その二
マユおばさんは、私の唯一この世界で信頼する生命体である。
幼き頃より、私はこの母と同じ顔を持つおばのことを、母以上に自分を理解してくれる存在と認識していた。初めて私がマユおばさんと会ったのは、三歳の時である。その時の記憶はあいまいだが、母親らしい自分に酔う母や、父とは違い、大人らしい大人であり、知性的でそれでいて優しげな雰囲気を持つ女性であったな、と思う。
母や父が大人になりきれない大人であったのに対し、彼女は違った。大学を出て、しっかりとした職に就いていた。今でも女性の社会進出の遅れている、と言われている日本で彼女は責任ある仕事を任されていた。
とはいえ、私とマユおばさんのつながりなど、当初はその程度であった。
私が本格的に彼女と話すようになったのは、小学校に上がってから。
給食費の支払い、という時期に、父はめったに家に帰らず、母も私の話を聞こうとしなかった。困ったことに、その時は祖母も用事で数日家を空けていた。
困った私は、電話帳にあったマユおばさんの番号にかけた。なぜ、彼女に頼ったのかは、自分でもわからない。
不安の中、電話をかけた私は、数秒のコールの後、マユおばさんの声を聴いた。
嬉しくて、涙が出た。
母と同じ声で、私を気遣うその声に、私は暖かさを感じた。
事情を説明すると、おばさんは仕方ないな、と言い、母にガツンと言うと言い、それでもだめなら私が払ってあげる、と優しく言った。
仕事の都合上、遠く離れていてめったに会うこともなかったが、それ以降電話で時たま連絡を取るようになった。父と母の不仲が進む中、私にとって彼女との会話が唯一の救いであった。
仕事もできて、美人なのに(母とは違い、双子なのにその美しさは段違いであった)どうして結婚しないのか、と無神経にも聞いたことがある。すると、彼女は一人で生きていけるから、と言った。
ふぅん、とその頃はその程度にしか思わなかった。
けれど、母に捨てられて私は気づいた。
ああ、一人でいる、ということは傷つかないためなのだ、と。
おばは決して強い人間ではない。弱いから、弱い自分を守るために殻を作っているのだ、と。
けれど、その生き方を私は憧れた。
愛なんて、いらない。
家族なんていらない。私には、マユおばさんがいれば、それでいい、と。
焼け落ちた家を前に、私はそう思ったのだ。
涙は枯れ果てていた。流す涙は、もうなかった。
「マナカ」
私は名前を呼ばれるのが嫌いだ。マナカ。愛華。愛される華。そんな名前のくせに、実際は実の親からも愛されたことはない。
それでも、いやな顔をするわけにもいかない。名前を変えるにしても、まだ未成年。世間一般で言う「大人」になるまでは待とう。
「おばさん」
私は顔を上げておばさんをみる。
治世的なインテリ風の眼鏡をかけ、大人の女性といった風貌のおばさんは、まだまだ十分に若い。それでも、彼女が男性と付き合いをすることはない。
母と父の死。それは私だけでなく、彼女の生き方も永遠に変えてしまったのだと、私は最近になって分かったのだ。
私の方に歩み寄ってくると、おばさんはわしゃわしゃと私の頭を撫でる。
「また暗い顔しているよ、大丈夫かい?」
「・・・・・・・・・・・うん」
私が頷くと、そっか、と彼女は笑う。
きっと、私とおばさんは、似た者同士だ。傷をなめ合い、過去に生きている。けれど、それでいいんだ。
恋愛なんて、大っ嫌いだ。
朝。学校に登校する私は、多くの生徒にとってただの風景でしかない。日常の中の風景。そう、所詮、私と言う人間の意味など、他人から見ればその程度。いずれ忘れられ、思い出されない存在になる。
けれど、それを私はどうでもいい、と思っている。
そう、思うようにしている。
誰とも話さない、触れ合わない。そうすれば、恋愛もしない、無駄な痛みを味わうこともない。
傷つくとわかって、なぜ触れうのか。
どうせ他人は他人なのに、なぜ理解しようとするのか。
私は理解したくない。認めたくはない。
教室に入った私は、誰とも話さずに席に着いた。そして、周囲の雑音を閉じるように、本を取り出し、それを広げた。私に近寄るな、世界に入ってくるな。無言の防壁を築き上げ、私は私を守る。
この世界のすべては敵。極端な話、私はそう思っているのだ。
「・・・・・・・・・・でね」
「あはっ」
けたたましい声、馬鹿騒ぎの声。盛りのついた猿どものように、彼らは朝っぱらから騒いでいる。人間も所詮は動物。感情なんて余計なものがある分、余計たちが悪い。
私は感情、というものは不要だと常々思う。進化、というよりも退化ではないか、とさえ思うのだ。
だが、そんな私の考えはどうでもいい。
私は外界をシャットダウンして、思考の海に飛び込んだ。穏やかな波の音を聞きながら、私は一人、その海の中に浮かんでいる。心地よい感触。ここでは、私に触れるものはない。ただただ、無が広がっている。
雑念もなく、落ち着ける世界。そんな世界でずっと一人でいたい。ここでならば、傷つくことはない、痛みを知ることも、何も考えることも放棄して、ずっと・・・・・・・・・・・・。
けれども、私の意識は現実に引き戻される。
この肉体と言う制約からの解放、魂の自由。それを望むのは、あまりにも生意気であろうか。
現実世界は、優しくはない。
チャイムとともにやってきた担任により、ホームルームが始まる。それを胡乱な目で見て、私は静かに本を閉じた。
ああ、憂鬱だ。
高校の授業など、たいてい教科書をなぞるだけであり、教師の説明なしでもわかるようなものだと思うのは、私が単に容量がいいだけだろうか。
まあ、他人と馬鹿騒ぎすることがないのだから、それくらいできなければ何のために生きているのかわからない。
「大場、この問題答えろ」
数学の授業で指名されて、私は億劫だが立ち上がり、黒板まで向かう。途中式とか書くのは面倒だが、まあ仕方ない。私はすらすらと黒板に書くと、周囲の生徒の顔も見ずに自分の席に戻り、座った。
ああ、答えがある、というのはいいことだ。
世の中の大抵のことに、正しい答えなんてないのだから。そう言う意味では、高校などの学校の場、というものも捨てたものではないのかもしれない。でも、どうせいつかは私も答えのない世界に行かなければならない。
答え、なんてわからない。私たちは何時だって間違い続けるのだから。
昼休みになれば、私は一人教室を後にする。
教室を出てどこに行くか、と言うと屋上である。
屋上は鍵がしてあるのだが、縁あって私は屋上の鉤を持っている。それで私は屋上に来ることができる。
どうせ教室にいたところで一人であるし、周囲に気を使われるのもごめんだ。だから、私は一人ここで昼を過ごす。
購買で買ってきたパンを食べ、フェンス越しに街を見下ろした。
風は生ぬるく、ついこの間までの肌寒さは昔のことのように思えてくる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
時間の過ぎるのを早く感じる。大人になるにつれて、退官する時間は短くなる、という。今でさえ、あっという間、と言う陳腐な表現ではあるが、時の過ぎるのが早いというのに、これ以上速くなる、というのもどうなのだろうか。
いや、どちらにせよ関係ない。私の生き方にはかかわりのない些事である。
紙パックの野菜ジュースを飲み干すと、私はゴミを袋に入れると、少しの間眠りについた。