10 : 「うん、どういたしまして」
「唯ちゃん、今日唯ちゃんのバス停で一緒に降りてもいいかな」
緊張しながら、そう切り出す。声が喉に引っかかるような感覚だった。
朝とらこから受け取ったボールは、リュックに入っている。準備はもうできていた。あのマルチーズは、ここにはいない。とらこも、マルチーズを万が一にでも怖がらせたくないから、と今日はいなかった。
唯ちゃんは驚いたように目を大きくした。
「え、どしたの?」
「……犬と、遊ばない?」
どう言おう、と少し逡巡して、口にしたのはそんな単純な言葉だった。説明が足りない自覚はあったが、そこは気にしないことにしよう。
何かに気づいてはっとしたような顔をした唯ちゃんは、しかしすぐにこちらを探るような表情に変わる。わかっても、理解はできないのだろう。
「……どういうこと?」
念のため、といったふうに訊いてくる唯ちゃんに、リュックからボールを取り出してみせた。じっと見てくる唯ちゃんに、ボールを少しおおげさなくらい掲げる。
「ここに、幽霊も人間も触れるボールがあります」
「うっわ、なにその超都合いいボール」
「……私と完全に同じ反応だ。それで、使う?」
やっぱりこの反応が普通だよな、と苦笑いを浮かべてしまう。都合がよすぎると疑ってしまうのは、当然のことだろう。
「使う」
即答、というには少し間があったが。それでも十分早く、きっぱりと唯ちゃんはうなずいた。その答えを聞いて、体から緊張がふっと抜けた。
ボールを掲げていた手を下げ、はーっと息を吐きながら下を向く。
「信じてくれないと思ってた」
「あー……」
唯ちゃんは微妙な笑顔のまま、数秒黙り込む。
「……試すだけなら、嘘でもなんでもいいじゃん? まあ、ちっさーは本当に幽霊とか見えてるみたいだからさ。普通に信じるよ?」
「なんだか唯ちゃんの今の言葉のほうが嘘っぽい」
「えー、心外だなー」
「まあ、信じてくれなくていいよ。知り合ったばっかりだし、こんな怪しいこと信じるほうが難しいし」
「……それこそ心外!」
むっと唯ちゃんは唇を尖らせた。色つきのリップでも使っているのか、その唇は不自然じゃない程度に綺麗なピンク色だった。
「知り合ったばっかとかさ、関係ないと思うんだよね。確かにまだそんな経ってないけど、あたしちっさーと結構仲良くなれた自信あったんだけど?」
「うん、仲良くなりたい」
「なりたいじゃなくて、なってるの! ……ちっさーがどう思ってようが、あたしの中ではそうなの」
大きな声で言った唯ちゃんは、ここがバスの中だと気づいたのか途中で声をひそめた。お年寄りが多いこの町は、バスの利用者もお年寄りが多い。この時間帯は利用者自体が少なく、お年寄りはあまり騒がしくしないので、バスの中は静かだった。バス全体に聞こえるような声で話しているのなんて、私たちくらいだろう。
でもそっか。仲良くなれてたんだ。
「よかった。唯ちゃんのこと好きだから、仲良くなりたかったんだ」
「あっははー、ありがとー……はっず、何これはずい」
唯ちゃんはにっこりと笑ったが、だんだん引き攣ってきた口元を押さえる。
「なんかこういうこと言うといっつもそういう反応されるんだけど」
「そりゃそうだよ! うん、ありがとね! あたしも好きだよ!」
「唯ちゃん、ここバスだよ」
「うん……だね。おっきい声出しちゃだめだね、わかってる」
なぜかぽん、と肩に手を置かれた。疲れた笑みで首を横に振る唯ちゃん。もう手遅れってことだろうか。何がだろう。
首をかしげていると、「ちっさーはほんとちっさーだなぁ」とますます意味がわからないことを言われる。
「どういう意味?」
「ううん、なんでもない。あ、そうだ、瑞穂も呼んでいい? あの子丁度部活オフだろうし、もう帰ってると思うんだよねー。呼べばすぐだからさ」
話題を変えられてしまった。
私が答える前に、唯ちゃんはスマホを出して何かを打ち込んでいる。ちらっと見える限りラインの画面だったから、唯ちゃんに連絡を取っているのだろう。
「いいけど、近いの?」
「ん、隣の家」
「そういえば幼馴染なんだっけ。でも確か、佐伯さんって自転車じゃなかったよね。電車?」
駅の方向に歩いていくのをこの前見たので、ちょっと不思議になる。そこまで家が近いなら、佐伯さんもバスのほうが楽なんじゃないだろうか。自転車は……運動は苦手そうだし、危ないのかもしれないけど。
唯ちゃんは口の前で、人差し指でばってんを作った。
「バスは酔うから無理なんだって」
ああ、と納得する。私もとらこと話すようになってからはなぜか酔わなくなったが、それ以前はたまにバス酔いに苦しんでいたのだ。
「あ、既読ついた」
そう言って、スマホの画面を見せてくれる。『今結城さんといっしょ まろんと遊ぶからウチ来て』というメッセージの下に、今唯ちゃんが『既読じゃーん』と言っている兎のスタンプを押した。……私が言えることじゃないけど、説明それでいいんだろうか。まろんが死んだことは知っているだろうし、悲しみのあまりちょっと変なことを言っていると捉えられるかもしれない。
唯ちゃんは返信が来る前にスマホを切った。もうバス停に着くから仕方ないというのはあるんだろうけど、返信を待つ時間くらいはあるのに。
一緒に立ち上がりながら「いいの?」と訊くと、唯ちゃんはにひっと笑った。
「いーのいーの。来るよ、瑞穂は」
「それならいいけど……それから今更気づいたんだけど、松葉杖で遊べる?」
「あ」
普通に歩いていることも多いからすっかり忘れていたが、唯ちゃんは足を怪我しているのだ。本人も忘れていたようで、口が「あ」と言った状態で固まっていた。
「……まあなんとかなるからだいじょーぶ」
いつもより二つ手前のバス停で降りるとなると、バスに乗っている時間はいつにも増して短く感じた。実際はそれほど変わらないんだけど……でも唯ちゃんちが近くてよかった。とらこがボールのことを教えてくれたのは朝家を出てからだったから、夕飯の支度も掃除も洗濯も、何もできていないのだ。せめて昨日別れるときに言ってくれていたら、少しは楽になったのだが……ボールを作ってきてくれただけでもありがたいから、感謝しないと。
唯ちゃんちに着くと、マルチーズが家の中から飛び出してきた。おかえり、とでも言うように、キャンキャンと吠えてしっぽを振っている。
他の幽霊も妖怪も気配を感じないのは、とらこが何かしてくれたということなんだろうか。
「瑞穂まだみたいだね」
「待つ?」
「うん。電車の時刻表的に、もうちょっとで来るだろうし」
唯ちゃんはスマホに電車の乗換案内のアプリも入れているようだ。私は電車で出かけることなんて滅多にないからアプリを探しもしなかったが、入れておいたほうがいいのかもしれない。夏休みとか、唯ちゃんにどこかへ誘われそうな予感がする。
ほどなくして、佐伯さんは来た。途中途中で走ってきたらしく、顔は真っ赤で息が切れていた。汗びっしょり。着替えたいならそれを待っても、と思ったが、どうやらそのまま遊ぶみたいだ。
「唯ちゃん、いつのまに結城さんと仲良くなってたの……!?」
息が整い、何を言うかと思えば開口一番それで、へ、と戸惑ってしまった。
「えっへへ、いいでしょ、抜け駆けしちゃった」
「ずるい!」
「ちっさー、唯ちゃんと呼ぶ仲なのだよ」
「え、え、ずるい、いいな、あの、結城さん!」
唯ちゃんに対してはこんなにぽんぽん話せるのか、とびっくりしていると、急に名前を呼ばれた。
「な、何?」
「ええっと、えっと……ち、ちーちゃんって呼んでもいい、かな?」
「うん。私は瑞穂ちゃんでいい?」
「うん、うん!」
ちーさん、ちっさー、ちーちゃん。呼び名ってこんなに被らないものなのか。
……これであだ名が三つになったのか。なんだかすごく嬉しい。
瑞穂ちゃん、はそこまで言って落ち着いたのか、普段のようなおどおどした雰囲気に戻った。走ったせいで興奮していたのか、唯ちゃんの前だったせいか。どっちにしろ、少し残念だった。
「そっ、それで、まろんと遊ぶって、どういうこと……?」
「ちっさー幽霊見えるんだって」
「……え?」
「見えるんだって。で、まろんがまだ成仏できてないから、その前に一回遊ばせてくれるんだって。幽霊と人間どっちも触れる超都合いいボールがあって」
「……え、え?」
「あーもう、とにかくやるよ?」
「え、え、え、ええ、えっと、え?」
可哀想になってきた。非常にわかりやすく困惑した瑞穂ちゃんは、唯ちゃんに無理やり手を引かれてこちらに来た。その途中で瑞穂ちゃんは松葉杖を放り出す。え、それいいの。いや、放り出すって言っても投げ捨てたわけじゃなくて、適当な場所に置いたということだけど、それでもそんな扱いをしていいものなんだろうか。
気になって松葉杖をじっと見つめる私に、唯ちゃんは尋ねてくる。
「ちっさー、まろんいる?」
「うん、いるよ。さっきから二人にしっぽ振ってる」
「そっか、あーお母さんには言わないほうがいいかなぁ。こういうの信じない人だし。よーし瑞穂、投げてみよっか」
「うぇっ!? う、うん?」
いまだによくわかっていない瑞穂ちゃんを気にもせずに「ボールちょうだい」と言ってきたので、はい、と渡す。
たぶん唯ちゃんも、完全には信じられていないのだ。唯ちゃん自身が何と言おうと、こんな話を無条件に信じる人なんていないと私は思っている。信じたがっているから、信じていると思い込んでいるだけなのだろう。
だけど、ボールを握った彼女の手は少しだけ震えていた。何から来る震えなのかはわからない。瑞穂ちゃんがその手にそっと手を重ねると、唯ちゃんは大きく深呼吸をした。「よし」とつぶやいて、ボールを投げるために腕を後ろに振る。
「まろん取ってこーい!」
ぽーん、と。ボールが飛ぶと、すごい勢いでまろんが走っていった。そしてそれを口でキャッチすると、すぐに持って帰ってくる。
私にとってはそんな普通の光景でも、二人にとってはそうではなかった。
「ボールが……浮いて、る。帰ってきた? まろん? ここ?」
「え、ゆいちゃ、今の、ま、ふぇ!?」
目を大きく見開いて、ボールを見つめる。
しばらくその状態が続いた。我慢できなくなったのか、まろんはきゃんっと吠えてボールを落とす。それをもう一度くわえ、ばたばたしっぽを振った。
唯ちゃんは緊張したようにボールを受け取ると、それがあった場所から判断してか、まろんの頭のあたりに手をやる。なでるような動作をすると、さわれているわけなんてないのに、まろんは嬉しそうにますますしっぽを振った。ハァハァという息遣いも聞こえてくる。
「唯ちゃん、わたしもやりたい」
強張った表情で、震える足でようやく立っている状態で、瑞穂ちゃんはボールを持った。
ボールが、投げられる。またまろんが取って、持って帰ってきて。二人で交互に投げながら、それを何度も続けた。
「あは、は、はは、いるんだ、いるんだ。ほんとにいたんだ。どうしよ、なんか泣けてきた。散々泣いたのになぁもう」
「ゆ、ゆいちゃん、わたっし、も」
ぼろぼろ泣く二人を、私はただ静かに見守る。
二人には、あの嬉しそうな、楽しそうなまろんが見えていない。この光景は、私にしか見えていない。
それがなんだか。
とても、もったいないなと感じた。
まろんの姿がだんだんと薄くなっていく。ついに成仏するみたいだ。
二人には見えていないから、そのままボール遊びは続く。まろん自身も気づいていないのか、消えるぎりぎりまでボールを追いかけていた。
ボールをキャッチして、こっちに走ってきて。その途中で、まろんは完全に消えた。ぽろっとボールが地面に落ちて跳ねる。
「……あれ? まろん?」
不安そうにボールに近づいた二人は、さわれないとわかっているはずなのに、さっきまでまろんがいた位置で手をさまよわせた。
しゃがみこんだ二人の横に、私もしゃがむ。
「成仏しちゃったみたいだよ」
「……成仏かー」
唯ちゃんは、ボールを人差し指で弾いた。ころころと転がっていくボールをキャッチするものは、何もいない。やや離れたところで止まったそれを見て、唯ちゃんは赤くなった目で笑った。
「あーあ、これでほんとにお別れなんだね。もっと遊びたかったなぁ」
「ちょ、ちょっと怖かったけど、まろんだったんだよね。信じられないけど、まろん、だ、った、ん……」
「あたしより泣かないでよー。また泣けてきちゃうじゃん」
「ごめんねぇー、ごめんねー」
謝る瑞穂ちゃんの背中を、唯ちゃんがばんっと叩く。瑞穂ちゃんがまた「ごめんね」と謝ると、唯ちゃんはそれに鼻をすすって返した。
よかった。ちゃんと、まろんが成仏できて。二人がまろんとお別れできて。
もらい泣きなんてしたことがないのに、ちょっとつられて泣きそうになった。つん、と鼻が少し痛くなる程度で、涙はにじんでもこなかったけど。
「ちっさー、ありがと」
「ちーちゃん、ありがとう」
「うん、どういたしまして」
二人の言葉に、ただうなずく。
それだけでいいと思った。




