16 : 「憧れって書いてヒーローってルビふる感じで」
そういえば最近、直接的な嫌がらせって受けてないな。
ふとそう思った。無視とか陰口はされるが、物を隠されたり、教室中に聞こえるような声で何かを言われたりすることがなくなった気がする。飽きてきたんだろうか。
ちらっと瑞穂ちゃんに視線を向ける。
瑞穂ちゃんはクラスになじみ始めてるみたいだ。顔は強張っているが、今も二人の女子と何かを話していた。……強張ってるけど。でも笑い声も聞こえるし、何よりあの二人は、いじめに加わっていなかった子たちだ。ちゃんと話せているんだろう。
あの二人以外にも、瑞穂ちゃんはちょくちょく話しかけられている。このままなじめていけたらいいな。
私は、まあ。まだいいや。仲良くなりたいと思ってなれるわけでもないし、流れに任せよう。
昼休み、お弁当を食べ終わって予習をしていると、トイレに行きたくなった。時計に目をやると、休み時間はあと十五分。明後日の授業の予習だから急いでやらないといけないわけでもないし、と席を立つ。
トイレでは中で何人かが口論しているようだった。ちょっと迷惑だな、と思いつつ、気にせずに入る。さっさと済ませれば問題ないだろう、と思っていたのだが。
ドアを開けて最初に目に入ったのは、泣きそうな瑞穂ちゃんで。
口論していたのは、さっきの女子二人と瑞穂ちゃんだった。私を見て三人とも口をつぐんだところをみると、私の悪口に瑞穂ちゃんが反応したとかそういうことかな、という感じがする。他人が入ってきたから口論が止まっただけかもしれないけど。
「もう話しかけてやんないから」
ぼそっと言い捨てて、女子二人はそそくさと出て行った。残されたのは私と瑞穂ちゃん。
瑞穂ちゃんは真っ赤になった顔で、ぱくぱくと口を動かしていた。私の前では結構喋れるようになっていたから、こういう瑞穂ちゃんを見るのは久しぶりだった。
「き、聞こえた?」
「なんにも」
首を横に振れば、瑞穂ちゃんはほっと胸をなでおろした。
この反応は、さっきの予想は当たりだろうか。
「……ありがとう?」
「え、え、なに、も聞こえてないんじゃ!?」
「聞こえてないけど、何かしてくれたんだろうなって」
「ううんっ、わた、わたしはなんにもしてないよ!」
「……ふーん」
じーっと瑞穂ちゃんの目を見る。瑞穂ちゃんはうろうろと視線をさまよわせ、汗をかき始めた。
「……だって、やだったんだもん」
しばらくして、瑞穂ちゃんはようやくぽつりとつぶやいた。
無理やり言わせたわけではない。私はただ目をずっと見ていただけだ。瑞穂ちゃんがこうされるのに弱いと知ってはいたけど。
瑞穂ちゃんは、スカートのポケットからハンカチを出して顔の汗を拭いた。恥ずかしいのか、私の顔を見てはくれない。
「私の悪口が?」
「そう、だけど」
だけど?
「……ちーちゃんを悪く言われるの、やだ」
「ありがとう。私も瑞穂ちゃんの悪口はやだな」
「そうじゃなくて、あ、えっと、そうなんだけど、そうじゃなくて」
うーあー、と縮こまりながらせわしなく髪の毛をいじる。おさげを指でくるくるといじっている。緊張すると髪の毛にさわってしまう、というのはたぶん瑞穂ちゃんの癖だ。
「あの、ね。くさいし痛いし、自分でもどうなのっておも、うんだけどね」
瑞穂ちゃんの顔が更に赤くなる。熱中症じゃないかな、大丈夫かな。ちょっと心配になったが、大人しく続きを待つ。瑞穂ちゃんのことだから、ここで遮ったらもう何も言ってくれない気がした。
瑞穂ちゃんは急にくるりと後ろを向いた。そのうえで更に顔を両手で覆う。
え、そこまでくさくて痛いんだろうか。
どんな言葉が出てきても驚かないようにしよう、と決めて、静かに待つ。
「ちーちゃんは、ヒーローだから」
待つ、つもりだったのに。瑞穂ちゃんははっきりとそう口にした。
顔を見てないからそんなにはっきり言えるんだろうか。……というか、ヒーロー?
驚かないようにしようと思っていたが、ついぽかんとしてしまった。耳慣れない言葉だったし、まさか私を形容する言葉として使われるとはまったく想像もしていなかった。
顔から手を離して、瑞穂ちゃんはちらちらと私を窺ってくる。
何か言わなくちゃ、と思ったが、結局今の発言に対する感想しか思いつかなかった。
「……うん、確かにくさいし痛いね」
「うぅ、い、言わないで、わかってるよ」
瑞穂ちゃんの声が泣きそうだったから、おとなしく口を閉じる。そんなに恥ずかしいなら別に言わなくてもよかったのに。言わせてしまった私がそう思うのもひどいが。
「でもね、ちーちゃんかっこよかったの。すっごくかっこよくて、ああ、こんな人もいるんだな、って思った」
小さな声で続く。
かっこいいというのはよくわからなかった。思ったことをそのまま言っただけで、かっこいいと言えるんだろうか。むしろ私は、かっこ悪いと思う。自分のことしか考えてなくて、そのせいでいじめの対象となってしまったのだから。
かっこいい、というのなら、私じゃなくて。
「唯ちゃんのほうがかっこいいと思うけど」
「うん、唯ちゃんもかっこいいよ。だけどなんか、ちーちゃんのかっこよさとは違うっていうか、ごめんね、わかんないんだけど」
頭の中が言いたいことでこんがらがってきたのか、焦った口調で瑞穂ちゃんは謝った。
そっと私に向き直って、視線をあちこちにやりながら口元に手をやる。
「なんて言えばいいのかな……。ちーちゃんは憧れって書いてヒーローってルビふる感じで。唯ちゃんは、そうだなぁ。憧れって書いて、輝いてる人かな」
憧れ。
憧れ。
「……よくわかんない」
「わ、わたしも思った」
瑞穂ちゃんはまた顔を手で覆った。
瑞穂ちゃんはいつもいつも、自分の伝えたいことを伝えるために必死になって。から回っても、それでも必死で。
確かに気は弱いんだろう、と思う。
だけどきっと、私より強い。
「でもさ、今日の瑞穂ちゃんはかっこよかったよ」
「え?」
今日初めて視線が合った。
呆気に取られたようだった顔が、徐々に笑顔に変わっていく。
「……ありがとう」
えへへ、と瑞穂ちゃんは照れくさそうに頬を染めた。
「ちょっとはかっこよくなりたいな、って思って」
「うん、かっこよかった」
「……えへへへ」
空気の読めない予鈴が鳴って、二人して少しびくっとする。
そして顔を見合わせて、笑い合った。
これは唯ちゃんにも話さなくちゃ。ちょうどいいことに、今日は雨だから。ちょっと開いている窓から聞こえてくる雨の音に、自然と緊張する。
あれからゆっくり話す機会がなかったのだ。仲直りはしたが、それでも緊張はする。
ふーと息を吐き出して、私は瑞穂ちゃんと一緒に教室に戻った。
バス停で待っていた唯ちゃんは、私を見てにへらっと笑った。その足元にはとらこが座っていた。相変わらず、雨の中でもその毛は濡れていない。
「ちっさーおはよ」
「おはよう」
「いやぁ、こうやってちゃんと話すの久しぶりで、ちょっと緊張しちゃうなー」
……唯ちゃんも同じことを考えてたんだ。
びっくりして、まじまじと見てしまう。私の反応に、唯ちゃんは「なにさ」と唇をとがらせた。
「私もそう思ってたから」
「お、以心伝心ってやつ? へへ、やったね」
なんとなく、会話が途切れた。だけど、気まずい沈黙ではなかった。雨の音と、時折聞こえてくる誰かの喋り声が心地いい。とらこはその沈黙に不安になったのか、私を見上げてきた。傘に隠れて、大丈夫という意味を込めて首を振る。
きっと仲良くなるためには、ああいう喧嘩みたいなものも必要だったんだろうな、と思う。私は感情をあまり激しく出すことはないし、唯ちゃんはいつも楽しそうにしているが、それもそれで感情を出していない、と言えるだろう。そんな私たちが本当に仲良くなるには、必要なことだった。
怒った唯ちゃんは……いつもより、なんというか人間らしかった。別に、普段が人間らしくないというわけではないけど。負の感情を隠して、できるだけ人間関係を円滑にしたい、というのは普通のことだ。
だけどあのときの唯ちゃんはそういうことを忘れて、感情のままに話しているような感じがして。
「今日ね、瑞穂ちゃんがいじめっ子に立ち向かってた」
手持ち無沙汰に傘をゆっくり回していた唯ちゃんは、「え、マジで?」と目を見開いた。私だって、自分がその場にいなかったら信じられなかっただろう。
「うっわー、瑞穂がかぁ。頑張ったなー」
「私のために怒ってくれたみたい」
「……頑張ったなぁ」
唯ちゃんはついさっき言ったことと同じことをもう一度つぶやいた。
傘を持っていた手に、大粒の雨が落ちてくる。つーっと肘の近くまで流れてきた。冷たいそれに少し意識を向けながら、「でね」と続ける。
「その後なんか変な流れになってさ。瑞穂ちゃん、私たちのこと憧れなんだって」
「げ、ちっさーならわかるけどあたしもかー……」
「私だって唯ちゃんに憧れてるよ」
「あっはは、やめてやめて」
くるっと。唯ちゃんが傘を勢いよく回した。水が飛んできて、私の制服にぽつぽつと点をつける。あ、ごめん、と謝る唯ちゃんに首を振る。
明るい表情だった唯ちゃんは、だんだんと困ったような顔に変わっていった。
「あたしさ、なんていうか……大衆受けする性格じゃん?」
それは私も感じていたことだったので、うん、とうなずく。
「だけどさー、心の中はすっごいどろどろしてるんだよ。ひどいことばっか考えてる」
ふふっ、と唯ちゃんは空々しく笑った。
「意外って思った?」
首を横に振りかけた。察してはいたのだ。でも――肯定されたがっているような気がして。
私はまたうなずいた。
「……心の中でどんなこと考えたって、頑張って頑張って隠し切って、ぜーんぶ墓まで持っていけたらさ。今まで考えてきたひどいことはなかったことになるんじゃないかって、勝手に思ってるんだよね。そしたら、みんなから好かれた綺麗な唯ちゃんだけが残るーみたいな?」
おどけたように言った唯ちゃんは、しかしすぐにうつむいた。
「ちっさーが、千佳ちゃんのこと話してくれた日、さ。あたし、苦労してきたんだろうな、って言ったでしょ。あのとき、ちっさーを可哀想って思ってた。見下してた。最悪だった」
ああ。あの最悪は、そういう意味だったのか。
可哀想、と思われるのは当然だ。人付き合いが苦手で、変なものも見えて、そのせいで友達がいなかった。普通の人からしてみれば、それは十分『可哀想』なことだろう。
だけど唯ちゃんにとっては、そう思うことは最悪なことで。
「……別にいいよ。それが最悪って言えちゃう唯ちゃん、すごいと思うし」
私だったらたぶん、何も考えずに「すごい苦労してそう。可哀想だね」くらいは言ってしまいそうだ。
口を開きかけた唯ちゃんは、そのまま閉じる。バスが見えてきたからかもしれない。
私たちは無言だった。唯ちゃんは何か言いたかったんだろうけど、私はもう会話は終わったものとして考えていた。
つん、ととらこに足をつつかれた。首をかしげれば、「唯さんの言いたいことを訊いてください」と小声で言ってくる。だからとらこは小声じゃなくて平気なんだってば。
バスに乗り込みながら、ちらっと唯ちゃんに目を向ける。言いたいことがあったとしても、それをせっつくような真似はしたくない。
「そういえばね、体操部結局辞めることにしたよ」
いつもの席に座ると、唯ちゃんが話し始めた。
「え、そうなの?」
「うん。だから雨の日は、今日みたいに一緒に帰れるよ」
やったね、と唯ちゃんはピースした。
本当に言いたいことの繋ぎとして話したのだろう。唯ちゃんはピースをはさみのように二回ちょきちょきさせて、そしてその手を口元へと持っていく。
言いにくそうに、「あの、さ」と切り出してくる。
「……あたしのほうこそちっさーが憧れだよ」
「そっか」
なんて返せばいいのかわからなくて。
「でも私は、唯ちゃんが憧れだよ」
ただそう言った。
うん、と唯ちゃんは泣きそうに笑った。




