③
どうか会いませんように。そう思っているときに限って出くわすものだ。
「おっはよー、ミサミサ!」
「菜摘、おはよう。今日寒いねー」
昇降口の手前で菜摘と一緒になり教室に向かう途中、曲がり角からちょうど香山先生が現れた。淡いイエローのシャツにモスグリーンのカーディガン。北風に負けない温かさと若々しさを感じさせる。
「おはよう、菊池、斎木。一緒だったのか?」
とても先生の顔を見ていられないけど、あいさつしないわけにはいかない。
「おはようございます」
「おはようございます、さっきそこで会ったんです」
「そうか。朝は冷えるようになってきたな。ふたりとも気をつけろよ」
「はーい」
自然にあいさつできていただろうか。「おはようございます」としか言ってないのに、自然もないもんだ。ダメだ、わたし。
「ミサミサ、元気なくない? 風邪?」
「ううん、全然全然。普通だよ」
知られちゃいけない。生徒が先生を……、好きに、なるなんて。
面と向かって話したりしたら絶対バレる。隠しておける自信は毛頭ない。でも相手は担任の先生で、避けるにも限度がある。どうしたらいいのか、まったくノー・アイディアだ。
「さて、今日はどこからだった? アジア=アフリカ会議か? じゃあ図説から見てくかな」
当たり前だけど世界史の授業は香山先生だ。朝夕のHRも香山先生。
教室では先生の話を聞いていればいいのだから、心置きなく先生を眺めていられる。
「この会議は史上初の有色人種のみの国際会議とされ、いわゆる『第三世界』の…」
黒板の上の方に書く前に香山先生はカーディガンの袖をまくった。去年の年末にコミケで先生に遭遇したあと、ふたりで満員のゆりかもめに乗って、はぐれないように肩を抱かれたことを急に思い出す。先生は中肉中背ながらも硬い腕で、重心がぶれず、安心して身体を預けていられた。
頻繁に先生と目が合う。ほとんどの生徒は教科書やプリントを見ているのだから、あまり先生を見ていると目立つのだ。目が合うのも当然だ。
目が合うたびに全身に電流が走る。
アツく、アマい。
中庭の大イチョウから葉が舞い落ち、周囲に黄金色のじゅうたんが広がっている。校内一ロマンチックな場所で、放課後は人通りが少なくなる。
物思いにふけりたい気分もあって、イチョウの周りをグルッと歩いていた。ふと、頭上から声がかかる。
「菊池、ちょうど良かった。頼まれてくれるか?」
2階の渡り廊下から香山先生がこちらを見下ろしている。
「ちょっと待ってろな、そっち行くから」
先生は姿を消し、1分もしないでわたしの目の前にやってきた。日が陰ってきたけど、まだ先生は袖をまくっている。
「これN大のさ、交換留学の資料。悪いけど斎木に渡しといてくれないか? 俺明日から出張なんだよ」
「はい」
「助かるよ」
ニコッと微笑む。あんまり自然に笑顔を見せてくれるから、涙が出そうになった。
「香山先生」
先生の背後から、女子生徒が声をかけた。3年生だ。バド部だった気がする。
「おぉ、森下、久しぶり。勉強は順調か?」
「先生、今、お時間いいですか?」
一瞬でピンときた。ほのかに頬が赤く染まり、今にも泣きそうな目をしている。
「いいよ、どうした?」
「ちょっと…」
その子はチラリとわたしを見た。
「先生、斎木さん多分帰ったんで、明日渡しますね」
「ああ、悪いな、菊池」
「さようなら」
「ん、気をつけてな」
校舎に入ったけど、あのふたりが脳裏から離れない。無意識に迂回して大イチョウの反対側に足が向かう。わたしの中で誰かが必死に叫んでいる。
いけないよ。どうするつもり? 盗み聞きするつもり?
でも別のわたしに操られるかのように勝手に歩を進めてしまう。
イチョウの反対側に貯水槽があり、いい具合に気配を消して潜んでいられる。本当にいい具合に、ふたりの会話が聞こえる。
「香山先生、あたし、先生のこと…」
ああ、やっぱり。
「先生のことが、……好きです」
やっぱり、そうだった。
胸がズキズキ痛む。
わたしの他に、先生をそういう風に見ている子がいたんだ。まあ、いる、だろうな。
「森下、ありがとう。でも、気持ちには応えられないよ」
「…先生、今彼女いるんですか?」
「いや、いないけど。森下にはな、幸せになってもらいたいって思うんだよ」
なんとなく先生の言いたいことが分かった。「幸せになってもらいたい」というのは第三者的だ。
「生徒のみんなには、残らず幸せになってもらいたい。でも『幸せになってもらいたい』ってのと、『この手で幸せにしたい』ってのは、だいぶ違うんだよな、これが」
「…はい」
「『幸せになってもらいたい』人が山ほどいるからこそ、俺自身が積極的に『幸せにしたい』と思える相手じゃないと、そういう付き合いはできないなって思うんだ。分かってくれるか?」
「はい、よく分かります……」
この子の声が震えている。わたしは唇をかんで耐えた。わたしもとてもよく分かったからだ。
香山先生はいつも優しく温かく見守ってくれてた。でもその言葉にはいつも、「お前自身が頑張るんだよ」というメッセージがこめられていた。わたしたちの成長を願っているのがひしひしと伝わってくる。当たり前だ。先生なんだから。
成長を願うというのは、自分の手元から力強く羽ばたくのを願うということで、巣立つのが前提だ。香山先生のその思いはよく分かっている。痛いくらいに。
ハラリ、と風に乗ってイチョウが輝きながら散った。春の風はまぶしく光り、秋の風はにぶく光る。
人の告白を盗み聞きした罪悪感と、圧倒的な絶望感を抱えて、教室に戻ってきた。今日はもう帰ろう。
「あれー、ミサミサ。まだ帰んないの?」
予備校派である菜摘が珍しく教室に残っている。もう帰ったと思っていた。
「ううん、もう帰る。……さっき香山先生からこれ預かったよ」
「あ、ありがと。へー、やっぱN大も留学制度あるんだなー」
目をキラキラさせながら資料をめくる菜摘を目の端に置いて、わたしは帰る支度を始めた。
「あたしも帰ろっかな。ミサミサ、一緒に帰ろ」
ひとりで帰りたい気分だけど、ひとりでいたくない気分でもある。わたしは予備校とか行ってないから放課後も教室に残って勉強することが多く、帰りが菜摘と一緒になるのは久しぶりだ。ボーッと帰るよりは、いいかな。
「…いいよ。ちょっと待ってて」
校門から駅前通りまでは民家と畑が多く、通りから駅まではケヤキ並木が続いている。ちょうど真っ盛りの紅葉が終わると、商店街がささやかなイルミネーションでケヤキを飾り、この通りも様変わりする。田舎くさいセンスのイルミネーションより、淡い黄色の葉で彩られる今のケヤキの方がわたしは好きだ。
「風冷たっ。ねえミサミサ、肉まん食べない?」
「いいね。ホント駅までコンビニないとか勘弁してほしいよね」
「あー、遠回りしていい? ファミマの肉まんのが好きなんだよね」
駅前にあるのはセブンだ。急ぐ用事もないし、賛成する。
「何これ、ガチャピンとムックだ! 1個ずつ食べようよ」
「もう菜摘、肉まんじゃないじゃん」
「アッハハッ」
ファミマは妙な中華まんをよく出す。ガチャピンまんの中身はチンジャオロースで、ムックまんはホイコーローだ。半分こして両方食べた。普通においしい。
菜摘は大事な宝物のようにガチャピンまんを手で包んでほおばり、時おり「アチッ」と顔をしかめる。表情豊かで見ていて飽きない。
「ミサミサ、おいしいね。元気出たー?」
「……待ってたの? わたしのこと、教室で」
「うん」
ヒマワリのような明るい笑顔だ。
駅前通りに戻る手前に小さな公園がある。小声で菜摘に、
「座って食べよっか」
と誘ってみると、菜摘はまた笑い、わたしに腕をからめてそちらへ歩を進めた。




