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島谷夏穂の元に、高坂美佳から電話がかかってきたのは、もう夜中になろうという時刻だった。
『やっほー、かほりん。元気してる?』
「みっちゃん? 久しぶりだね」
『いつぶりだっけ? 中学以来?』
「うん、中学卒業以来」
携帯電話から聞こえてくる懐かしい声に、夏穂は自然と笑みを浮かべた。しかし、美佳が夏穂の携帯番号をまだ登録していたことに驚く。てっきり、彼女は夏穂のことなど忘れているのだと思っていた。
夏穂と美佳は、幼稚園からの幼馴染だった。
二人の生まれた故郷は、夏穂と美佳が今住んでいる場所とはかなり離れた場所にある辺鄙な田舎で、子どもも数えるほどしかいなかった。小学校にあがっても、同級生にさほど変化はなく、まるでクラスの全員が兄弟のように親しかった。
夏穂と美佳は家が隣同士で、家族ぐるみでの付き合いも多く、村の中でも一番の仲良しと有名な二人だった。遊ぶのも一緒、学校の登下校も一緒。
そんな二人の関係に影が差したのは、小学校六年生の、もう卒業も間近という三月の頃だった。
『かほりん、聞いてる?』
美佳の怪訝そうな声音が耳元で響いて、夏穂は漸く我に返る。慌てて「ごめんごめん、それで……なんだっけ?」と聞き返した。
『だからぁ、うちらの通ってた小学校、今度廃校になるらしくて。シンちゃんと一緒に、最後の探検しに行こうって話になってんの』
「え……真吾くんも?」
美佳の口から意外な人物の名前が出て、夏穂は困惑した。
『そうそう。シンちゃんとはさ、時々遊んだりすんの』
東堂真吾は、夏穂と美佳と一緒によく遊んでいた男の子で、高校のない故郷から、二人と同じように都内に引っ越して進学していた。
男の子と話すことが苦手だった夏穂は、天真爛漫で誰にも好かれていた真吾が少し苦手だった。いつも楽しそうに真吾と話す美佳を離れた場所から見守り、複雑な感情を抱いていた。それが美佳に対する嫉妬だということに高校生になってから気づいた時は、言い知れぬ羞恥を覚えた。
「そう、なんだ……」
あの頃の感情が、再び夏穂の中に去来する。幼い頃と変わらない、暗く目立たない自分の現状と、美佳のきらきらした声を比べて、気分が沈んだ。都内の高校に進学してから、美佳はかなり変わったのだろうか。
『でさ……かほりんは、冬ちゃんのこと……もちろん覚えてるよね?』
「……忘れるわけ、ないよ」
『だよね……』
美佳の声が、自然と沈んだものになる。
いつ、彼女の方から話題が出るのか――夏穂はそれを覚悟していた。
夏穂と美佳、そして真吾……三人のことを語る上で、もう一人、忘れられない人物がいる。三人の中でも特別だった存在、そして、互いの関係が破綻した原因となった彼女。
「冬樹ちゃんがいなくなって、もう六年になるんだね……」
夏穂の脳裡に、儚げに笑う少女の姿が鮮明に蘇った。
※ ※ ※
木吉冬樹は六年生の始めに夏穂たちのクラスに転校してきた。身体が弱く、喘息持ちだった彼女は半ば強引に両親から引き離されて、村の祖父母の家にやってきたらしい。急な田舎暮らしは、都会暮らしの長かった冬樹には辛かっただろう。最初はやや緊張した面持ちで、一人机で読書をしていることが多かった。
夏穂は読書好きだった冬樹と、一番仲が良かったと自覚している。いつも図書室に一緒に行っては、おすすめの本を二人で貪り読んだ。冬樹は夏穂と一緒でファンタジーが大好きで、図書室の本は殆どが二人のリクエストでファンタジー塗れだったのを覚えている。
冬樹は親しくなればとても明るく、活発で
、瞬く間にクラスでも人気者になった。色白の肌、黒髪は艶やかで、冬樹は田舎育ちの夏穂や美佳とは違った、垢ぬけた美しい少女だった。
「冬樹って名前、お母さんが男か女かわからなかったからって、どっちにでも取れる名前をつけたんだって。でも、どう考えても男の子の名前だよね?」
自分の名前が余り好きではないようで、冬樹は「冬ちゃん」と呼ばれるのが好きだった。
夏穂はでも、彼女の「冬樹」という名前を呼ぶのが好きで、なにかにつけて彼女の名前を呼んでいた気がする。
夏穂と親しくなったのがきっかけになり、冬樹は美佳と真吾とも当然親しくなる。遊ぶときはほとんどこの四人で集まり、冬樹も段々と田舎での暮らしに慣れていったらしい。最初は嫌がった川遊びも、森での虫取りも、六年生の最後の方では夏穂たちよりも得意なほどになっていた。
誰にでも好かれ、好奇心旺盛だった冬樹。夏穂はその明るく社交的な冬樹の性格が羨ましかった。美佳とはまた違う誰をも惹きつける光のような冬樹の魅力に、軽い嫉妬さえ覚えていたのではないか。
今になっては、その嫉妬の感情さえ後悔に変わるけれど……。
いつの間にか、四人の中心になっていた冬樹が、忽然とまるで神隠しにでも遭ったように行方不明になったのが、ちょうど卒業式間近――三月の寒い季節だった。
「でも、意外だったわー。まさかかほりんが一緒に来てくれるなんて思わなかったもん」
「そう? 私だって、気にならないわけじゃないし……」
辺鄙な田舎に通じる路線は、一日に五本しか電車が出ていない。電車を乗り継いで約二時間、その後バスに乗り換えて一時間。合わせて三時間ほどで夏穂たちの住んでいた村に到着する。
廃校間近の校舎に忍び込んで、あの時と同じ「おまじない」をやってみよう――。
そう提案したのは美佳だった。
夏穂はおまじないという単語を電話越しに聞いた瞬間、あの忌まわしい記憶がまざまざと蘇った。思わず二の腕に鳥肌が立つ。
暗い図工室の湿った木くず、絵の具のつんとするにおい、吸い込んだ空気が喉に絡む感触、寒くて肌が粟立つ感覚――。
四人を中心にして、真ん中に置かれた歪な石ころと葉っぱ――。
四人が無邪気に唱える、あの言葉――。
「でも……本当に大丈夫なのかな? あのおまじないのせいで、冬樹ちゃんは――」
「そんなの、わかんないじゃない。あれはただのおまじない。消えたのだって、私たちのせいじゃないんだし。それに、それを確かめる為にこうやって戻ってんじゃん」
路線バスは年季の入ったオンボロで、夏穂と美佳の体はボールのように跳ねる。
美佳は夏穂の不安など杞憂に終わるとでも言うように、しきりにバッグの中からチョコや飴を取り出しては、口に放り込んでいる。時折外を眺めては、夏穂に向かって田舎がいかに暮らし辛かったか文句ばかり漏らしていた。
美佳の髪は染め続けているのか、夏穂の真っ黒な髪とは違ってひどく茶色い。傷んでくりくりと四方八方に飛んでいる彼女の髪は、それでも地味な夏穂と違ってきちんと可愛らしく整えられていた。化粧も濃い。電車の中でもしきりに口紅を直したり、ファンデーションを塗りなおしたり、暫く見ない内に美佳はすっかり都会の女の子といった雰囲気になっていた。
小学校、中学校と、地味で目立たない少女だった夏穂とは、大違いだ。高校に進学した今でも、夏穂はその地味で目立たないというイメージから抜け出ることが出来ないでいる。
冬樹のような、美佳のような、可愛く華々しい雰囲気の女の子になりたい――。夏穂はずっと、そう思っていた。
「かほりんはさ、引っ越してから……どうだった?」
「え……」
「私はさ、田舎がどんなにつまんなくて、狭い世界だったか思い知ったわー」
美佳は流れていく景色に視線を向けたままだった。横顔はどこか遠くに思いを馳せているようで、彼女の言葉が空虚に響く。
美佳、夏穂、冬樹、真吾の四人で過ごしたあの六年生のひと時が、一番綺麗に輝いていたように思う。しかし、美佳の中ではあの頃の思い出は汚点でしかないのだろうか。
「私は、あんまり変わらないよ……」
中学校の頃から、色褪せた世界は変わらない。
冬樹が消えてから、夏穂の中では時間が止まってしまったかのように、何事も薄い膜を隔てた場所で起きているような感覚がして、現実味がなかった。冬樹がいれば、どんなに楽しかっただろう。彼女と過ごす中学校生活は、夏穂になにを与えてくれただろうか。そんなことを考えては、虚しくなる。
夏穂は美佳と同じように、窓の外に視線を移した。懐かしい光景が、段々と目の前に流れてくる。冬でもお構いなしに遊んだ村を通る大きな川、百段近くある階段を上った先にある神社、あぜ道の傍にあるお地蔵様。
そして――大きな姿を堂々と見せ始める、黒々とした山々に、夏穂の思考は嫌でも幼い頃へと戻っていった。




