②
「美紗ー、お待たせ! なんだ、トイレ長いなと思ったら、先生としゃべってたの」
空気をぶち壊す勢いをまとって優が現れた。助かった、と思っている自分がいる。
「菊池、気が向いたら教員室においで」
「……高嶋さんとご飯食べてくんで…」
先生は何も言わずに余裕の笑みを浮かべ、校舎へ消えていった。
「何あれ、何しゃべってたの? ってか、約束してたっけ? あたし今夜中に群馬帰るから時間ないよ」
「ううん、なんでもないの。ゴメン、勝手なこと言って」
「美紗、スゴい雰囲気だったよ、今。追いかけないの?」
「え……?」
「やっぱりそうだったんだ。前からたまに『ふたりの世界』状態だったもんね」
ああ、優にまで気づかれてたんだ。
「卒業したのに何に遠慮してるの? 自分にでしょ? 自分で限界決めてるんでしょ?」
菜摘と「いい女になっていい恋する」って話したのに、「本気出す」って誓ったのに、わたしは何が怖いんだろう。
自分? 自分をすべてさらけ出すのが怖いの?
「先生の顔見た? あの余裕! ムカつかない?」
確かに、あの余裕綽々の笑顔。思えば先生はずっと調子に乗ってた。
「あのムカつく顔蹴り飛ばすか、別の方法でひと泡吹かすか、美紗どうすんの?」
なんだか優の方がエキサイトしている。裏表がない優がうらやましかった。
わたしはどこか本気で人にぶつかることをしてこなかった。避けていたつもりはないけど、結果としては同じことだ。
「食われるよ、このまま。悔しくないの? こっちが食っちゃいなよ!」
急に話が飛躍するのに優は真剣な顔で、思わずわたしは吹きだした。
「…アハハハ、優、何言ってんの。最後はおかしいよ! そう、わたしがガチで人にぶつかることなんかないって香山先生は分かってるんだろうね。悔しいなぁ、ハハハ…」
「いいの? 超あっちのペースだよ!?」
「イヤだね。ムカつくね。どうしよっかな」
「押し倒せば?」
「学校ではちょっと…」
「ほら、それだよ。美紗はそこでブレーキかける。いいから行ってきなって。あのオッサン、殿さまみたいな顔で美紗を待ってるに違いないよ! あー、ムカつく!」
「……ありがと、優。ギャフンと言わせてくる」
この壁を乗り越えないとダメなんだって分かってた。
優のように大胆に、早瀬くんのように誠実に、黒岩くんのように陽気に、そう生きたいって思ってた。でもそれは違う。わたしがわたしの殻を破って、ありのままで体当たりするほかないんだ。
わたしは再度校舎へ向かい、途中で振り返った。優はその場でジャンプし、こちらに背を見せ走っていってしまった。
何度となく通った社会科教員室。卒業後も来るとは思わなかった。
「失礼します」
以前と同じように香山先生はコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。香山先生しかいない。
「おう、菊池」
何が「おう」だ。余裕こいて。
「香山先生、お話ってなんですか?」
「んー、とりあえずコーヒー飲む?」
ごまかされないよ。わたしは先生の胸ぐらをつかんでキスした。
鳩が豆鉄砲を食ったようとは、こんな表情を言うのだろう。先生は目を白黒させてポカンとしている。
「先生、特にお話がないなら帰ります。高嶋さんが待ってるんで」
「菊池…!」
手を強く引かれて、気がついたらわたしは先生の腕の中にいた。「噛みつかれる」と思うほど強引にキスされた。いや、そもそも強引にキスしたのはわたしの方だ。
息が苦しい。身動きがとれない。
「菊池…、泣くなよ……」
あれ、わたし泣いてる? いつの間に?
「先生こそ泣かないで……」
「なんで分かったんだよ」
身体を少し離すと、本当に先生の目も少し赤かった。思いつきで言ったのに当たってしまった。先生はわたしの額に自分の額をつけ、もう一度キスした。
「いいんだな? もう手放せねえぞ」
「そっちこそ。覚悟あるんですか?」
わたしが自分の殻を破ろうとしているのに気づいてるんでしょう? 全部さらけだしてしまうかもしれないんですよ?
「あるよ。全部俺のもんだ」
負けたかも、と思った。「調子に乗るな」とか、「お前こそ覚悟あんのか」とか言われると思ったのに、「覚悟はある」と言われちゃ、全部出すしかないじゃない。
先生が「人が来るから」と離れるまで、わたしは必死に先生にしがみついてた。
その夜、香山先生の部屋に泊まった。
先生はとても優しくしてくれた。
いっぱい「美紗」って呼んでくれた。
何度も何度も「好きだ」って、「離さない」って言ってくれた。
わたしは、まどろみに飲みこまれる直前に、一度だけ「先生、大好き」と言うので精一杯だった。




