07 : 「やー、すっごい偶然だね!」
マルチーズの幽霊が、バス停にいた。グルグルととらこに対して唸り声を上げていて、とらこは困ったように視線で助けを求めてくる。
……いや、そっちよりも。
「あれ、結城さん?」
こっちの子のほうが気になる。
とらこと言い争ったのは昨日。それを目撃していた隣のクラスの女の子が、バス停にいた。この時間帯にバスを使う生徒は私だけだったはずなんだけど。
彼女は松葉杖をついている反対の右手で、私にぶんぶんと手を振った。
「やー、すっごい偶然だね!」
なんとなく空々しいと思ったら、次の瞬間には「まあ偶然じゃないんだけど」とにへらと笑う。
……偶然じゃなく、わざわざバスを使うことにしたってことだろうか。昨日のことについて何か言われる? と、思わず少し身構えてしまう。
「あたしのこと知ってる?」
「……えっと、隣のクラスの」
「そーそー、本条唯です」
本条さん。
さらりとした明るい茶色の髪の毛と、最低限のうっすらとした化粧。それだけでも十分かわいくて、この子はどうすれば自分の魅力が引き出せるのかちゃんとわかってるんだろうな、と思う。うん、苦手なタイプだ、と確信した。
本条さんは髪を耳にかけつつ尋ねてきた。
「結城さんっていっつもバス通学なの?」
「うん、楽だから」
「そっかー、あたし体操部なんだけど、着地ミスっちゃってさぁ、これなのね」
松葉杖をぶらぶらとさせるので、思わずぎょっとする。松葉杖をそんなふうにして、足は大丈夫なんだろうか。
「もともとチャリ通だったんだけど、うちの学校駅まで結構あるじゃん? だからもうバスでいっかなって。いや、昨日は車で送り迎えしてもらったけど、結城さんがバス通学ならバスで帰りたくなっちゃってさ」
「なんで私が関係してるの?」
んー? と小首をかしげ、本条さんはにやりとした。
「結城さんと仲良くなりたかったんだよね」
……とらこの言葉を思い出した。何なんだろう、バス停で待っている人とか動物はみんな私と仲良くなりたいんだろうか。
あ、でもこのマルチーズは違うか、と一瞬白いマルチーズを見やる。本条さんを守るようにして、未だにとらこから目を離していない。
視線を本条さんへ戻した。
「……私と?」
「うん。瑞穂わかる? 結城さんに助けてもらったみたいなんだけど」
訝しげに訊けば、うなずかれてそんな言葉を返される。
助けた? 誰のことだろう。瑞穂さん……聞き覚えはある名前だけど、うちのクラスの子だろうか。
「佐伯瑞穂。結城さんと同じクラスの、えーっと、おさげで眼鏡っ子のまじめそーな子。あの子私の幼馴染なんだけどさ」
「……ああ、佐伯さんか。でもあれは助けたんじゃないけど」
ただムカついて、自分が言いたいことを言っただけだ。
それにしても、佐伯さんは本条さんの幼馴染……友達なのか。私に話しかけられもしない、あの気弱な子がこの子の友達だと思うと変な感じがする。類は友を呼ぶ、の逆みたいな感じなんだろうか。
そんなことを考えている間に、本条さんは話を続ける。
「瑞穂は助けられたって思ってるからいいのいいの。で、瑞穂から話聞いて、なんか面白そうな子だなーって思ったんだよ。あ、ごめん、悪い意味じゃないからね? なんていうか、かっこいいなって。あたしは瑞穂になんもしてあげらんなかったから、そのせいもあるんだろうけど。あいつら、あたしが何言っても逆効果って感じだったから」
……確かに、本条さんがあれを止めたとしても、佐伯さんへの当たりが強くなるだけだろうな。今少し話しただけで、それが何となくわかる。いじめられるほうにも、ましてやいじめるほうにもなりえないと感じる子だ。
佐伯さんはうちのクラスでいじめられていた。陰口、無視、物を隠す……私が今されているような。というか、佐伯さんのいじめを止めたから、それが私に移ったとも言う。
自分がされるなら気にしないけど、他人がやられているのを見るのは苛々して。
だからまあ、言ってしまったのだ。いじめていた女子たちを逆なでするようなことを。「そんなくっだらないことやってる暇あるなら、他のことすればいいのに」とぼそっと思わず言って、そこからぽんぽんと言い合いが始まった。
結果、現在では私がいじめられている。世の中の人はこの状況になるのが怖くて、いじめを見て見ぬふりをするんだろうな。
「瑞穂、ずっと謝りたがってるみたいなんだけど、タイミングつかめなくて無理みたいなんだよねー」
「……別に謝罪なんていらない。私が勝手にやったことだし、罪悪感とか感じなくていいよ。そう言っといて」
「え、あ、ごめん、今あたし間違えたね!」
あわあわとする本条さんに、困惑する。
「……間違えたって?」
「本当のことだとしても、謝りたがってるとか言っちゃいけなかったなって。瑞穂がちゃんとやらなきゃいけないことだからさ」
……こういう子だから、きっといじめの矛先は佐伯さんに向いたままだったんだろう。
バスが来た。松葉杖で乗るのは大変かな、と手伝おうとしたが、本条さんは普通に両足で歩いて乗り込んでしまった。
「え、それいいの?」
「ん?」
「いや、松葉杖使ってないから」
「あっはは、平気なんだ。骨折してるの親指だから、これくらいは」
明るくそう言う本条さんだが、親指を骨折……。体操で着地を失敗してそれって、すっごく痛いと思う。想像して、少しぶるりとしてしまった。
本条さんが私の隣に座ったので、とらこは通路を挟んで反対側の席に座った。マルチーズは通路に立ったまま、とらこにまだ唸っている。この子どうにかしてください、ととらこに目で訴えられた気がしたが、スルーすることにした。
だって本条さんがいるとどうにもできないし。
「どうしようかな、何話そう。いざ話すとなると、緊張しちゃって話題思いつかないや」
にこにことしながら言う本条さんは、全然緊張しているようには見えなかった。……絶対私のほうが緊張している自信がある。
うーん、と考え込む素振りをして、本条さんは「あ」と何かを思いついたのか嬉しそうな顔をした。
「そうだ、結城さんペット飼ってる?」
「……飼ってはいないけど、仲いい猫ならいるよ」
ちらっととらこに目をやれば、とらこは察したようにぱあっと雰囲気を明るくした。虎って言ったら問題があるから猫と言ったが、気にしていないようだ。
「えー、いいな、近所の野良猫?」
「そんなとこ」
「餌あげたりしたの?」
「ううん」
「それで仲良くなれたの!? え、あたしも今度、野良猫と仲良くなってみよ。近所にいっぱいいるんだよねー」
私の返事なんてすごく短いのに、本条さんはちゃんと会話を成り立たせてくれる。こういう子と話すのは楽だな、と思った。……楽だからって、甘えてばかりじゃ駄目なんだろうけど。
「本条さんは? ペット飼ってたりするの?」
この話題を出したのは本条さんだから、きっと飼っているんだろうなと思いながら訊き返す。
「うん、犬……あー、ごめん、話題の振り方ミスったな。うん、犬飼ってるよ。まろんっていうんだけど、すっごいかわいいの」
本条さんは早口で答えた。
……ミスったのは私だ。とらこを警戒しているマルチーズが、本条さんの犬だなんてちょっと想像すればわかるのに。というかわかってたのに。
このマルチーズは幽霊だ。それはつまり、そういうこと。
「そっか。えーっと……本条さん、趣味は?」
「趣味? ははっ、なんかお見合いみたいだね」
苦し紛れに他の話題に変えれば、笑われてしまった。……だって何の話をすればわからないし。趣味を訊けば話が広がるかなって。
「うーんとね、よく意外って言われるんだけど、ネット小説読むのとか好きだよ」
「ネット小説? そんなのあるんだ」
「えっ、知らない? まあ色んなサイトがあるんだけど、あたしが見てるのはこの『小説家になりたい』ってサイト」
言いながらスマホを取り出して、サイトを見せてくれる。
へー……登録者数、六十万人くらいいるんだ。結構大きいサイト、なのかな。基準を知らないから何とも言えないけど、六十万人は多い気がする。
「本条さんもここで書いてるの?」
「……読んでるだけ」
「書いてるんだ」
「なんでわかるの!?」
「わかりやすいから」
本条さんの趣味は小説を読む、書くことか。それは確かに意外だ。
うつむきながらスマホで顔を隠し、「うわぁ」と恥ずかしそうにしていた本条さんは、ばっといきなり顔を上げた。びっくりした。
「内緒ね!?」
「う、うん」
「ふぅ……。ネット小説読んだことないなら読んだら疲れちゃうだろうし、おすすめするのはやめとくね。結城さんの趣味は?」
「ないかな」
「即答……!? え、何かないの?」
「じゃあ……バスに乗ること?」
「それは違うんじゃ」
そんなふうに会話をしていれば、バスでの時間はあっという間だった。私の降りるバス停の二つ手前で、「あ、あたしここだから」と本条さんは立ち上がる。結構私と家近いのか。
「ごめんねー、余計なこと言っちゃって。まあこれからしばらく、毎日バス使うからよろしくね。また明日!」
余計なこと、というのはたぶん、佐伯さんのことだろう。
本条さんと一緒に、マルチーズも降りていった。最後にとらこにきゃんきゃんと吠えかかってから。
そこでようやくとらこは私の隣に座る。私はスマホのメモ帳画面を開いた。バス停二つ分の距離の間だけだから、バスの中で話せるのはほんの少しだろうけど。
「やっぱり虎は怖いんですかね……」
『そりゃあそうでしょ 怖いってよりはほんじょうさんを守ってたみたいだったけど』
しょんぼりするとらこにそう打つ。
……本条、本庄、本城。漢字がわからないな。今度確認しておこう。
「明日からもこうだったら疲れちゃいそうです」
『まあ慣れるんじゃない? 犬って結構のん気なイメージ』
「危険がないって早くわかってくれたらいいんですけどねぇ」
とらことの会話は、本条さんとの会話とは違う意味で楽だった。考えなくても自然と会話を進められる。
『私もこれが毎日続いたら疲れそう』
「でも結構楽しそうでしたよね?」
『とらこと話すほうが楽しいし、楽』
「……ありがとうございます」
照れたように、疲れたようにするとらこ。もうこんな反応をされても戸惑わなくなった。
いつもどおり他愛無い話をしていると、バス停に着く。ここからはスマホをしまって話せる。
バスを降りるとむわっとした空気に襲われた。顔をしかめながら顔の前でぱたぱたと手を動かした。もう夏だ。日差しも強くて、できるだけ日陰を通るようにして歩いていく。昨日はどんよりとした天気だったから、気温はそんなに高くなかったんだけど。
まあでも、これからちょっと晴れの日が続くようだから、洗濯物を片付けてしまおう。コインランドリーの乾燥機なんかも使ってみたけど、やっぱりめんどくさいから。
「本条さん、いい子でしたねー」
初めて本条さんについての感想を言われた。
いい子、ではあったけど。ただうなずくのも違う気がして、ちょっと返答に困る。
「……まあ、悪い子じゃないだろうね。素直すぎる気もするけど」
「あ、それちーさんが言っちゃうんです? 言っちゃうんですか?」
「素直っていうより、私は正直なだけだよ。我慢できないってだけ」
「優しすぎるんだと思いますけどねぇ」
「……は?」
「いーえ、なんでもないですよ!」
思ったよりも低い声が出た。とらこは慌てて首を振る。
どうしてとらこは、私のことをそんなに優しいと言いたいんだろう。全部自分のためであって、他人のためにやっていることなんてないのに。
ふう、と息を吐く。
最初は苦手なタイプだと思ったが、本条さんは意外と話しやすかった。仲良くなりたい、とまでは思わないが、これからしばらく一緒に帰るのなら、できるだけ仲良くなる努力はしてみよう。