⑤
丁寧にアイロンがけした制服に身を包む。スカートにしわが寄っていないか入念に確認する。髪を整えて、改めて鏡に映った自分の姿を見た。
「これを着るのは最後か……」
鏡に向かって独りごちる。今日は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。とてもいい天気だ。
3年間使い倒したカバンを持って1階へ降りる。
「おはよう」
「おはよう、美紗」
「美紗、卒業おめでとう」
お父さんとお母さんが温かい笑顔で迎えてくれた。お父さんはダークグレーのスーツにピンクのネクタイ、お母さんはペールブルーのセレモニースーツをまとっている。ふたりの装いも春らしい。
普段より少し豪華な朝ごはんを食べていると、お母さんが背後からセーラーの襟を直してくれた。急に今日という日を実感する。
「お母さんたちもあとで行くからね。気をつけて行ってらっしゃい」
軽く目を閉じて玄関のドアを開ける。風は冷たいけど、柔らかい春の日ざし。駅まで向かう自転車のペダルが軽く感じられる。
いつもの駅の、いつもの乗客。電車でもいつもと同じ場所に乗った。窓からの景色が飛ぶように過ぎていく。車掌さんの声が今日はよく聞こえる。
なんでもない一瞬一瞬が写真を撮ったように心に刻まれていく。
校門には「平成2×年度 卒業証書授与式」と大きく書かれた看板が立てかけてあった。書道部顧問の先生の字だ。横に3年生の学年主任の先生が立っていて、卒業生に「おめでとう、おめでとう」と声をかけていた。忙しいはずのこの日に時間を割いてくれているのだ。
卒業。
遠い先のことだと思っていた。
わたしたちは今日卒業する。
3年F組の教室へ向かう途中、クラスメイトの何人かに会った。みんな教室、廊下、いたるところで記念撮影をしている。わたしも何人かと撮った。
「おはよう!」
「おはよう、美紗」
「おはよう、卒業おめ!」
教室の後ろの黒板に在校生が書いてくれた壮大な黒板アートがあった。「ご卒業おめでとうございます!!」。その言葉が躍っている。
予鈴が鳴り、クラス委員長が飛び込んできた。
「香山来るよ、香山!」
「早ぇよ、どうする!?」
「全員ベランダに隠れようぜ!」
「しゃがめ、しゃがめ!」
クラス中大騒ぎして、香山先生をどう迎えてやろうか即決し、ベランダに殺到する。身体の大きな男子もいて収まりきらず、隣のクラスのベランダにも侵入した。
しばらくして教室から香山先生のはじける声が聞こえた。
「おはよう! みんな卒業…おめで……?」
わたしたちは笑いをかみ殺して、「笑うなよ」、「バレるって」、「誰だよ、オレのケツ触ったの」とボソボソ言っている。ふと、頭上の窓が閉まり始めた。閉め出される!?
「先生! 待った、待った!」
クラス委員長が立ち上がり、ベランダの窓を素早く開けた。香山先生はそこからベランダをのぞきこみ、ニンマリした。
「おはよう。みんな、俺に『卒業おめでとう』を言わせないつもりか?」
グダグダだ、これ。先生は委員長の頭を軽く小突いたけど、その表情はとても穏やかだ。優しい目の奥に様々な感情がひそんでいるように見える。喜びと、さみしさと、誇りと。
改めて全員が席に着き、先生は最後の出欠をとり始めた。珍しく髪をセットしていて、パリッとした礼服の袖から、真っ白いダブルカフスのシャツと控えめなカフスボタンがのぞいている。シルバーのネクタイにシンプルなタイピンもよく合っている。カッコイイ、率直にそう思った。
「では9時45分に廊下を出発するので、みんなトイレは先に行っておくように。冷えるかもしれないけど、カーディガンはダメだからな。男子は校章も忘れずに。じゃあ、40分まで待機で」
刻一刻と卒業式の開式が近づいている。みんなでおしゃべりしながら、時間の感覚がおかしくなりそうなのを感じていた。
「卒業生、入場!」
満場の拍手に迎えられて、卒業生273人(うち15人は入試等のため欠席)は体育館へ入場した。わたしたちは一様に左胸にコサージュをつけておごそかに進み、席に着いた。
「卒業証書授与」
A組から順番だ。担任の先生が全員の名前を読み上げ、代表して出席番号1番の人がステージに上がって証書を受け取る。
「以上、3年B組。男子29名、女子8名、合計37名、うち欠席1名。全員着席」
「続いて3年C組。会沢遥」
「はい」
会沢さんだ。9月以来、たまに見かけることはあったけれど、向こうは生徒会を避けているようだったし、ちゃんと話していない。「いじめ対策委員会」は葛目くんたちが形にしつつあって、文化祭後に1回、小松さんにアドバイスをもらって大がかりなアンケートを実施した。新年度には正式に発足するとのことだ。
「代表、会沢遥」
「はい」
しっかりした足取りで、会沢さんはステージへ上がった。卒業式に似つかわしくないけど、スカートが少し短くなって、髪は染めてはいないものの軽やかなボブショートになっていた。視線も上向きだ。
校長先生が証書を渡す際に小声で「おめでとう」と言い、それにハッキリと「ありがとうございます」と答えていた。
「続いて3年F組。井上壮吾」
「はい」
香山先生がわたしたち3年F組の生徒の名を呼び始めた。わたしは「キクチ」だから早い方で、出席番号は5。
「大野泰子」
「はい」
「菊池美紗」
「はい」
ここで先生に名前を呼ばれたら何かこみ上げてくるものがあるかと思っていたけど、そうでもなかった。淡々としているけど、胸にある確かな感慨深さ。
「小林健」
「はい」
「斎木菜摘」
「はい」
わたしたちは一人ひとり名前を呼ばれ、順番に立ち上がっていった。
「…以上、3年F組。男子17名、女子22名、合計39名、うち本日欠席が2名。……全員着席」
香山先生は「着席」と言う前に、わたしたち全員を見渡した。
校長先生の式辞、来賓の祝辞と、卒業式は粛々と進んでいく。特に校長先生の式辞は、論語を引用したアカデミックな内容だったけど、最後に「あの青い空のように」をアカペラで歌ってくれてジンときた。
「在校生代表送辞」
葛目くんも力強く、そして示唆に富んだメッセージをくれた。
「みなさん、史上最大のベストセラー書籍が何だかご存知でしょうか。そう、聖書ですね。旧約聖書『創世記』の冒頭で神様は世界を創られます。まず始めに神様は何を言われたか。『光あれ』です。神様は何よりも始めに光があるように世界を創られたのだと私は解釈しています。この先どんなにつらいことがあっても、世界から光が消えることはないのです」
葛目くん、普段こんなことを考えているんだ。大げさでハデ好きで破天荒な葛目くん。思想も宇宙級だった。
「みなさまのご活躍を祈念し、送辞とさせていただきます。平成2×年3月×日。在校生代表、葛目洋三」
大物になってね、葛目くん。あとでサインをもらっておこう。
「卒業生代表答辞。代表、高嶋優」
「はいっ!」
優は一歩一歩踏みしめてステージに上がっていく。葛目くんの高さに合っていたマイクをゆっくり自分で下げ、答辞の紙を開いた。
「答辞。柔らかな春の日ざしが梅の花を優しくほころばせる今日の良き日に、かくも盛大な式を挙行していただいたことに、心より感謝申し上げます」
シンプルな始まり。いや、優はいつもシンプルだった。
学校一小柄だけど鉄砲玉のようで、常に台風の目だった。生徒一人ひとりの気持ちを大切にすることと、パーッと楽しくやることを両立させる。そのビジョンは一貫していてブレなかった。安心してついていけた。
「私たちはここでの経験を生かし、より一層努力し、生涯かけてみなさまに、社会に、日本に、世界にご恩返しをすることをここに誓います。重ねて本日の盛会に感謝申し上げ、答辞といたします。平成2×年3月×日。卒業生代表、高嶋優」
優は本気で誓っているのだろう。優が生徒会長で、その書記をやらせてもらえて、心からうれしく思う。
卒業式のプログラムも残りわずかとなった。
「『仰げば尊し』斉唱。卒業生、在校生、起立」
吹奏楽部の伴奏で、1番は卒業生、2番は在校生、3番は生徒全員で歌う。
仰げば尊し 我が師の恩
教の庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月
今こそ 別れめ いざさらば
あっという間の3年間だった。香山先生だけでなく、飯野先生やたくさんの先生、優や早瀬くん、生徒会のみんな、菜摘たちクラスメイトの顔が、まぶたをよぎっていく。
互に睦し 日ごろの恩
別るる後にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば
2番に入って急に吹部の伴奏の音が小さくなったのに気づいた。耳に優しい音色がそっと届いてくる。馬上さんのソロだ。在校生が歌う2番は馬上さんのソロなんだ。あの楽器、なんていったっけ。そう、ユーフォニウムだ。
馬上さんがいたずらっぽくウインクして「この音を覚えてて」と言っていたのがよみがえる。万感の思いが柔らかい響きに乗って伝わってくる。こんなに美しい音がこの世にあるなんて。生まれて初めて音楽に感動して涙があふれた。
3番が始まる。でも涙でのどがつかえて声が出ない。
朝夕 馴れにし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる 間ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば
「以上をもちまして、平成2×年度卒業証書授与式を終了いたします。卒業生退場! みなさま、温かい拍手でお送りください」
吹奏楽部の演奏で退場、ゆずの「栄光の架橋」だ。ニクいとしか言いようがない。
A組から順に退場していく。F組の番になり香山先生がわたしたちのところに来て、手で「起立」と合図した。目を真っ赤にして、それでもキュッと口角を上げて精一杯笑顔を保っていた。わたしたちを先導して歩く先生の後ろ姿が輝いて見えた。




