15 : 「大丈夫って、言われた」
夏休み明け初日は、嫌になるくらいの晴天だった。課題テストも終え、早々と帰路につく。今日は活動しない部活が多いらしく、いつもよりも道が騒がしい。
視界の隅で、犬の幽霊が走っていった。今のは……ミニチュアダックスフンドだろうか。学校の近くで犬の幽霊を見ると、まろんを思い出してしまう。
自然と、唯ちゃんのことも。
あの日私は、そのまま帰ってきてしまった。唯ちゃんが私のために怒っていてくれたのに。
小さく息を吐いて、足を速める。
ありがとうとお礼を言うのも、ごめんと謝るのも、違う気がした。だからただ、「またね」と言って帰ってしまったのだ。
なんて返せばいいのかもわからなかったし、私が何を望んでいたのかもわからなかった。
許してほしい、と思っていた。だけど、千佳が私を恨んでいないというとらこの言葉を、否定した。信じなかった。
恨まれたい? 憎まれたい?
無意識のうちに、そう望んでいたんだろうか。
冷静になって考えてみれば、唯ちゃんの言葉は正しかったような気がした。でも、正しいと思うのと、それを認められるかは別の話だった。
よくわからないし、暑くてこれ以上考えたくなかった。
どうであれ、私が千佳に許してほしいと思っていることだけは確かだ。
ハンカチで汗を拭う。
上半身は美女、下半身は蛇の妖怪が近くを歩いていた。にゅるりとした蛇が私を見ると、同時に上半身の美女も見つめてくる。視線を返さないようにして、気にせずバス停に向かう。きっととらこのおかげで悪い妖怪には会わないようになっているが、それでも関わったら面倒なことは変わらないのだ。
『もう、いいから! 大丈夫なの! はいおしまい!』
唯ちゃんの怒った声が蘇る。
大丈夫、なんだろうか。
暑かった。手で顔をぱたぱたと仰ぎながら歩く。
大丈夫だと思っていいんだろうか。私は、千佳に恨まれていないと、そう思っていいんだろうか。……駄目だ、私じゃ判断がつかない。やっぱり千佳本人から何か言われないと、納得できない。
――会いたい、な。
会いたくないという気持ちはやっぱりあるけど。
それでも、会いたいという気持ちが強くなっていた。私、本当に最低だな、と改めて思う。
道端の石を蹴ろうとして、空振った。……誰かに見られてないだろうか。きょろきょろと周りを見ると、目撃していたのは三角形の変な妖怪だけだった。ケケケ、とうるさい笑い声を上げると、ぴょんぴょんと跳ねてどこかへ行ってしまった。
いっそ。
幽霊も妖怪も見えなかったら、こんなふうに悩み続けることもなかったんだろうか。幽霊になった千佳がいつか会いにきてくれると縋ってしまうから、こんなに考えてしまうんだろうか。
それなら、こんな力なんていらなかったのに。
バス停で待っていたのはとらこだけだった。唯ちゃんは足が治ったから、また自転車通学に戻したのだ。体操部に復帰するかどうかは迷っているらしい。
唯ちゃんがいないのは少し楽だけど、少し寂しい。
なんとなくとらこの顔を見れなくて、うつむきながら挨拶をする。
「……おはよ」
「おはようございます」
とらこはとたとたと近寄ってきて、私を見上げた。
「なんだか寂しそうですねー」
ふふ、と笑いがこもった声で言う。
「……うるさい」
「図星ですか? ふふふふふ」
「うざい」
「不機嫌ですねぇ。でも元気そうでよかったです」
思えば、ここ一週間ほどとらこに会っていなかったのだと、今更気づいた。
黙り込む私に構わず、とらこは明るく続ける。気を遣われているのがわかった。
「唯さんの家で、何かありましたか? あ、覗くなんて野暮なことはしてませんよ、行ったのを知ってるだけですからね!」
そんなことを言っておきながら、私たちが何を話してたかなんて全部知っているのだろう。
とらこは知らないふりをしてばかりだ。どこからどこまでを本当に知っているのか、全然わからない。知っていることをわざわざ尋ねるときでも、私が拒めばすぐに引き下がるのだ。そのまま知らないふりを続けてくれる。
「ただ課題やってただけだよ」
だから、そんなふうに誤魔化した。
唯ちゃんと瑞穂ちゃんが課題をやっていたのは事実だし、別に嘘はついていない。
「そうですかー」
とらこはのんびりとした口調で、何も訊かないでくれた。
だけど私は、誤魔化しの言葉を更に重ねた。
「唯ちゃんと瑞穂ちゃん、一昨日の時点で三分の一くらい残ってたんだよ」
「おー……それは大変ですね。終わったんでしょうかねぇ」
「瑞穂ちゃん、今日ちょっと隈できてた」
「ちーさんはちゃんと寝ました?」
「うん。課題は早めに終わらせといてたし」
バス停でとらこと話すのなんて久しぶりだった。
夏休み前は唯ちゃんがいて。だから、妖怪のとらこと話すことなんてできなかった。
……唯ちゃんは、どうして幽霊も妖怪も信じてくれたんだろう。有り得ないと否定したり、馬鹿にしたりすることは一度もなかった。最初から。心の中ではどう思っていたとしても、それを口に出すことはなかった。
幽霊や妖怪を信じたんじゃなくて。
幽霊や妖怪が見える、私を信じたんだろうか。
「唯さんは、いい子ですよね」
急にとらこが言った。
唯ちゃんと初めて会った日、とらこは「本条さん、いい子でしたねー」と言っていた。あのとき私は、その言葉にはっきりとはうなずけなかったけど。
「うん、めちゃくちゃいい子」
今はもう違った。
きっと唯ちゃんも、色々と考えてはいるんだろう。最近それがわかってきた。素直すぎる、と思っていたけど、そうじゃないのだ。相手の気分を損ねないように、すごく気を遣っている。たまに言葉が嘘っぽいときがあって、そういうときはたぶん本当に嘘なんだろうけど。
一昨日のは、全部本心だった。と、思う。
心から、怒ってくれたのだ。
「大丈夫って、言われた」
あの言葉も、唯ちゃんは本気でそう思っていたから言ったんだろう。
とらこは、何がとは訊かなかった。ただ「わたしも言ったじゃないですか」と少し笑みを含んだ声で言う。
「うん、そうだね」
心がまた少し軽くなってしまった。
「あ、でもとらこ、唯ちゃんじゃなくて瑞穂ちゃんもいい子だからね」
それは言っておかなくては、と続ける。
瑞穂ちゃんの言葉選びというか、たとえの仕方というか。そういうのは正直よくわからないことが多いけど、全部一生懸命考えているのがわかるから。
不器用な子だよな、と思う。その不器用さを、私は好ましいと思うのだけど。
「ふふふ、いい子が二人も友達でよかったですね」
嬉しそうに笑うとらこに、首をかしげる。
「え、一匹足りなくない?」
「……この感じ久しぶりです」
ぐおーとなんだか恥ずかしそうに変な呻き声を出すとらこ。とらこのことは友達に数えちゃいけなかったんだろうか。
私もとらこも、黙り込んだ。私は道を走る車の音を聞いていた。
それを聞いていると、自然と他の変な音たちも耳に入ってくる。鳴き声だったり、足音だったり、何かが這うような音だったり。どこからどこまで妖怪なのだかわからない。
過ぎ去っていった車に、触手を持ったぐにゃぐにゃとした妖怪が張り付いていた。
幽霊も妖怪も見えなかったらよかったのに、と考えてしまったけど。
妖怪が見えたから、とらこと出会えたのだ。幽霊が見えたから、唯ちゃんや瑞穂ちゃんと友達になれた。
変なものが見えるのは、いいことばかりじゃなかった。というより、いいことのほうが少なかったけど、この二つで全て帳消しされるだろう。
うん、見えてよかった。
「唯ちゃんと、仲直りしなきゃなぁ」
やって来るバスをぼんやり見つめながら、つぶやく。
「唯さん、もう怒ってませんよ」
「……やっぱり全部知ってるんでしょ。私以上に」
「さあー?」
とぼけるとらこにため息をこぼして。
私はバスに乗った。隣の席には、唯ちゃんではなくてとらこが座った。




