04 : 「……わかりました。なんとかしてみます」
「お姉ちゃん」
千佳が無邪気に笑う。私の中の千佳は、いつまでも幼いままだった。ふっくらとしたほっぺたは血色が良く……不気味だと、思った。
「お姉ちゃんのせいなんだからね」
無邪気の中に、明確な悪意を持って。
千佳は私を突き刺した。
「……うん」
ああ、これはいつもの夢だ。
そう認識したって、夢は覚めてくれない。
千佳は見えない何かに座って、足をぶらぶらと揺らしてこちらを見下ろしていて。私はその前に、立っているのだ。
周りは真っ白。眩しいくらいに。
息が苦しい。夢なのに。現実の私も、寝ながら呼吸が不安定になっているんだろうか。
千佳が可愛く首をかしげた。
「お姉ちゃん、あそこの道危ないって知ってたでしょー?」
「うん、知ってた。だから気をつけてって言ったじゃん」
息が苦しいはずなのに、私はさらりと答えた。私のはずなのに、私ではないみたいだった。自分の言葉がどこか遠くで聞こえる。
……そう、言ったのだ。ちゃんと。
あの日のことは、鮮明に思い出せる。嫌になるくらいに鮮明に。
車には気をつけてね、結構飛ばす人たちもいるからって。
言った、んだ。
言ったけど。
「まさか」
これっぽっちも。
「千佳が死ぬなんて思ってなかったんだよ」
こんなこと言いたくない。
夢だからか口が勝手に動くのだ。
まさか死ぬとは思ってなかった。そんなのただの言いわけだ。罪から逃げたがってるだけだ。
なんて、最低な。
「――だからお姉ちゃんは悪くないって言いたいの?」
夢が終わる瞬間、千佳のそんな言葉が聞こえた。
違う、違うよ、私が悪いから。ずっとそう思ってるから。
だからもう――許してよ。
* * *
校門の前に立っている人を見て、私はついちょっと足を止めてしまった。暑いからさっさと帰ろうと思ってたんだけど……なんかすごい綺麗な男の人がいる。
ちょうど学校名が書かれている場所の前に、その男の人は誰かを待つようにして立っていた。
なんだろう、妖怪だろうか。人間にしては顔が整いすぎている。髪は黒いから日本人に見えなくもないけど……いや、やっぱり整いすぎだ。怖い。人間に化けている妖怪と普通の人間の見分けはつくつもりだったが、力を抑えているのか、美しすぎるということ以外に人間との違いはなかった。
あんまり見たら危ないかもしれない。魅せられる、という意味で。
すっと視線を逸らして、そのまま足早に前を通り過ぎ、ようとしたのだが。
「あなたが『ちーさん』か」
耳の奥に響いてくるような声。
私のことをそう呼ぶのはとらこだけだ。……とらこの知り合いだとしたら、やっぱりこの人、人じゃない。
振り向いて、失礼は承知で観察するようにじっくりと見る。まるで……あ、いい言葉が見つからない。だけど、それできっと正解だろう。そう思うような、怪しい美しさを持った男の人だった。
「そうですけど、貴方は?」
「申し遅れた。とらこの兄、虎太郎だ」
警戒した声で尋ねれば、軽く頭を下げられた。
こたろう……虎太郎、かな。また安直な。ちぃさまのネーミングセンス、私と同じものを感じる。センスがよくないのはわかっていても、面倒だからそれでいいや、という。
しかし、虎太郎さんは黒目黒髪なんだな。とらこからイメージしていた配色とはまったく違って、かなり意外だった。
まあそれはともかく。
とらこの兄である虎太郎さんが、いったい何の用なんだろう。
すぐにでも訊こうと思ったが、ここは目立つ。ただでさえ虎太郎さんは、人間とは思えない美しさなのだ。「ねー、今の人めっちゃかっこよくなかった!?」という女子の興奮した会話も聞こえてくる。どうせ人間になるのなら、もっと地味な人間の姿で来てくれればよかったのにな。
「とりあえず、話はバスの中でしませんか?」
「……ばすか」
「あれ、虎太郎さんは知りませんか?」
少し不安そうな顔をしていた。
思えばとらこは平安時代生まれだと言っていたし、兄ならそれより前に生まれたのだ。とらこと違ってあまりこの世界に来ていないのだとすれば、知っているはずがないか。
その予想に反して、虎太郎さんは首を横に振った。
「いや、知ってはいるが、乗ったことがないもので。……危険はないか?」
「安全とは言い切れませんけど、便利ですよ。そもそも危険じゃないものなんて存在しますか?」
危険の可能性ばかり気にしていたら、何もできないだろう。
虎太郎さんは「それもそうだな」と納得した。しかし考え直したように、歩き出した私を呼び止めてきた。
「バス停にはとらこが待っているだろう。その前に手短に済ましたい」
……嫌な、予感がした。
けれどそれを気のせいだと思うことにして、虎太郎さんの目を真っ直ぐと見る。気味が悪いほどに澄みきった、綺麗な黒い目だった。
いつもより大きく鳴る心臓に気づかないふりをして、「それで」と話を促す。
「何の用ですか」
ゆっくりと尋ねると、虎太郎さんの目が見返してくる。
「あまり時間をかけてとらこに怪しまれるといけないから、単刀直入に言わせていただく」
飲み込まれそうだった。一瞬呼吸が苦しくなった気がして、急いで息を吐ききり、その後自然と空気を吸い込む。夢の中の息苦しさを思い出した。
何を、言われるんだろう。
心臓の音は大きい。なのに、心臓自体は急に小さくなったように感じた。
「とらこと会うのは、もうやめていただけないか」
そうですか、と。
軽くうなずこうとした。だけどできなかった。
代わりに、「なんでですか」と口にしていた。
「理由を言ってくれないと、納得できません」
納得できない自分に、少しびっくりする。
とらこと仲良くなりたい、と思っていたのは事実だ。だけど、別にどうでもいい、とも思っているつもりだった。とらこと話すのは結構楽しいけど、いなくなって困ったりはしない。元通りに戻るだけなら、それはそれでいいのだ。
それなのに納得できないのは……無意識のうちに、とらこのことを大事な存在だと思い始めていた、ということなんだろうか。
自分の気持ちのはずなのに、わからなかった。
虎太郎さんは私のことをじっと見ていた。負けじと見つめ返すと、やがて何かを諦めたかのように小さくため息をつく。
「――とらこはこのままだと消える」
なんでですか、とまた言うところだった。
落ち着け。ちゃんとこの後には説明が続くはずだ。きっと今のため息は、全部説明してくれるという意味だ。
はず。きっと。
不確かなただの予想だったけど、そう考えれば少しだけ冷静になることができた。
口を開かないようにして、続く話を聞く。
「俺もとらこも本来は、この世界にはご主人様のお力を借りて顕現するんだ。だがご主人様亡き今、自分の力……この場合は命と言ったほうがいいか。それを削るしかない」
「……」
「あちらの世界にいれば、自然と力は回復する。実際、俺は何の問題もない」
「とらこは違うってことですか」
口を開かないように、と頑張っていたけれど、早くも諦めた。
とらこが私に会いに来ているのは、バス停から家に着くまでの短い時間だ。そのくらいの時間なら、あっちの世界……たぶん妖怪や幽霊がいる世界に、十分いられると思うのだが。
「……あまり、あなたから離れたくないようでな。あなたと一緒にいない時間も、ずっとあなたを見守っているようなんだ」
言いづらそうにそう答える虎太郎さんに、本当は言うつもりのないことだったんだと悟る。
ずっと私を見守ってる……本人から言われたら、ストーカーみたい、と笑ってやることだってできるのに。
笑うことはできなかった。思い当たる節はあった。
……悪い妖怪も幽霊もいないなんて、そんなのあるはずないんだから。
もしかして、いや、もしかしなくても、とらこって大馬鹿なんじゃないだろうか。
「あなたと関わらなければ、あいつはまだ長い間生きていける」
それはきっと事実で。
だけどたぶん、だから深く突き刺さってくる言葉だった。
「そう、ですか」
思考は止まった。
動け動けと念じて、ほんのちょっとだけ回復したような気がする。でも気がするだけで、実際には動いていないのだろうとぼんやりわかった。
虎太郎さんは真剣な顔をしていた。
「俺が言ったって聞きやしない。あなたから何か言っていただけないか」
「……わかりました。なんとかしてみます」
ぎゅっと拳に力が入る。
私の言葉に、虎太郎さんはほっとしたように「ありがとう」と笑った。そうやって笑うと、少しだけ人間らしく見えた。
バス停では、とらこがそわそわと待っていた。
私に気づいて、勢いよく走ってくる。
「今日は遅かったですね! 何かあったんですか?」
「……別に」
その姿に、なぜだかむかついてきた。
虎太郎さんが会いにこなかったら、とらこはどうするつもりだったんだろう。ただ自分が消える限界まで私に会って、何も言わずに勝手に消えるつもりだったんだろうか。
――そんなの、勝手すぎる。
勝手すぎる、と思う私のほうが勝手なのかもしれないけど。だけど許せなかった。怒りがふつふつとしているのが、自分でもわかった。
うん、私は怒っている。自覚した。……怒るなんて、いつぶりだろう。
口数が少ないことを訝しんだのか、とらこが私を丸い目で見上げてくる。
「あれ、なんだか元気ないですよ?」
「ねえ、話しかけないでくれる?」
「……あ、すみません。そうですね、ここは人目につきますもんね」
謝るとらこに、「じゃなくて」と冷たく突き放す声をぶつける。
「うざいんだって、君。しつこい奴って嫌いなんだよね」
おそらく。とらこにとって、『嫌い』と言われること以上に傷つくことはないから。あえてその言葉を使って、とらこの心を折りにいく。ぼきぼきにしてやる、とまた拳に力を入れた。慣れない嘘をつくのは大変だが、そう意気込めばやれそうな気がした。
何を言われたか、とらこは理解できていないようだった。
返事を待たずに、彼女から視線を外してスマホをいじる。早くバス来てくれないかな、と何度も意味もなくバス停の時刻表を見てしまう。とにかくとらこが目に入らなければよかった。
古びたバス停の看板は、ところどころ変色していた。文字もかすれているところがあって、新しくしないのかな、と今何も関係ないことを思う。
「っでも、でも! ネックレスをくれたじゃないですか!」
やっと、私の言葉を飲み込めたらしい。
まるで泣いているようなその声に、少しだけ心が痛んだ。……でも、あくまで少しだけだ。私はまだ怒っている。
視線はスマホに固定したまま、気だるげな声を意識して出す。
「ものでもあげとけばもう来ないかな、って思ったのに、結局毎日来るし。うんざりだよ」
嘘をつくのは苦手だ。だけど今は、声も表情も上手く作れている気がした。思いつく範囲でのひどい言葉も投げつけているし、いつも元気なとらこだって、これはこたえるだろう。
でも、だってと小さくつぶやいていたとらこは、耐えきれなくなったように叫んだ。
「……ちーさんのばーかっ!」
走り去っていくとらこには、目を向けない。
私は確かに、馬鹿なのかもしれないけど。
「……君のほうが馬鹿だよ」
気配が完全になくなってから、小さく言い返す。そこだけは譲れない。大馬鹿は、とらこのほうだ。
バスが来た。一人で乗り込む。
そう、これが普通なのだ。とらこのいた日常は非日常で、これがただの日常。
そうは思っても、隣にとらこのいない帰り道は、すごく寂しかった。




