてしまう。
とらこはバスの中では何も言わなかった。
窓の外へ目を向ける。どんよりとした雲の合間から、ところどころ青い空が見えた。
友達って、なんだろう。
そう考え込んでしまう時点で、答えは決まっているのかもしれないけど。
バスを降りると、とらこがやっと口を開いた。
「よかったですねー、友達ができて」
にやにやと笑っていそうな声。
そんなんじゃない、と言いたいところだったけど、なんとなく恥ずかしくて、結局黙り込んでしまった。




