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「もーかほりんおそーい。なにしてたの?」
暗い廊下の突き当たり、図工室の扉の前で、苛々と美佳が仁王立ちしている。
不気味に薄暗い廊下を小走りに駆け抜け、夏穂は「ごめんごめん」と両手を合わせた。
真吾は沈んだ表情で美佳の後ろに隠れるように立っている。また美佳になにか文句を言われたのだろうか? 久々に再会を果たした二人だったが、小学校・中学校の頃から関係は変わっていないらしかった。
三階の廊下は息が詰まるような空気が流れているような気がする。階段を一歩、また一歩と上る内にその感覚は増していき、上りきった所で美佳に声をかけられ、小走りに駆け抜けた時から更にずん、と重たくなった。
陰影が濃い床の影や、壁に貼られたままの色褪せたプリントとポスターを横目に、夏穂は足早に美佳の隣へと走り寄った。
さっき見た光景は二人に話すのはよそうと、夏穂は自分の中でそう決めていた。話した所で、美佳には幻覚を見たのだろうと鼻で笑われるのがおちだ。真吾にはきっと、苦笑されて恥ずかしい思いをする。あれは夏穂が恐怖ゆえに見た幻覚なのだ……そう、思い込むことにした。
図工室の扉には、懐かしい痕が残っている。
夏穂が躓いて転び零してしまった墨、美佳がお遊びで書いた油性ペンの落書き、真吾が彫刻刀で削ったへのへのもへじ、冬樹がぶちまけたペンキの残り――色は褪せているものの、昔と変わらないまま残っている。それ以外にも、時を経る毎に加えられた数々の落書き、墨、ペンキの痕が目に鮮やかだ。ここまでカラフルに汚れた扉は、この図工室以外にはないだろう。教師に叱られた記憶も一気に蘇ってきて、沈んでいた気持ちが少しだけましになった気がした。
「鍵はかかってないの?」
「かかってないみたい。……入るわよ?」
「うん……」
「おう……」
美佳の手が図工室の扉にかかり、するりと扉は簡単に開いた。軽い音を立てて横にスライドした扉の先には、夕焼けに照らされた暗い空っぽな空間があった。
煩雑に並んでいた版画や木材を切る機械などは撤去されていた。あるのは少しの机と椅子、廊下側の壁に据えられた棚、散らばった木片だけ。
入った瞬間、廊下よりも息苦しい感覚が夏穂を襲う。真吾も同じ感覚を味わっているようで、夏穂の隣で顔を歪めている。美佳だけが平気な様子で、「陰気な場所……」と小さく呟いていた。
「さっさとやって、帰ろ。早くしなきゃ、確かバスの最終ってもうすぐじゃない?」
「ああ。確か、七時五十分くらいだったはずだけど……」
「今何時? げっ、もう五時じゃん。早く早く! シンちゃん、取ってきてくれたんだよね?」
甲高い美佳の声に顔をしかめつつ、真吾はポケットから石ころと、そして少し萎れた葉っぱを取り出す。
「俺が今日学校創立記念日で良かったな。山に入るのめっちゃ苦労したぞ」
大袈裟に溜め息を吐いて、真吾は石ころと葉っぱを美佳に渡す。
嫌な記憶が、夏穂の脳裡に再び蘇る。石ころも葉っぱも、記憶の中のものと寸分違わない。本当に、これからあのおまじないをやるのだ――そう実感して、夏穂は身震いした。
不気味な笑い声が、耳元に去来する。
あの声がまた聞こえるかも知れないと思うと、冷や汗が止まらない。
美佳が図工室の奥の方へと向かう。倒れた机を起こして、その上へ石ころと葉っぱを置いた。夕焼け色の光に、美佳の横顔が照らされる。
鬼気迫る表情――美佳の顔がそう見えて、夏穂の咽喉が軽く鳴った。
「じゃあ、手順は覚えてるよね勿論。覚悟はいい?」
美佳が窓を背にして立つと、夏穂と真吾をぐるりと順に見た。
自分の顔は、傍から見てもわかるほど強張っているに違いない……。恐怖でがちがちになったまま、夏穂は美佳の右隣に移動した。
真吾も緊張した面持ちで、美佳の向かい側に立つ。
目を閉じるのが怖い。でも、開けたまま何かを見てしまうのも怖い……。
相反する感情の間で、渋々夏穂は目を閉じた。
視界にオレンジ色の点がちらつく。暫くしてちらつく光がおさまると、両目は完全に闇に閉ざされた。
美佳がごそごそ、動いている気配がする。真吾が咳をひとつ。窓の外を鳥がひと声鳴きながら通り過ぎた。やがて、しん――と静かな時が流れる。耳がきーん、と鳴った。
「始めるからー」
美佳の間延びした、普段と変わらない声が響く。
深閑と静まり返った図工室に、美佳の甲高い声が流れ出した。
「山神様、山神様――」
「いらしてください――」
「願いを叶えてください――」
「美佳、」
「夏穂、」
「真吾、」
「以上、三人が願い奉ります――」
「生贄をささげ、願います――」
「どうか、願いを叶えてください――……」
おまじないが終わった途端、閉じた視界の中で確かに何か――気配がぶわっと現れたのを感じた。
机が倒れるけたたましい音が響く。咄嗟に夏穂は耳を押さえようと両手を伸ばした。瞬間、耳元で昔聞いたあの笑い声が囁いた。
「かなえてあげる」
ゾッと、夏穂の背筋に怖気が走った。
声は背後から聞こえる。それもすぐ近く――耳元で囁かれた場所がぞわぞわする。悲鳴も出ないほどの恐怖で、心臓が押し潰されそうだった。今すぐ目を開けたい。逃げ出したい。この声は何なのか……冬樹の声なのかもわからない。ただ、無邪気な少女の声が、夏穂の耳元で不気味に嗤っている――。
美佳がまた昔の繰り返しのように悲鳴を上げた。机がもう一度ひっくり返る派手な音が響く。真吾の叫び声も聞こえて、夏穂はようやく目をゆっくりと開いた――。
暗い図工室の中は、まるで嵐が去ったあとのような惨憺たる有様だった。
石ころと葉っぱが乗った机は窓側に倒れて吹っ飛び、散らばっていた椅子も周囲に飛ばされて、夏穂の周りには何も無い状態だ。
真吾は腰を抜かして、夏穂の斜め右で座り込んでいる。
美佳は――夏穂はそこで初めて、美佳の姿がどこにも見えないことに気付いた。
「美佳?」
「お、俺……俺……」
真吾の様子がおかしい。身体がまるで[瘧/おこり]にかかったような震え方をして、両目を見開いたまま虚空をじっと見つめている。独り言のように「俺……俺……」と何度も呟き、夏穂の存在を完全に忘れているようだった。
夏穂が目を開けた瞬間、後ろの気配は跡形もなく消えていた。
振り返ってみても、殺風景な図工室の景色があるだけで、何かがいた気配は微塵もなかった。
あの気配は――冬樹だったのか。
それにしては、邪悪な気配だった。禍々しい、ヒトではない雰囲気を持って、夏穂の後ろに立っていたモノ……。
こつん、一歩踏み出した夏穂の爪先に、おまじないに使った石ころが当たる。見下ろすとそれは真っ二つに割れ、前回と同じように転がっていた。
「俺……まじないの最中に目を開けたんだ……それで、それで……美佳が、美佳が……」
「美佳が、どうしたの真吾くん!」
取り乱した様子で真吾が捲し立てる。ぎょろぎょろと瞳は不自然に泳ぎ、身体の震えは尚も大きくなる。余程怖ろしい光景を目にしたのか、歯の根が合っていなかった。
美佳の身に、一体なにがあったのか……。
どこに、行ってしまったのだろうか……。
「いっぱい、子どもがいたんだ……目を開けたら、美佳の周りに……俺の前にも、一人いた……夏穂ちゃんの後ろにも一人……」
夏穂の後ろに、子どもがいた……。
首筋に怖気が走る。やはり、あの気配は気のせいではなかったのだ。
「その子どもが、一斉に俺の方を向いたんだ……目の前のの子どもも、にぃっと……俺を見て、笑った……笑ったんだ……」
真吾の口端から、泡が飛ぶ。
彼の視線は尚も忙しなく泳いでいた。
正気を失っているような真吾の様子に、夏穂自身もおかしくなりそうだった。
「それで、言ったんだ……小さな声で、言ったんだ……〝かなえてあげる〟って……〝いけにえをもらっていく〟って……!」
「いけにえ……?」
いけにえは、あの石ころと葉っぱだと、冬樹は言っていたではないか。
妙見山の石ころと葉っぱを子どもたちの代わりに見立てて、おまじないをすると――。
それなのに、おまじない中に現れた子どもたちは、美佳を連れ去った……?
「そんな――」
それなら、美佳はもう帰ってこないのか?
冬樹のように、消えてしまったのか?
「お、おおおお俺が悪いんだ! 俺が、俺が美佳がいなくなればいいって……冬樹ちゃんに戻ってきて欲しいじゃなくて、アイツに消えて欲しいって願ったから……!」
真吾が絶叫した。
涙を流して、図工室の埃まみれの床に倒れ込んで、彼はわんわん泣いている。
真吾の言葉に、夏穂は絶句した。
確かに、石ころと葉っぱは真っ二つに割れている。生贄は確かに、差し出された。そして、二人の願いが叶えられた――。
最初は、冬樹が無事でいますようにと願うつもりだった。無事ならば、どうぞ返して下さいと。
それなのに、夏穂の脳裡を過ったのは別の願いで、一瞬で思考はその願いで埋め尽くされてしまった。払っても払っても、離れてくれないそれが、夏穂の願いとして聞き届けられてしまったのだ。
「私も……美佳が、いなくなればいいなって……そう、思っちゃったの」
泣き叫び、取り乱した真吾には届かないとわかりつつも、夏穂は呆然と呟いた。
美佳がいなくなれば、なんて考えたのは何故なんだろう。このおまじないが終わってしまえば、彼女とは二度と会わないかも知れないのに。地味で平凡で、田舎者丸出しな夏穂とは、美佳は付き合いたくもないという雰囲気だった。
それなのに、そう願ったのはどうしてか。
何度考えてもわからない。夏穂には願う理由がない――。
夏穂の意識を、誰かが乗っ取ったとしか、思えなかった。
「美佳……」
窓の外が、夕焼けのオレンジから、いつの間にか薄墨を流したような闇に変わっている。
夏穂はとっさに腕時計を見た。時刻は既に六時を少し過ぎていた。一時間近く、この図工室で過ごしたらしいが、まったく時間の経過を感じなった。足下が暗い。視界も狭く、世界が違って見える。ぐっと室内は不気味さを増して、今すぐ何か――得体の知れない何かが、影からにゅっと現れそうで……。
夏穂は嗚咽を漏らし、ただ泣きじゃくる真吾を見下ろして、打開策もなにもないまま、ひたすら呆然とするのみだった。




