00 : 「わたしは、とらこと言います」
土砂降りの雨が、傘を打ちつけていた。歩けば歩くほど、ハイソックスが水に濡れていく。
不快感に顔をしかめながら、駅とは反対方向にあるバス停へと足を進めた。これはもうちょっとしたら、靴の中まで水がたっぷり浸みてきそうだ。朝は降ってなかったのになぁ……念のため洗濯物を中に干しておいて正解だった。
六時間目が終わってすぐの今、学校前の通りに生徒の姿はあまりない。特にバス停方向の道には。私の学校は部活に入っている人が多いし、数少ない帰宅部の人も、電車や自転車を使う人がほとんどで、私のようにバス通学の人は少ないのだ。学校バスではないから、それも当然なのかもしれない。
ただ古びた看板が立っているだけのバス停。屋根もないから、バスが来るまでこの雨の中傘を差して待たなければいけない。
――今日もいるかな。
雨の音を聞きながら、ここ最近毎日バス停にいる変な生き物を思い浮かべる。
私は昔から、おかしなものがよく見えた。幽霊みたいなものや、妖怪みたいなもの。幼稚園生のころに、本来それは見えてはいけないものだと理解はしたが、話しかけられたらつい返事をしてしまったり、目で追ってしまったりすることはやめられなかった。もともと同世代の子とはどこかずれた性格だったのも合わさって、自然と友達はできなかった。
不幸中の幸いか、今まで少しでも関わった幽霊や妖怪は、みんな普通にいい人、あるいはものたちだった。そもそも悪い幽霊や妖怪は本当にいるの? と疑問に思うくらいに。
まあそれはさておき、バス停の変な生き物についてだ。
白い虎のようなそれは、二次元的というか、この世界に存在していることに違和感を覚えるような姿をしていた。子供の虎のサイズなのでそれなりに可愛いが、どう見たってこの世の生き物ではない。
そしてその虎は、私と一緒にバスに乗り込んで、いつも私の隣に座るのだ。
――あ、またいる。
虎は、バス停の看板の横で座っていた。土砂降りだというのに、全く濡れていない。
私は何てことのない顔をして虎の横に立ち、バスを待った。なんとなく傘をくるりと回すと、水が飛び散った。
ほどなくして来たバスに乗り込めば、虎も当然のようについてくる。
いつもの席に座ると、虎も私の隣へ。隣の席がない席に座ってみたらどうなるのか、とは思っても、めんどくさくて結局この席に座ってしまう。
それにしてもびしょびしょだなぁ。スカートのプリーツが崩れないように座ろうと思ったが、それも無駄なようだった。風もちょっと吹いていたので、傘で防げていた部分なんて胸より上だけだ。傘を持っていた腕だってびしょ濡れだし、早く帰って着替えたい。ああでも丁度いい、濡れてるならこのままお風呂洗っちゃおう。お風呂洗ってから着替えて、スカートはアイロンをかけて、それから晩御飯の支度……今日は何にしようかな。
いいや、帰ってから考えよう。
虎に意識を向けないようにしながら、スマホをいじる。そうしたって、虎はじーっと私を見つめてくるものだから、意識せざるをえなかった。
だけどこれはもう、私にとって日常の一部だった。虎のことを意識するとはいっても、何かが起こるのではないか、と不安にはなることはない。実際そのまま何も起こらず、最寄りのバス停で降りた。虎もいつもここで一緒に降りて、どこかへ行ってしまうのだ。
こんな非日常を、日常の一部だと考えてしまうのはどうかと思うけど。私の日常は、そんなものだ。
弱まらない雨にげんなりしながらも、傘を差して歩く。
普段なら後はもう、家に帰るだけだった。けれど、この日は違った。
「あの、すみません」
小学生くらいの、高い女の子の声がした。雨の中でもその声ははっきりと聞こえて、思わず振り返る。しかしそこには虎しかいなくて、気のせいかと前に向き直った。そういえば、虎がバスを降りてからもついてくるって初めてだな。
「あの!」
声が大きくなった。……あれ、ちょっと待って、嫌な予感がする。
無視して足を速めると、白い虎が私の前に回りこんできた。大きな赤い目が、しっかりと私の目をとらえる。
「見えてますよね!」
……ああもう、迂闊だった。話せるのか、この虎。
なおも無視を続けると、虎はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。水も飛ぶ。濡れないくせになんで実体があるんだ。
「みーえーてーまーすーよーねー!」
「うざいし水飛んでくるんだけど」
あ、と思ったときにはもう遅い。虎は目を輝かせた。
「やっぱり!」
「……で、何の用?」
「え、あ、えっと」
諦めて尋ねれば、虎は口ごもる。話すことを決めてから話しかけてほしいものだ。
尋ねたからにはそのまま帰るわけにもいかず、虎が何か言うのを待つ。スカートの内側のぺらりとした生地が、足に張り付いて気持ち悪い。待たされたらその分濡れるし、帰る時間も遅くなって面倒だ。
私の苛立ちを感じたのか、虎はおそるおそる見上げてきた。
「わたしは、とらこと言います」
「……は?」
いきなり何を言われたのかわからなかった。
「とらこです」
「……君の名前?」
「はい!」
元気よく答える虎――とらこを、まじまじと見つめる。とらこ。そのまんまだ。安直にも程がある。もし私が名前をつけるとしても、めんどくさくなってそんな名前にしそうだが。
「それで?」
名乗って、何がしたいというんだろう。
首をかしげて促すと、とらこはちょっと体を小さくした。
「……あ、あなたの、お名前を教えてください」
「やだ」
えっ、とショックを受けるとらこに、眉をひそめてやる。
「妖怪に名前教えるとか、なんかあったら困るし」
「あ、そうですね、そう、ですね……。はい、わたし妖怪です。でも別に、名前を知ったからってわたしは何もできませんよ……?」
しょんぼりとするとらこ。随分と感情表現が豊かな妖怪だ、と少し感心してしまった。
とらこはしかし、すぐにはっとしたように口を開く。
「じゃあ、下の名前の一文字目はなんですか!?」
「それ聞いてどうする気?」
「……それをもとにあだ名を作っちゃ駄目ですか?」
「駄目」
「けち!」
「じゃあね」
さっさと歩き出すと、とらこは慌てて行く先を塞いできた。めんどくさい。
気づけば、雨は弱くなってきていた。
「ずっとあなたと仲良くなりたかったんです!」
とらこが勢い込んで言ってきたので、少し引き気味に返す。
「……だろうね。君、毎日バス停で待ってたもんね。ストーカーみたい」
「すとぉかぁとは人聞きが悪いですね! ただちょっとだけ見てただけですよ」
「ストーカーって言えないの? ……もしかして、結構古い妖怪?」
「生まれたのは平安でした。あ、話し方はちゃんとこの時代のを学びましたよ!」
まじか。えへんと自慢げな顔をしているようなとらこに「へぇ」と返しながらも、内心ではかなりびっくりする。こうして妖怪とまともに話すなんて幼稚園ぶりだけど、いつごろ生まれたかなんてどの妖怪にも聞いたことがなかった。
「平安生まれの妖怪さんが、なんで私と仲良くなりたいの?」
「……だって、妖怪が見える人間なんてそうそういないじゃないですか」
「それだけ?」
とらこは黙ってしまった。その様子からすると、私と仲良くなりたい理由は他にもありそうだけど。……訊いても答えてくれなさそうだな。
はあ、とため息をついてみる。その音は弱い雨にかき消されるかとも思ったが、とらこまで届いたようで、体を少しびくっとさせていた。
――名前の一文字くらいなら平気かな。
なんの気の迷いか、そんなことを考えてしまう。何もできない、という言葉を信じたわけではないけれど、まあ。……悪い妖怪ではない、気がするのだ。単なる直感だけど。
その直感を信じるか否か。悪い妖怪に今まで会ったことがないとしても、それは単なる偶然の可能性もあるのだ。この虎が初めての悪い妖怪、という可能性は捨てきれない。
迷っていると、それを察したようにとらこの顔に少し希望が戻る。
「わわ、わたしのご主人様はすでに亡くなっていてですね!」
「そりゃー平安の人ならね」
「あなたはご主人様のうまれか……あ、すみません、なんでもありません!」
うわぁこれ言わないつもりなんだった、ととらこは小さくつぶやいた。
うまれか……生まれ変わり、とか?
なるほど、と納得する。さっき言わなかった理由はこれか。あなたはわたしのご主人様の生まれ変わりなんです! なんて、胡散臭すぎる。それに、生まれ変わりだから仲良くなりたいなんて言われるのは、いい気はしない。
いい気はしない、けど。
「ちだよ」
「……ち?」
「一文字目」
なんとなくだった。特に何を思って教えたわけでもない。
だけどそれだけで、とらこは嬉しそうに近づいてきて、私の足にからだを擦りつけた。なぜかその部分だけ靴下が乾いて、変な感じがする。
「ちですか、やっぱり! ちですか! じゃあちーさんですね!」
え、そのままなんだ。
私の不満を感じ取ったのか、とらこは「ち、違います、えーっと」と焦り始めた。……まあ別に、ちーさんでもいいんだけど。普段は女子からも名字にさんづけで呼ばれてるから、ちょっとでも親しみをこめた呼び方をされると、正直嬉しかったりする。別に、女子から下の名前で呼ばれたい、という希望があるわけではないけど。
それで、ちーさんか。……ちーさん。
ちーさんちーさん、と心の中で何度か言ってみる。うん、悪くない。
「いいよ、ちーさんで」
「わーい! あ、わたしのことはとらこと呼んでくださいね!」
「とらこ」
言われるままに名前を呼べば、とらこの動きが一瞬止まった。それでも次の瞬間には、幸せそうにごろごろ喉を鳴らしながら、また私の足にからだを擦りつけてくる。
いつの間にか雨は止んでいた。傘を閉じ、しゃがみこんでとらこの頭をなでてやる。奇妙な見た目をしているから少しおそるおそるになったが、意外にもふさふさしていた。喉の音が更に大きくなる。
「ちぃさま」
「……ん」
きっとそれは、そのご主人様とやらのことなんだろうと。気づいてはいたけど、私はただうなずいた。
数分の間なで続け、はっと気づく。
とらこは、他の人には見えないんだった。
勢いよく立ち上がって、周囲を素早く確認する。幸運にも、近くに人はいなかった。……よかった、見えない『何か』をなでてるとか、見えない人からしたらめちゃくちゃ怖いよね。変な人だと思われるのはいいが、怖がらせるのはできるだけ避けたい。
不満そうに見上げてくるとらこに「見えない人からしたら、私頭おかしい人でしょ」と説明すると、納得してくれたようだった。
「それじゃ、ばいばい」
「はい、また明日です!」
「……え、明日もいるの?」
あまりにも自然に返された言葉に、ぽかんとしてしまった。もうバス停には来ないのかと勝手に思っていたのに。
「駄目ですか?」
「いや、いいけどさ。ただ、バスの中では無視するし、降りた後でも人がいたら無視するからね」
上目遣いで訊いてきたとらこにそう答えると、どことなくがっかりしながらも、「はーい……」と返事をした。
それじゃあ今度こそ、とまたとらこに挨拶をする。
「また明日」
「はい!」
力いっぱいうなずいて、とらこは名残惜しげにこちらを振り返りながら、どこかへ去っていった。
それを見送ってから、私も歩き出す。
近くにあった小さな石を蹴った。靴の先から水が飛ぶ。靴下はとらこのおかげで乾いていたが、靴の中はびしょ濡れのまま。ぐっしょりとしていて気持ちが悪かった。
だけど、まあ。気分は結構いい。
閉じていた傘を左右に回して、水を飛ばす。人がいるときにこの方法で水は切らないけど、近くに誰もいないんだからいいだろう。普段は自分の体から離してやるが……どうせびしょびしょだ。関係ない。
ぱち、と傘を留める。
とらこが去っていったほうへちらりと視線を向けてから、私は家へと歩き出した。
雨が鬱陶しい、六月の日。私はとらこと出会った。