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山の呼ぶ声  作者:
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 ※ ※ ※


 夏穂は三階の廊下を歩いていた。

廊下には既に陽の光はなく、夕闇が漂っている。闇は濃く、懐中電灯がないと足下さえ覚束ない。一人で出歩くのは怖ろしく不安だったが、真吾は使い物にならないので諦めるしかなかった。

彼は図工室の床に座り込み、魂が抜けたように呆然としている。自分のしでかしたことに余程衝撃を受けたらしく、暫くは放っておくしかないと夏穂は判断した。

夏穂だって、自分のしでかしたことを深く後悔している。なぜ、あんなことを願ってしまったのだろう……。

それでも、夏穂はこんな場所で呆然としているのは嫌だった。

早く家に帰りたい。帰って、今日のことをすべて忘れてしまいたかった。こんなことになるならば、美佳の誘いになんて乗らなければよかった……。

このまま校舎から走り出て、まっすぐバス停に向かえばまだ間に合うはずだ。間に合わなくても、村にはまだ夏穂のことを知っている親せきが住んでいる。バスに乗り遅れたと言えば、泊めてくれるはずだ。

今すぐこの悪夢のような場所から逃げ出したい。美佳のことも、真吾のことも忘れて、夏穂は全部全部投げ出してしまいたかった。

一度逃避を考えてしまえば、そうせずにはいられない。廊下は真っ暗で、懐中電灯の光だけが夏穂の唯一の希望だ。後ろには何もないはずなのに、夏穂の脚は自然と駆け出す体勢になる――その時、

ひたっ、ひたっ、ひたっ……

夏穂のすぐ後ろ――斜め右の方向から、気色の悪い足音がした。

足が竦む。振り返ってしまいたい衝動をなんとか堪える。正体を確かめるのが怖い……得体の知れないものが後ろにいると思っただけで、身体中が怖気立つ。

姿を視界に収めてしまえば、夏穂はここから逃げられない気がした。振り返ってはいけない――自分にそう言い聞かせて、震える足を前に動かした。

「かほりん……かほりん、どうして逃げるの……」

 夏穂の身体が再び、硬直した。声が出ない。 後ろの正体が何か悟った瞬間、絶対に振り向きたくないと思った。

美佳が――消えたはずの美佳が後ろに立っている。

足音が、さっき聞こえたひたっ、ひたっ、ひたっ、という音から、ずるっ、ずるっ、ずるっ……と、引き摺るような音に変わっている。その音が、段々と夏穂に近づいている。ゆっくり前進してくる彼女は、本当に美佳なのか。

疑ってしまえば、沸々と恐怖がわいてくる。

振り返った先には、美佳に姿を似せただけの化け物が立っているのかも知れない。

夏穂の顔のすぐ近くで、大きな目玉をぎょろりと回して、じっとこちらを見ているのかも……

余りの悍ましさに、背筋が凍る。間近で聞こえる荒々しい息遣いに、身体が反射的に逃げようとする。

がくがくと上手く動いてくれない足腰を叱咤して、夏穂はやっと走り出した。

夏穂が走る度に、廊下が限界だと悲鳴を上げる。今にも踏み抜いてしまいそうになりながら、階段までなんとか辿り着いた。

そのまま、階段を勢いのまま駆け下る。足が縺れて落ちそうになる。踏み板がゆるくなっている場所が不気味に軋む。自分では速く走っているつもりなのに、実質そんなに距離は稼げていない。後ろから、ずるっ……ずるっ……ずるっ……と、足を引き摺りながら夏穂を追いかけてくる美佳らしき者の足音が、つかず離れず聞こえていた。

どうしたら――どうしたらいいのか。

振り返って姿を見てしまえば、怖くなくなるのだろうか。しかし、見てしまえば最後、後悔するほどの恐怖を味わいそうで……。

 振り返ることも、立ち止ることも出来ず、夏穂はひたすら廊下を走る。それでも足音は一定の間隔で追いかけてきて、一向に諦める気配がない。恐怖と焦りのせいで、夏穂の体力は早々になくなっている。走ったのは精々百メートルくらいだというのに、息が上がって胸が苦しい。

どこか――どこか隠れる場所が欲しい!

一階に駆け下りた所で、夏穂の視界左端にトイレが見えた。職員専用のトイレで、古ぼけた男女のマークがそれぞれ書かれている。

夏穂は一瞬、迷った。

この状況で、逃げる場所のないトイレなどに隠れても無意味ではないか。しかし、このままずっと追い駆けられては、夏穂の体力はいずれ尽きる。そうなれば、真正面から後ろのモノと対峙しなければならない……。

迷っていた時間は数秒だった。夏穂はぶつかるようにトイレのドアを開け、中に入った。左側には二つ洗面台が並び、右側には個室が四つ並んでいる。一番奥――手前から数えて四番目の個室に入った。鍵をかけ、じっと息を殺してトイレの入り口の気配を探る。物音はしない。深閑とした空間で、殺しても漏れてしまう夏穂の浅い息遣いだけが響いていた。

鼓動が耳の傍でずっと脈打っているような気がする。全身が心臓になってしまったかのように、どくどくと色々な場所から拍動が聞こえた。

じっとしていることが落ち着かない。すぐ後ろにいたはずの相手が、一向にドアを開ける気配がないのが恐ろしく、焦らされているような感覚にやきもきする。諦めたのだろうか? いや、あんなに執拗に追いかけてきたのに、呆気なく諦めて消えてしまうなんて有り得るのだろうか。それにしても、ドアが開く気配はまったくない……。

次第に夏穂の呼吸も落ち着き、鼓動も穏やかになっていく。便器の上に座り、深く深く息を吐いた。焦り、不安、恐怖も次第に沈静化していき、残ったのは泥のような疲労感だけだ。

早く帰りたい……ここで起こったことすべて、もうどうでもよくなっていた。

この状況の中でも、涙だけは枯れたように出なかった。でもここにきてやっと、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。色んな感情がごっちゃになって、一気に押し寄せてくる。

夏穂は涙が零れそうになるのを堪える為に、ぐっと喉を鳴らして、天井を仰いだ。目を見開いて、溢れそうになる涙を止めようとして――目の前に飛び込んできた光景に、凍りついた。

「なんで逃げるの?」

 夏穂が見上げた先――天井とドアの頭一つ分空いた隙間から、美佳らしき人物がこちらをじっと見ている。

茶色の髪は乱れ顔全体を覆って、一瞥しただけでは美佳なのかどうかも分からない。しかし、覗いた左耳のピアスは、確かに美佳がつけていたものだ。囁いた不気味な声も、よく考えれば美佳のものだとわかる。

髪の隙間からぎょろりと垣間見える美佳の眼球が、ひたすら夏穂を見詰めていた。

「あ、ああ……」

 逃げられない……八方塞がりだ。

唯一の出口である個室の扉を塞がれては、どこにも逃げることなど出来ない。

目の前の爬虫類のように感情の見えない瞳は、ただ無言で夏穂をじっと見下ろしている。

怖ろしくて目を逸らしたいのに、夏穂の視線は美佳のぎょろりと飛び出たような瞳から離れてくれない。目を逸らしたら最後、彼女が襲ってきそうな気がして……。

不自然に傾いだ顔が、ドアの縁を握る泥に塗れた指が、夏穂が視線を逸らすのを待っている――。

 手足が恐怖で冷え切って、感覚がない。唇も乾燥して、口の中もからからだった。もう何も考えられない。夏穂はひたすら、見上げた先の不気味な瞳を見詰めていた。

「かほりんはいいよね……頭いいし、性格もいいし……私なんかとは大違い」

 掠れた声が、唐突にそう言った。

美佳の声とは思えないほど、がらがらに枯れたそれは、涙に濡れて湿っぽい。

そして、見詰めていた美佳の姿が、忽然と夏穂の前から消える。

疑問に思う間も、美佳の言葉を反芻する間もなく、突然に霧のように消えてしまった。

硬直していた身体が、金縛りから解けたように自由に動く。さっきまで漂っていたゾッとする気配は微塵もなく、深閑とした空気が戻ってきた。

いますぐここから出て、逃げてしまおう。

躊躇していた気持ちが、一気に定まる。忌々しい出来事しか起こらない場所に、長居したくはなかった。

個室から出て、トイレの中に誰もいないことを確かめて安堵する。そのまま慌ててトイレから脱出し、廊下に出て息を吐いた。

真吾のことは、ひとまずここから出てから考えよう――夏穂がそう結論付けた瞬間、

「逃げないでよ、かほりん」

 耳元で、美佳が囁いた。

瞬間、背筋に這い寄る恐怖と嫌悪に夏穂は脱兎の如く走り出す。この廊下を突っ切れば、下駄箱の並ぶ正面玄関に辿りつく。そうすれば、あとは外の門を飛び越えてしまえば自由の身だ。

夏穂の目前に曲がり角が見える。あそこを曲がれば正面玄関だ――。

角を曲がり、夏穂はそのままの勢いで下駄箱にぶつかりながら、玄関の扉を押し開いた。冷たい空気が夏穂の頬を撫でる。埃っぽく湿った空気ばかり吸っていた肺が、喜んでいるように感じた。

扉からまろび出て、夏穂はすかさず扉を後ろ手で閉めた。そして振り返りもせず、門まで一目散に走って、普段の自分とはかけ離れた俊敏さで門を飛び越えた。

一度に色んな動作をしたせいで、呼吸が苦しい。

吐きそうなほど苦しい胸を持て余して、夏穂はやっと正面玄関を振り返った。

夏穂の表情が瞬時に凍りつく。

美佳が不気味に傾いだ体勢で、正面玄関の扉越しに夏穂を凝視している。両目をかっと見開いたまま、感情の消えた顔でじぃっと無言でこちらを見ていた。

その光景に違和感を感じる。どこかおかしい……。

それに気づいた瞬間、夏穂はもう後ろを振り返ろうとしなかった。

恐怖に支配された思考で、必死でバス停の道を辿る。この村から早く出てしまいたかった。安全だと思える場所へ逃げたくて、仕方がない。縺れる足を遮二無二前へ進めて、夏穂は脳裡に蘇る先刻の記憶を、頭を振ってどうにか忘れようとした。

硝子越しでもわかる、鮮明な美佳の姿――。

彼女の首にはどす黒い手形がついて……その痣からぽっきりと、首が折れていた……。

まるで、誰かに首を絞められて縊り殺されたような……。凄まじい力で首を折られたような……。

夏穂はそこからはただ無我夢中で、バス停を目指した。


 ※ ※ ※


天井にも、墨の染みがある……。

埃っぽい空気を気にせず寝転がったまま、真吾は空虚な表情を浮かべていた。

大分前に夏穂が出て行ったのを確認して、真吾はもう気力が尽きた心で、自分は彼女にさえ見捨てられたのだと悟った。

醜態を晒して、取り乱して、動こうともしなかった真吾を、夏穂は暫く待っていてくれたのに。自分はそれに応えられなかった。

無性にここから動きたくなかった。

家に帰っても煩い両親に大学受験のことを言われる。学校では友達と呼べる者はおらず、サッカー部もずっと補欠。雑用しかさせてもらえない日々に飽き飽きしていた。

日常から逃げ出したい、もう一度冬樹との楽しい日々を過ごせるなら――。

おまじないに頼った結果が、これだ。

真吾はまた過ちを犯したのだと気づいた。

冬樹と同じく、美佳を失った。好きではなかったけれど、それでも自分たちの所為で消えたのだと思うと、たまらなく辛かった。

夏穂だって同じ気持ちなのだと思っていたけれど、彼女は真吾と違ってとても強い人間だったらしい。取り乱した様子もなく、淡々と事実を受け入れていた。女性はこういう所が謎に満ちている。怖くはないのだろうか? 真吾は怖くて仕方がない。自分の願ったことが怖ろしくて、一生忘れられそうにない。

そう、夏穂だけでも助かればいい――。

自分はもう疲れた。ここで暫く、罪悪感に浸っていよう。

「真吾くん」

 目を閉じた真吾の耳に、優しい声が聞こえる。

聞き慣れた、ずっと忘れられない声。

驚きに真吾は勢いよく起き上がった。

声がした方を振り向く。見詰めた先は山側に位置する祠近くの窓で、その前に……真吾が求めてやまない人物が立っていた。

「冬樹ちゃん?」

 真吾の記憶に焼き付いた姿そのままで、冬樹が微笑んでいる。

夢の中にいるのだろうか? 自分の願いが、おまじないをしなくても叶ったのだろうか?

ふらふらと、無意識に真吾は立ち上がった。ズボンやシャツから、ぼろぼろ砂埃が零れて床に山を作る。

真吾の思考は、美佳が消えた瞬間から現実を拒否していたのかも知れない。

冬樹と同じ場所に行きたいと、ずっと思い続けていた。それが今、叶うかも知れない。

「冬樹ちゃん……俺もう疲れたよ」

 一緒に連れていってよ――。

微笑み続ける冬樹に、真吾は手を伸ばす。冬樹もそっと、手を伸ばしてきた。彼女の細く華奢な指先が、真吾の指先とそっと触れ合って――真吾の耳に、窓硝子の砕ける音が響いた。

真っ逆さまに落ちる感覚。ぐっと息が詰まり、ぐんぐん地面が近づいてくる。

真吾は自分に起こったことを把握することも出来ず、一瞬ののち、ぐしゃっと地面にぶつかった。落ちた実感も少なく、呆気なく真吾の意識は消失した。

「真吾くんが望むなら、連れてってあげる。ずっと、ずぅっと、友達だよ――」

 真吾が落下した窓から、冬樹がくすくすと笑っていた。その唇は三日月にぐぱっと裂け、怖ろしい形相をしている。滴るのは赤い雫で、まるでその様子は化け物だった。


「あと、ひとり……。山神様、願い叶えてくれるよね?」


 生きている者が誰もいなくなった校舎で、冬樹の甲高い哄笑だけが響き渡っていた。


  ※ ※ ※


 どうやって、夏穂は自分が家に帰りついたのか、覚えていなかった。

気が付いたら家の前で呆然と佇み、母親に見つけられるまでずっとそうやって立っていたらしい。

あの学校での出来事の記憶が遠く感じる。生々しい体験は未だに夏穂を苛むのに、思い出そうとするとどこか遠く、実際に体験したことなのかどうか不安になる。

真吾と美佳のことは、もう考えないようにしよう。

罪悪感と罪の意識から自分を守るように、夏穂は彼らのことを心の奥底に沈めた。

夏穂には何も出来ない。

今更戻った所で、どうせ助けることも出来ないのだ。美佳の首は確かに折れていた。あれは冬樹がやったに違いない。

真吾は自力で逃げただろう。か弱い自分が行ったとして、なんの助けになるだろうか?

人でなくなった冬樹や、その後ろで不気味に蠢く子どもの霊などに、敵うはずがないではないか。

夏穂は自分に、そう言い続けた。


「夏穂ちゃん、これってあの村の小学校じゃないの?」

 あの事件から一週間が過ぎたある日、母親が慌てた様子で、新聞のとある記事を夏穂の目の前に広げた。

記事には、あの忌々しい校舎の粗い写真と、先日取り壊しの際に発見された男女二人の死体のことを報じていた。

「嫌ねぇ……高校生らしいじゃない。トイレで女の子が首を折られた状態で発見されて、三階の図工室から男の子が転落してたって言うじゃない。夏穂、あの学校に行くとか言ってなかった?」

 夏穂のコップに紅茶を注ぎながら、おっとりとした口調で母親は言った。

しかし、母親の声は夏穂の耳には入ってこなかった。

『先日未明、××小学校の取り壊し作業に従事していた作業員が、男女二人の遺体を発見した。

 どちらも高校生で、女性の方は一階のトイレで首を折られた状態、男性の方は三階にある図工室から転落した状態で発見された。

当初は変質者による殺人と見られていたが、村人の証言によると怪しい人物などはまったく見なかったという。警察の最終結論として、二人は廃校になる寸前の母校に侵入し、ふざけている内に何かしらハプニングがあって死に至った事故死だとしている』

トイレで首が折れて事故死だなんて、不審すぎる。

不可思議すぎる不審死に、警察はさっさとこじつけで結論を出したらしい。

真吾が、三階から転落して死んだ……。

これは、事故なんかじゃないと夏穂は確信していた。絶対に、事故なんかじゃない。

みんな――夏穂以外みんな、冬樹が連れて行ってしまった。

『私ね、前の学校じゃ友達一人もできなくて……この学校でいっぱい友達作りたいんだ! だから、夏穂ちゃんも手伝ってね』

 友達が欲しいと、冬樹が何かにつけて言っていたのを思い出した。

もしかしたら、あのおまじないの時、冬樹はそれを願ったのだろうか。

しかしそれは叶わず、ずっと、彼女は一人学校で消えてしまい、寂しかったのだろうか。

冬樹に消えて欲しいと願ったのは、間違いなく美佳だろう。

美佳は誰にもバレていないと思っていたのだろうが、以前から美佳の冬樹に対する態度は冷たかったし、憎しみがあった。

そんな彼女さえ、連れて行ってしまった。冬樹は、これで幸せなのだろうか?

自分だけ生き残った夏穂は、これから一生罪悪感から逃れられない。

かつて友達だった二人を見捨てて、夏穂だけが生き残った。

その事実は変わらない。生きている内は、ずっと苦しみ続けるのだ……。

「夏穂ちゃん、学校に遅れるわよ」

 母親の声で、一気に我に返る。

胸がむかむかする。忘れていた記憶を一気に思い出して、夏穂の気持ちは泥のように重くなっていた。

忘れよう――。

あそこで起こったことすべて、再び心の奥底に仕舞って忘れてしまえばいい。

玄関から見上げた空は、薄暗く曇っていた。

まるで、夏穂の心のように。

「ごめんね……」

 口を突いて出た謝罪は、誰に向けたものなのか。

夏穂はゆっくり、通学路へと歩き出した。




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