⑦
予報では、今日は温かくなるようだ。
ついに入試の結果が出る今日、サクラ色のワンピースを身にまとうと、心がずっと春を渇望していたということに気づいた。お母さんが「一緒に見に行こうか?」としつこかったけど、結果を知らせに学校に、香山先生に会いに行きたいから、ひとりで見に行くことにした。
風が強い。駅から大学まで、わたしと同じ受験生らしき人がゾロゾロ歩いている。親、友だち、誰かしらつきそいがいるのが大半だ。
正門前ではアパート、家電、プロバイダなど、ありとあらゆるチラシが配られている。
予備校のチラシはどういうことだろう? ああ、落ちた場合、ね。
急に結果を見るのが怖くなってきた。やっぱりお母さんと来れば良かった。
「……もしもし、この間卒業した、3年F組の菊池美紗と申します。香山先生はいらっしゃいますか?」
結果を確認し、香山先生に報告する。すぐに電話口に出てくれた。
「もしもし、菊池か! どうだった!?」
電話の向こうの声がなんだか懐かしい。卒業して何日も経ってないのに。
「おかげさまで受かりました」
3秒ほど間が空いた。
「…そうかそうか。良かった、良かったな。おめでとう」
「ありがとうございます。先生、学校行ってもいいですか?」
また少し間が空く。
「いいよ、おいで。祝杯あげよう、コーヒーで」
風が強い。早く、1秒でも早く、香山先生に会いたい。
「今日お時間ありますか? 先生に……、聞いてほしいことがあるんです」
「………。分かった。3時以降なら教員室にいるよ」
わたしが何を話すつもりか、先生は分かっているだろう。わたしは先生に自分の気持ちを隠していたつもりはないのだから。
久しぶりでもないけれど、すごくすごく遠い過去のような気がする高校での毎日。勉強して、部活やって、生徒会もあって、すべてが光輝いていた。それを見守ってくれてた香山先生。ただの先生じゃない。これからもずっと一緒にいたい人だ。
少し早く着いたので、社会科教員室に向かう前に、前期試験の勉強を手伝ってくれた英語と国語の先生にお礼を言いに行った。本当に感謝してて、何度でも「ありがとう」と言いたかったし実際言ったけど、やっぱり香山先生とは違う。
職員室を出て、社会科教員室のある特別棟へ向かう通路をゆっくり渡る。
風が強い。南風だ。
「あれ、菊池。もう来てたのか?」
香山先生に出くわした。大きな年表や資料を抱えている。風に吹かれて、先生の柔らかい髪が優しくなびいた。もっと緊張するかと思っていたけど、いつもと変わらない先生を見たら穏やかな気持ちになった。
「こんにちは。勉強見てくれた先生にあいさつしてきたんです」
「そうか。じゃあ俺からも改めて、合格おめでとう」
「ありがとうございます。先生の本読んで、勉強しようって思えたおかげです」
「どういたしまして。立ち話もなんだし、教員室行くか」
社会科教員室には他に1人先生がいた。ちょっと話しづらい。
先生はコーヒーを入れてくれ、「ドリップコーヒーさっき買ってきたんだ」と一言添えてわたしの前に置いた。豊満な香りだ。
「今日は温かいな。春一番だってさ。窓開けていい?」
「どうぞ。いただきます」
コーヒーの湯気が風に乗ってフワッと揺れた。生まれては空気に同化していく湯気を見ているとなんだか落ちつく。
「本当に良かったな。ご家族は? 連絡したんだろ?」
さすがのわたしだけど、結果を見て一番にお母さんに電話した。
「はい。今夜お寿司とってくれるんです」
「うれしいだろうな、ご家族も。ずっとお前はコツコツやってたもんな」
5限が終わるチャイムが鳴った。教員室にいた先生が「さてと」と立ち上がって出ていき、何人か先生が入れかわり立ちかわりして、6限のチャイムが鳴るとわたしと香山先生だけになった。
他の先生がいなくなり、先生は趣味の話をしだした。ずっと当たり障りのない会話をしてるのがもどかしかった。
「そうだ、菊池。実はあの本、もうすぐ完結させるんだよ」
先生の書いてるオリジナル小説「Tiny Little Soldiers ~T.L.S.~」のことだ。
「そうなんですか? またなんで?」
「完結っていうか、ひと区切りかな。主人公が『青年部隊』に入っちゃうから、新シリーズって感じで続き書くんだけどね」
「なんだ、良かった。終わったらさみしいですもん」
「俺さ、子どもは素直でかわいいなーって思ってたわけ。でも3年間お前たち担任して、中高生ぐらいの多感な時期も題材にしたくなってきたんだよね」
香山先生と言えば子どもを観察するのが趣味だったはず。どういう風の吹きまわしだろう。
「お前らぐらいもさ、なんだかんだみんないい子じゃん? いい子だよ、うん。ずっと見てきてしみじみ感じたよ。素直な心とか思いやりとか持ってるのに、真剣になるのが照れくさいとか、カッコ悪いとかあるじゃん? その辺書きたいんだよね」
「そうだったんですね」
「ある意味みんなのおかげだよ。菊池にしか言えないのが残念だけどね」
そう、香山先生がオリジナル小説書いてるというのはふたりだけの秘密なのだ。
温かい南風がほおをなでる。髪の間を吹き抜けるのもさわやかで心地いい。春という季節そのものが背中を押してくれるようだ。
2杯目のコーヒーを入れに立ち上がった先生の背中を追いかける。
「香山先生、話があるんです」
春の風が身体にまとわりつく。全神経を研ぎすまして、先生の反応を待った。
「………ダメ!」
振り返った先生は非常にいい笑顔をしていた。
「はい?」
「今は聞く気ない」
先生はマグカップを両手に持って、わたしを古ぼけたソファーへと促した。
「今お前の話を聞く気はないよ」
「……なんでですか…? わたしが何を言いたいのか知ってるんですよね?」
わたしは先生をにらみながらコーヒーにミルクと砂糖を入れた。気が動転していたので相当甘くなった。
「分かってるよ。だからこそ、今は聞かない」
「………」
意味が分からない。
「『意味が分からない』って顔に書いてあるな。当然か。……俺はさ、お前の成長を願ってるわけ」
「納得できません…」
「最後まで聞けって。高校生にとってさ、身近な『大人の男の人』って家族か先生しかいないんだよ。同年代より頼れる他人の男の人、それって先生以外あんまりいない。ここまで分かる?」
「分かりますけど、でも…」
涙が出そうになるけど、春一番に吹かれて乾いてしまう。
「だから、大学に入って半年ぐらいして、まだ俺に話したいことがあったらまたおいで」
「………」
意味が分からない。意味が分からない。笑ったらいいのか、泣いたらいいのか、どう反応していいのか分からない。
「大学にはいろんな人がいるよ。魅力的な男性も、ダメ男も、山ほど会うよ」
社会勉強してから出直してこいってことなのだろうか。でも、ひとつだけ引っかかる。
「あの、先生。ひとつだけいいですか?」
「何?」
「わたし何も言ってませんけど、何も言ってないのに変なんですけど」
「うん」
「わたし、フラれてないですよね」
コーヒーを飲む香山先生の動きが一瞬止まった。時が止まったかのように先生はわたしをジッと見つめ、しばらく経ったのちハデに笑いだした。
「ハハハハハ…、お前は頭いいっつーか、勘がいいっつーか、鋭いとこ気づくよな。フフ、ハハハ」
「大丈夫ですか、先生」
「俺はね、お前に願ってることがふたつある。ひとつはさっきも言ったけど成長を願ってる。もうひとつは半年ぐらい経ってお前に聞く気があれば聞かせたいけど、今は言えない。板挟みなわけ」
「知りませんよ」
「そりゃそうだ。俺の勝手なけじめだから。でもそれがなくてもね、お前を『高校』という狭い世界で限定させるのは真面目にもったいないんだよ。いろんな人に会って、話して、それでも俺が好きならまた来いよ」
「……まだ好きって言ってません…」
「ハハ、フライングしすぎたな」
分かんないな、男の人は。釈然としないことが多すぎる。男のプライドって面倒くさいし、だいたい香山先生は信じられないほど調子こいてる。でもどっちも本当なんだと感じた。
沈みゆく夕日を見ながらひとりで帰る。次ここに来るのはいつになるのかな。高校を卒業したように、「高校教師」としての「香山先生」への憧れから卒業し、ひとりの男性として「香山拓朗」を見られるようになるには、わたしは幼すぎるのだろう。今日わたしがおとなしく引き下がったのは、それが分かっているからだ。
半年後、香山先生に会いたいとわたしは思うだろうか。
南風は徐々に強さを増す。新しい季節が、またやってくる。
この⑦で第十話は終わりです。お読みいただきありがとうございました。




