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山の呼ぶ声  作者:
2/7


 ※ ※ ※


 ――ねぇ、山神様って知ってる?

そう話し始めたのは誰だったか――確か、冬樹だった気がする。

誰に聞いたのか、誰が言い出したのか、それは永遠に謎のままだ。

夏穂たちの通っている小学校には、随分昔から七不思議に止まらず、数々の怪談話が残っていた。

音楽室のピアノ、トイレの花子さん、体育館の幽霊、開かずの教室――全国の小学校で流行っているような有名なものから、地方独特な変わったものまで、実に様々だった。

小学校の裏に、かなり標高の高い山が聳え立っている。「[妙見山/みょうけんさん]」と呼ばれるその山は昔から色々いわくつきの場所で、子どもだけでの立ち入りは禁止、大人でさえ滅多に近づかないような魔境だった。

遥か昔から、妙見山には山神様が住み、麓の村に年に一度生贄を求めたという。

村人は大変その山神を畏れ、親を亡くした孤児や、口減らしに親や親せきから差し出された子どもなど、村に不必要だと判断された幼い命を生贄に惜しまなかった。

深夜、冷え込みの厳しい山の中に、人生で初めての――そして、最後の晩餐となる――ご馳走をたらふく与えられた子どもたちは、ぐっすり寝込んだ隙を見て連れ出される。寒さで目を覚まさないように蓑で丁寧に包まれて、辛い労働からも解放されて、短い幸せを子どもたちは味わうのだ。

その後、眠ったまま妙見山の深い深い谷底に大人たちによって置いていかれた子どもたちの末路は、悲惨で残酷なものだった。

まず、最初に歳の若い者から死んでいく。段々と屍が増え、飢えた子どもは死んだ子どもの肉を食らって、雨水を啜って生きながらえる。しかしいずれ、それでも食べるものはなくなる。泥水を啜り、生い茂る葉を食べ、徐々に死に近づいていく恐怖に、正気を失っていき、やがて成す術もなく、苦しんで死んでいく――。

恐怖、孤独、憎悪、苦痛。その中で死んだ子どもたちの無念は、如何ほどだったか。明治の半ばまで続いたこの悪習は、近代化が進む毎に村人の記憶から消えていった。

妙見山の麓には、犠牲になった子どもたちを祀り、その魂を慰める為の祠が建立されている。祠の存在を知る村人はごく僅かで、お参りをする者も絶えて久しい。忘れられ、慰める者も絶えた祠は、ただの風化した飾りと化していた。無念な子どもたちの魂は、賑やかな子どもの笑い声に引き寄せられ、いつしか小学校の「山神様」と呼ばれる七不思議に変化していった――。

 夏穂がこの話を聞いたのは、冬樹が消えて間もない頃だった。

本を読むことが好きな夏穂は、祖母からこの山神様の生贄の話を聞いてからというもの、

ホラーの類の作品は極力避けるようにしている。読めば冬樹のことを嫌でも思い出すだろうし、もしかしたら、本当に冬樹は山神様の犠牲になったのかも知れないと――馬鹿げているとは思うけれど、そう信じてしまいそうだった。


「図工室のね、奥の窓が一番山神様の祠に近いんだって。そこで全員で輪になって、中心に妙見山の石ころと、葉っぱを置くの。それで、呪文を唱える――」

 冬樹の声は楽しそうだった。朝一番で山の麓に取りに行って来たという石ころと葉っぱを、四人の中心に置く。黒々とした葉っぱは瑞々しく、石ころはどこか不気味な黒い苔がついている。

薄暗い放課後の図工室は、四人の息遣い以外聞こえない。ただでさえ、窓の外を山で遮られ、昼間でも暗い印象のある教室は日が陰って更に暗く澱んでいる。空気も埃っぽい。版画や絵の具のにおいが充満している。木くずの散らばった床には墨の染みが点々と、机の間を縫うように続いていた。

「これで、ほんとに願いがかなうの?」

 未だに半信半疑の様子で、美佳が冬樹を睨みつけている。最近の美佳は何かと冬樹を目の敵にして、当初の親しさは欠片もない。冬樹と仲のいい夏穂にも、どこか冷たい気がする。苛々と傍にある机を叩いて、爪の当たる音が小さく響く。

「やるだけやってみればいいじゃないか。冬ちゃんがやりたいって言うんだからさ」

 険悪な表情を崩さない美佳に向かって、唯一このグループの男子である真吾が声をかけた。

真吾は冬樹が絡むと他の男子との約束もキャンセルして、例えおままごとでも参加してくる。思えば、彼は冬樹が好きだったのだと、今ならわかる。夏穂と美佳など二の次で、ずっと冬樹にだけ話しかけるチャンスを窺っていた。

「叶うよ。絶対叶う! だって、このおまじないをやって、五年生の子がテストで百点取ったって言ってた!」

 冬樹が興奮した様子で断言した。

彼女の好奇心はとても強く、自分が知らないことがあるのが許せないらしい。このおまじないだって、渋る相手をようやく説き伏せて教えてもらったようで、今日絶対にやってみせると息巻いていた。

「ふ、冬樹ちゃん……やるんだったら、早くしないと先生来ちゃうよ?」

 夏穂は蚊の鳴くような声で囁く。先生に見つかり、叱られることがなにより怖かった。重ねて、このことが両親に伝わるかも知れないという不安も、夏穂を苛んでいた。

でも、夏穂も怪談や不思議な出来事にとても興味がある。見つかる前に、おまじないが本当なのか確かめたい気持ちもあった。

「みんな、早く輪になって! 私の言う呪文をあとから言ってね」

 冬樹が元気よく叫ぶ。

それを合図に、冬樹の右隣に夏穂、左隣に美佳、向かいに真吾が並んで立つ。祈るように全員掌を合わせて、目を閉じた。呼吸の音と、誰かが足踏みする度に床が軋む音が聞こえる。窓の外では、グラウンドで遊ぶ生徒の威勢のいい声が二階の図工室まで届く。

冬樹がゆっくり、厳かな雰囲気さえ感じる声で呪文を唱え始めた。

「山神様、山神様――」

「いらしてください――」

「願いを叶えてください――」

「冬樹、」

「夏穂、」

「美佳、」

「真吾、」

「以上、四人が願い奉ります――」

「生贄をささげ、願います――」

「どうか、願いを叶えてください――……」

 冬樹が唱える呪文を、三人は深く考えることもなく復唱していく。

最後の呪文を唱え終わった直後、夏穂は耳元で、くすくす……と楽しげに笑う子どもの声を聞いた。ゾッと、背筋に悪寒が走る。

恐怖は咽喉を圧迫して、悲鳴さえ上げられない。後ろになにがいるのか――振り返ることすら出来ずに、夏穂は合わせた両手を強く握りこんでひたすら体を震わせた。怖い。自分の吐く息の音が煩い。どくどくと、心臓が狂ったように速くなる。くすくす、くすくす、笑い声は未だに夏穂の耳元で小さく囁いている。どろっとした気配が、背中をそっと撫で上げているような……無数の小さな手が、夏穂の背中を這っているような……不気味な感覚に、夏穂の咽喉から引き攣った呼吸音が漏れた。

「きゃああああああ!」

 美佳の悲鳴と、複数の破裂音が辺りに響いたのは、ほぼ同時だった。

夏穂は美佳の悲鳴を聞いた瞬間、後ろにどっと尻もちをついた。痛みに呻きながら目を開ければ、美佳と真吾がお互い抱き合い、身を震わせているのが見えた。

輪の中心に置いてあった石ころと葉っぱが、まるで刃物で切断されたような鋭利さで真っ二つに割れていた。教室中に、子どもの笑い声が響いている。遠くなったり、近くなったり、どこからともなく聞こえる声は、無邪気なのにどこか不気味な雰囲気を持っている。夏穂は腰が抜けた体勢のまま、呆然とその不気味な声を聞いていた。感情が麻痺したように、身体も思考も動かない。

「ふ、冬樹ちゃん……冬樹ちゃん!」

 今まで悲鳴の一つも上げず、ただ黙って震えていた真吾が、悲痛な声で冬樹を呼んだ。

まさか――冬樹になにかあったのか?

その時になって初めて、夏穂は自分の隣にいたはずの冬樹の姿がどこにも見えないことに気付いた。夏穂は慌てて周囲を見回す。散乱した机と椅子、怯え震えて二人で寄り添う美佳と真吾……冬樹の姿は、図工室のどこにも見当たらなかった。

「冬樹ちゃん……」

 返答はない。倒れた机の後ろとか、版画を作る機械の隅とか、隠れられる場所ならいくらでもある。

しかし、夏穂が何度冬樹の名前を呼んでも、彼女は姿を現してはくれなかった。

「山神様」のおまじない……。

その短い間に、冬樹は夏穂たちの前から、永遠に姿を消してしまったのだった――。


 最寄のバス停から、夏穂たちの通った小学校は一キロほど距離がある。辛うじて舗装された道はアスファルトが老朽化して、がたがたで歩きづらい。田んぼと畑がパッチワークのように広がる長閑な景色を左右に眺めて、夏穂はここで過ごした記憶を次々と思い出していた。隣で美佳が「足が疲れた」、「自販機もないとか最悪ー」などと文句を言っているが、夏穂は電車とバスの中で散々聞かされた為、慣れっこになっている。美佳の文句に適当に相槌を打ちながら、三十分かけてようやく目的の場所に到着した。

 眼前に建つ校舎は、夏穂の記憶と余り変化がなかった。少し変わった所といえば、正面入り口の門が補強され、頑丈になっているくらいか。木造の校舎は今も健在で、よくこれまで安全性云々を指摘されなかったな、と心配になるほど、ぼろぼろの見た目だった。

門の前に、がっしりとした体つきの、精悍な面立ちの青年が立っている。夕暮れ時も間近の、村人も見かけない閑散とした小学校の前で、一人立つ人物など夏穂の知っている限り彼しかいない。

美佳がその人物に気付き、手を振る。

相手もこちらに気付いて、大きく左右に元気よく手を振り返した。

「あっ、おっせーぞ二人とも!」

「シンちゃん、やっほー!」

「お久しぶり、真吾くん」

「よう、美佳。相変わらず派手だなお前。そんで……うっそ、夏穂ちゃん? 随分見ない間に、綺麗になったなぁ」

 爽やかな笑顔が眩しい。気障な真吾の物言いに、夏穂の頬は無意識に朱に染まる。彼の余りの変わりように、夏穂は暫く言葉が出なかった。

真吾は眩しそうに目を眇めて、辺りを見渡す。

「で、金曜日の午後を狙って態々来たけどさ……昔より住んでる人少なくなってねぇ?」

 真吾の言葉に、夏穂は頷く。

夏穂の記憶しているこの村は、もっと活気があった気がする。あぜ道にはお年寄りが集まり、畑仕事の合間に談笑していたり、学校の周りでも、日が暮れるまで子どもが遊んでいたものだ。

「こんなど田舎に住みたい子どもなんていないわよ。幼稚園が三年前、中学校が一年前に閉鎖になってんだよ? 小学校も廃校になる前から、隣町の学校に子どもは通ってるらしいし」

 地面をつまらなさそうにブーツの爪先で蹴って、美佳は至極当然だというように言った。

幼稚園、中学校と先に閉鎖、廃校になり、一番生徒数の多かった小学校だけが辛うじて存続していた辺鄙な村。子どもよりも高齢者の多い村は、いつ廃村になってもおかしくない。荒れ果てた田んぼ、畑が目立つパッチワークは、村がいかに過疎化しているかを物語っていた。

「ほら、早く入ろうよ。日が暮れてからとか、私絶対入りたくないからね!」

 言うや否や、美佳は南京錠でしっかりと施錠された門を軽々と乗り越えた。ブーツの重い着地音が低く響く。乱れた髪を整えながら、美佳はもたつく夏穂と真吾をねめつける。

「小学校時代から変わってないわね。もたもたしてたら、置いてくからー」

 そう言い捨ててさっさと歩き出した美佳の後ろから、がしゃがしゃと音を立てて夏穂と真吾はようやく校内に侵入した。

真吾が美佳に気付かれないように嘆息する。

「あいつこそ、全然変わってねぇと思わないか? 高飛車で偉そうで……夏穂ちゃんとは大違いだな」

「私も、全然変わってないよ……」

「変わったよ。昔と今じゃ、全然違う……ほんとだったら、ここに冬樹ちゃんも、いたんだよな――」

 彼の言葉は空虚に聞こえた。空っぽで、ゾッとするほど感情が見えない。思わず夏穂は真吾の横顔をそっと窺った。彼の表情は普通で、言葉とは裏腹に穏やかな笑みを浮かべている。

ああ、真吾は変わったように見えたけれど、あれから時が止まったままなのだ。夏穂と、同じく……。唐突に、そう夏穂は気づいた。

真吾は冬樹が消えてから、まるで人が変わったように暗くなった。あんなに好きだったサッカーも休みがちになって、休み時間は必ず校庭に出て遊びまわっていたのに、教室で一人でいることが多くなった。中学校に入学してからもそんな状態で、真吾から夏穂に話しかけてくることは絶対になかった。

やっぱり、真吾は冬樹のことが本気で好きだったんだな――誰よりも落ち込み、彼女のことを案じている彼を見て、夏穂の胸は罪悪感に痛んだ。

真吾の声音には、確実に生々しい感傷の気配が残っている。未だに立ち直っていない。冬樹のことを忘れてはいない……。

高校生になり、美佳から電話が来るまでは、冬樹のことなど思い出しもしなかったことに、夏穂は愕然としていた。

冬樹が突然、校舎からも村からも消えてしまってから、三人はなんとも気まずい状況に置かれた。自然と疎遠になり、両親とともに都内に引っ越す時も、知らせることなく散り散りになった。辛うじて、中学校の時に流行ったプロフィールカードの交換で得ていた携帯番号とメールアドレスは、今回の件で初めて役に立った。

小さな村で神隠し――地方の新聞にも取り上げられたこの事件は、村人の間にも衝撃を与えた。まさか、こんな小さく辺鄙な土地で、子どもがいなくなるなんて……。

当然、夏穂たちが何か関与しているのではと疑われたが、精神的ダメージを負い、何も話すことも出来ずに茫然自失としている子どもたちに、何が出来るというのか。そういう結論に至った警察からは、最初の事情聴取以来、何も尋ねられることはなかった。

冬樹の両親とは、結局一度も会うことはなかった。

妙見山の山狩りまで行い、必死の捜索にも関わらず結局冬樹は見つからず、一週間で捜索は打ち切られた。その時期と同じくして、心労からか、冬樹を預かっていた祖父母両方が病に倒れ、都内の病院に入院したまま、亡くなるまで村に帰ることはなかった。

あんなに仲が良く、毎日のように遊んでいた友達でも、呆気なく絆は切れる。

冬樹が――三人の絆を保っていたのだと、彼女を失ってから初めて気づいた。

いつの間にか、冬樹を中心にして、三人の世界は回っていたのだと……。


小学校の校舎は三階建てで、一階は職員室や事務室、校長室、一年生の教室などがあり、二階は二年生から六年生の教室が割り当てられている。三階にすべての特別教室は集められており、一番奥の部屋――西の方向――が、件の図工室だった。

「うわっ、床腐ってる!」

 夏穂の後ろを歩いていた真吾が、踏むたびにぎしぎしと不安な音を立てる床に悪態を吐く。踏み抜きそうになる度、真吾は俊敏な動きで次の場所へと足を踏み出している。流石、スポーツ青年と言った所か。恐々と進む夏穂とは違って、彼の足取りは迷いがない。

「高校で、サッカーまた始めたんだ」

 入り口を施錠していた鎖と南京錠を器用に壊して、真吾は夏穂にだけそう言った。

中学の時の真吾とは違う明るい表情に、夏穂は少しだけ安堵する。大好きだったサッカーをまた始めたことによって、彼の心は少しだけでも、前向きになったらしい。

ここが取り壊され、廃校になるのは一週間後だと聞いた。

一か月前には生徒も教師も通わなくなったらしい校舎は、予想以上に劣化が激しい。使われなくなったあと誰からも省みられない校舎は管理もされず、風雨に晒されて脆くなっていた。この劣化は、最近のものではない。大分前からこの建物は限界だったのだと、床の腐り具合で容易に理解できた。

足下が覚束ない。不安定で脆くなった床は、いつ踏み抜いてしまうかわからない。夏穂は抜き足差し足で廊下を進む。先に行く美佳の後ろ姿を認めつつ、いつ醜態を晒してしまうか――夏穂はそればかり心配していた。

ずらりと並ぶ下駄箱を通り過ぎ、職員室、校長室、一年生の教室の前を通って、階段を上がる。薄暗い校舎の中は、まだ日は暮れていないのに懐中電灯がないと足下が見えにくい。掲示板に貼られてままのプリント、絵の類はそのまま、残されている。

開かれっぱなしの教室の扉から見える黒板は所々染みが浮かび、後ろには様々な言葉が書かれた習字が並べて貼ってあった。数は合わせて六枚――夏穂の時代はまだ一クラス二十人ほど生徒が居たのに。

二年、三年、四年、五年――次々と過ぎていく教室は、夏穂の時代となんら変化はない。使い古された机と椅子が整然と並び、湿った木の匂いがする室内は、長い年月を子どもとともに過ごしてきた。

そして、夏穂たちの記憶に生々しく残る、六年の教室――ここを過ぎれば、三階に続く階段が待っている……。

そう思うと、夏穂の足は竦んだ。

忌々しい記憶しかない、あの場所……冬樹の楽しげな笑顔が、あの時から変わらない幼気な笑顔が、脳裡に鮮明に蘇った。呆気なく消えてしまった彼女――どう考えたって生きている訳がないのに、何故か夏穂は、図工室に行くのが怖かった。

冬樹が、あの図工室で待っているような気がする。

美佳に言えば、なんて馬鹿馬鹿しい考えだと一蹴されるだろう。それなのに、夏穂はそう思えてならないのだ。

 夏穂の足が、六年生の教室の前で止まる。これ以上、先には行きたくない。後ろの真吾が怪訝そうに夏穂を呼ぶ。それにさえ反応できずに、夏穂は息苦しさに大きく息を吐いた。

「夏穂ちゃん? 大丈夫?」

「うん、大丈夫……ごめん、真吾くん。先に行ってくれる?」

 心配そうに夏穂の隣に並んで、そっと覗きこんできた真吾に対して、無理矢理微笑んで横に身を引く。

「本当に大丈夫? 顔色悪いけど」

「うん。ちょっと気分悪くなっただけだから……すぐに追いつくから、先に行ってて?」

「……わかった。早く追いついてくれよ。美佳と二人っきりなんて、長く耐えられそうにないからさ」

 冗談っぽく言って、真吾は夏穂の横を通りぬけて美佳の隣に並んで歩き出す。美佳の悪態が少し離れた場所に立つ夏穂にも聞こえてくる。「さっきから遅いよ、二人とも! ここで一泊するつもり?」「悪い悪い。夏穂ちゃん、すぐ追いつくってさ」「ほんと、かほりんもシンちゃんもマイペースすぎ!」

美佳のブーツの音と、真吾のスニーカーの音が段々遠ざかっていく。やがて二人が階段を上る音が聞こえてきた所で、夏穂はようやく顔を上げた。大きく深呼吸をひとつ。息苦しい感覚が徐々に引いていった。

忘れていた筈の思い出が、洪水のように押し寄せて、罪悪感とともに、夏穂をじわじわと苦しめる。

それに、彼――真吾の視線が、夏穂を言外に非難しているような気がしてならない。被害妄想だと言われればそれまでだが、合流してからずっと、彼の視線に違和感を感じてしまう。美佳と夏穂を見る目が、表面は穏やかなのに、どこか、冷え冷えとしているような……。

彼は、夏穂と美佳を憎んでいるのだろうか?

もしそうなら――夏穂の胸がずきんと痛んだ。

「……でも、気のせい、だよね?」

 強引に自分自身に納得させて、夏穂はやっと三階へと向かうべく一歩を踏み出した。

ぎしり、床が軋んだ音と同じくして、歩き出した夏穂の耳に微かな笑い声が聞こえた。途端、ゾッと背筋に怖気が走る。見たくないと思考は訴えるのに、ゆっくりと視線は笑い声のした方向――六年生の教室の中へと移動する。教壇側の、半分開いた扉の隙間から、室内が垣間見え――くすくす、くすくす、少女の高い笑い声が、また聞こえて――夏穂の瞳は、室内に佇む一人の少女を捉えていた。

声が、出てこない。あまりの恐怖に、自分の踏み出した足が立てる床の軋む音にさえ鳥肌が浮かび、心臓がひっくり返りそうになる。息さえ満足にできず、陸に揚がった魚のように口をぱくぱくと開閉した。

夏穂の視線の先には――当時の姿のままの冬樹が、にんまりと笑みを浮かべて立っていた。

白い無地のワンピース、漆黒の髪には白い牡丹の髪飾り、唇は紅をさしたように真っ赤で、肌は異様に青白い。いつも青白い肌をしていたけれど、更に青白く、死人のような肌色で……夏穂はそこまで思考が至って、益々怖ろしくなった。

消えた時と同じ服装で、冬樹は夏穂の前に立っている……。

「冬樹……ちゃん……」

 からからに渇いた咽喉から絞りだせたのは、彼女の名前だけだった。





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