①
「そこまで。筆記用具を置いてください」
数名の試験官が解答用紙を回収する。緊張の糸が切れたのか、すぐ後ろの人がくしゃみをした。
「以上をもちまして、全教科の試験を終了します。忘れ物のないよう気をつけてお帰りください」
外に出ると澄んだ青空がわたしを見下ろしている。一度振り返って、第一志望であるこの大学の校舎を改めて目に焼きつけた。
ようやく二次試験が終わったのだ。結果が出るまで後期の勉強を続けるけど、とりあえず一山越えた。自信はある。滑り止めの私大はひとつ受かっているので、肩の力を抜くことができた。
去年の夏に進路に迷った時、担任の香山先生からアドバイスを受けて、この大学を志望した。中国史を学びたいとは考えているけど、先生の専門のヨーロッパ史にも心が引かれるし、インドや中東の歴史も勉強したくなった。誰にも言ってないけど、留学もしてみたい。多様な分野を学べて、学生と教授の距離が近そうで、都会すぎず田舎すぎず、と絞っていった。ここを選んだことには満足している。
合格すれば必然的にひとり暮らしか、寮生活だ。
本当に気軽に香山先生に会うことはできなくなる。先生は手を伸ばせば届くところにいたけれど、それが当たり前だと思っていたけれど、あれもこれもあと数日なのだ。
翌日、いつもと同じように登校した。香山先生に昨日の入試の報告もする。
わたしは追い込みの時期も自学派で、センター試験終了後に自由登校となってからも学校で勉強していた。朝起きて、目覚まし代わりに電車に乗って、50分勉強して10分休んで、という規則正しい生活を続けるのがわたしには合っていたようだ。当たり前だけど授業時間中はとても静かで集中できるし、分からない問題があればすぐに先生に聞きに行ける。3年生を受けもっていた先生は自由登校期間は時間ができるらしく、香山先生含めて、快く勉強に付き合ってくれた。
予備校派が大多数だけど、学校の先生だってその教科の専門家なわけで、しかも無料で勉強を見てくれる。わたしのようなスタイルの子は何人かいて、励まし合えるのも大きなメリットだった。
「失礼しまーす」
何度となく訪ねた社会科教員室。この扉を開けるのはあと何回あるだろう。
香山先生は新聞を読みながらコーヒーをすすっていたけど、わたしの顔を見るとマグカップを持ったまま立ち上がった。
「おー、菊池! 昨日はお疲れさん! どうだった?」
「おかげさまで結構自信あります」
「そうかそうか、お前は大丈夫だろう。それで? 結果いつだっけ?」
新聞を無造作にたたんで、先生は自分の隣の席にわたしを座らせてくれた。
「7日です」
「まあみんなそうだけど、卒業式も気が気でないな」
卒業、か。本当に卒業するんだな。
自由登校中はアウェイな感じがするから、中学の時より卒業する実感がわいている。香山先生は「卒業かー、卒業かー」とくり返し、わたしから目をそらしてコーヒーを飲みほした。
「菊池はやり残しはないか?」
小首をかしげてわたしに問う。先生はわたしの気持ちを知ってるはずだ。それで「やり残しはないか?」だなんて、わざと言ってるようでならない。
「ありますよ、もちろん。まったく心残りない人なんかいませんって」
わたしはそうはぐらかした。
「そりゃそうだな」
ハハッと笑いながら先生は窓のそばに行き、カーテンを開けた。外は相変わらずの寒さだけど、陽の光は徐々に温かくなってきている。先生の姿が透けて見えなくなりそうなほどまぶしい。逆光に包まれてこちらを振り向いた先生は、なんとも複雑な、いっそ苦しそうな笑みを浮かべていた。
入試の前期日程は英・国と世界史を受けたけど後期は小論文だけだから、何本か書いて国語の先生に添削を依頼し、翌日指導を受けるスタイルで勉強を続ける。家では隅々まで新聞を読んだ。卒業式後も多分このスタイルを続けるけど、なんとなく登校しづらくなるし、国語の先生のところに通うのが主になるので、ますます香山先生のところには行きにくい。
放課後、さみしく思いながら廊下を歩いていると、誰かが「仰げば尊し」を楽器で演奏しているのが聞こえてきた。このとろけるような音色、聞き覚えがある。廊下に面したオープンスペースでその音の主を見つけた。
「馬上さん、久しぶり!」
「あー、美紗先輩だ! お久しぶりです」
生徒会会計の馬上さんだ。わたしたちが生徒会を引退してからのち、会長の葛目くん、副会長の黒岩くん、書記の野々村くん、そしてこの馬上さんにはほとんど会ってなかった。馬上さんは生徒会と吹奏楽部を両立してて、吹部は卒業式で校歌や「仰げば尊し」の伴奏をすることになっている。
「美紗先輩、明後日の卒業生を送る会は来れますか? 入試かぶってません?」
去年わたしたちが全力疾走した卒業生を送る会、今年は例によって葛目くんたちが開いてくれる。明後日は登校日で、卒業式の予行演習と送る会を一日でやるのだ。
「もちろん行くよ! 楽しみにしてる」
「先輩たち絶対泣きますから」
馬上さんはイタズラっぽくウインクした。
「ホント? 何もなくても泣きそうだけどね」
「覚悟しててくださいねー」
ニヤニヤしながら馬上さんは楽器の手入れをし始めた。油を差しているのだろうか。
「ねえ、『仰げば尊し』吹くんだね。スゴく優しい音。これなんて楽器?」
「ユーフォニウムです。珍しいでしょ?」
「んー、あんまり見ないけど、わたしこの音好きだな」
「でしょでしょ。先輩、この音よく覚えててくださいね」
この音? と不思議に思って馬上さんを見ると、これまたなんとも言えない笑顔を見せていた。先日の香山先生の笑顔とは違って、腹に一物ある感じだ。
「お楽しみです、美紗先輩!」




