第六話:科学者と相棒の圧倒的戦闘能力
昌憲を背に乗せた黒狼ハティが、東の地平線から顔を出したばかりの朝陽を背に受けて草原を西へと走っている。
その速度は時速八十キロメートルほどであるが、黒狼にとっては人で言えばジョギングと変わらない程度の軽く走る感覚であった。
水平に西へと続いていた森の境界が草原に食い込むように北へ五キロほど張り出したその向こう辺りからが、今は静止軌道上に浮かんでいる探査装置で調査した黒竜の生息地だ。
ハティの背に騎乗し、西へと黒竜を求めて走りはじめてから二時間弱。
張り出した森を迂回するように一旦北へと進路をとった昌憲は、その頂点を過ぎたあたりで森の境界に沿うように再び西へと進路を向けた。
前方には森から流れ出る大河が見えはじめている。
黒竜の生息域へと入ったと確信した昌憲はハティを止めると、背に乗ったまま魔力レーダーを発動する。
その目的は黒竜を探し出すことであるが、夜行性である黒竜は、まだ昼にもなっていないこの時間は森の中や岩陰などに隠れて睡眠中のはずであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「――痛ッ! 俺もとうとう焼きが回ったか、今回はツキが無かった。今思えばサッハディーリッツェは幸運だったのかもしれない」
森と草原の境界から少し離れたところに、高さ四メートルほどの大岩が地面から突き出している。
その大岩に背を預け、不自然な方向に曲がった足を投げ出し、仲間たち三人と漆黒の巨竜の戦いを忌々しさと絶望が入り混じる表情で、激痛に耐えながらエーリッツェは眺めていた。
その周囲には、ついさっきまで行動を共にしてきた仲間の無残な死体が転がっている。
大陸の南方に覇を唱える大国、アルガスト王国。
その南端に設けられた長大な石壁から広がる緑豊かなカシール大平原。
そこはハンターたちの聖地であった。
ハンターギルド最大支部を有するアルガスト王国で、ハンターとして名を上げたエーリッツェは、もうすぐ訪れるであろう自らの死を、折れた左足の痛みに耐えながらも既に受け入れていた。
大陸の南、カシール大平原のさらに南方には最果ての森と呼ばれる広大な大森林が広がり、その森が尽きる向こうには一万メートル級の山脈がそびえ、最果ての森からは大河ターリア川が流れ出ている。
エーリッツェは仲間のハンターたち九名を率いて総勢十名で遠征隊を組み、このターリア川をボートで遡上して最果ての森に遠征してきた。
森が始まる手前で日の出と共に船を下り、森に分け入った。
そして二時間弱で目的のもの、貴重な薬草やキノコ、それに果実などを十分な量手に入れ、一刻も早く森を出て船へと戻ろうとしたそのとき。
絶対に出会ってはならない魔獣、黒竜に出会てしまった。
もう日の出から二時間は経つと言うのに、よりにもよって夜行性であるはずの黒竜が未だに歩いていたことが運の尽きだった。
最果ての森は高級食材や貴重な薬草の宝庫だ。
この森で手に入れた食材や薬草を売れば大金が転がり込んでくる。
さらに、最果ての森で採れる薬草は幼子の死亡率を下げる非常に重要な資源であり、危険を犯してでも是非とも手に入れたいものであった。
確かに、最果ての森で手に入れることができる食材や薬草は希少で貴重なものばかりだ。
しかしそれには理由があった。
それは、最果ての森へと辿り着くこと自体が困難である事。
陸路では足の速い魔獣に襲われる可能性が高いし、水路では流れの速い川を手漕ぎで遡上する必要がある。
そして、仮に辿り着けたとしても、森の中やその周辺に生息する魔獣があまりにも危険すぎて、それらに出逢えば逃げることしか選択肢が存在しないことである。
エーリッツェ率いる遠征隊は、屈強なハンターの腕力でターリア川を遡上し、なんとか最果ての森にたどり着いて、目的の食材や薬草を入手したまでは良かったが、長居は無用と急いで森を出ようとしたところで、運悪く黒竜のねぐらに入り込んでしまったのだ。
ねぐらに戻ってきた黒竜に出くわして咄嗟に逃げようとしたが、ものの一撃で六名もの仲間が殺られている。
エーリッツェもその時に足を折られた。
残る三名が目くらましの魔法を交互に使って黒竜の注意を分散させ、何とか足止めしているが、もう魔力が底を尽きかけているのは明白であった。
逃げ出すことができるならとうに逃げ出しているが、怪我人を抱えて黒竜から逃げ切るのは不可能だ。
相手が悪すぎる。
エーリッツェは覚悟を決めて叫ぶ。
「エリーネ!! もう俺はダメだ。足止めをするから逃げろッ!」
「嫌っ! そんなこと出来ない……」
遠征隊のリーダーであるエーリッツェに思いを寄せているエリーネは、今のうちに逃げろという叫びに素直に従うことができなかった。
「聞いてくれ! 俺はもう動けない。足をやられた。今からありったけの魔力を込めて魔法を放つ。その隙に逃げるんだ。ヒュッツェ、リーガハル、詠唱の時間だけ稼いでくれ。それから、エリーネを頼む」
ヒュッツェとリーガハルは横目でチラリとエーリッツェに視線を送ると、了解の意を示すように小さく頷いた。
それを確認したエーリッツェが詠唱を始める。
それは、彼が行使できる最も派手で、最も威力がある魔法であった。
「果てしなく遠い天空の勇。燃え盛る悠久の炎。昇り、落ち、繰り返す生と死の象徴。その栄華を我に与えよ。捧げるは全て。顕現せよ神聖なる劫火」
詠唱を終えたエーリッツェは、折れた足を投げ出して岩にもたれかかりながらも右の手の平を天に突き出した。
すると、その頭上十メートルほどのところに、直径一メートルほどの強烈に眩い赤白く輝く光球が出現する。
それは太陽の一部、五千度を超える圧縮された水素の塊であった。
「今だ!」
エーリッツェのその声を合図に、身長二メートルは有ろうかという大男リーガハルが、小さな水球を放ち続けている小柄なエリーネのもとへと駆け寄り、強引に肩に担ぎ上げて走り出す。
「嫌っ! 嫌っ! リーガハル放してっ!」
ヒュッツェはエーリッツェの魔法が黒竜に届くまでの時間稼ぎのために、風の爆発魔法を黒竜の頭部に放ってその場を離脱した。
「すまん」
三人が黒竜から離れ、火の魔法の影響下から脱出したそのタイミングで、エーリッツェは頭上の火の玉を黒竜へと向けて放ったのだった。
普通の獣や魔獣ならば五千度の炎に包まれれば、跡形もなく消滅するのみなのであるが、黒竜は魔獣の中でも強力な耐魔法シールドを常時その身に展開している。
いくら五千度の炎であろうと、シールドがあるおかげで『少し熱い』程度にしか感じないのであった。
もてる魔力のほとんどを火球に込めたエーリッツェは最後のあがきを行う。
仲間が安全圏に逃げ切るまで。
火球を何としても黒竜の眼前に保持する必要があるのだ。
火球の本体は超高温の、しかも圧縮された水素であるため、コントロールを誤り膨張させてしまえば即座に周囲の酸素と反応して大爆発を引き起こす。
エーリッツェが放った魔法は、通常は五千度の高温とその爆発力を利用して攻撃するものなのであるが、今は時間稼ぎのために爆発させずに目くらましとして使っている。
だから、エーリッツェは三人が逃走する時間を稼ぐためにも、気力を振り絞って残った僅かな魔力を消費し、火球をコントロールしていた。
懸命に火球をコントロールしているエーリッツェを巨岩の向こうに残して、黒竜から見えないように離れた三人は、その直後に信じられない光景を目撃することになる。
黒竜から離れ、エリーネを担ぎ上げて川に泊めてあるボートへと急ぐ二人の前方から、見たこともないほどに巨大な黒狼が接近してきたのだ。
突如として現れた新たなる脅威に、リーガハルとその後を追っていたヒュッツェが力なく足を止めた。
担ぎ上げられながらもその背中をたたいて泣き叫んでいたエリーネが、急に立ち止まったリーガハルの脇越しに力なく視線を向ける。
「ハハハ…… 黒竜の次は黒狼か」
力なく笑うリーガハル。
ヒュッツェは足を止めて呆然自失だ。
そして、黒狼を視認したエリーネは悲痛な叫びをあげた。
「嫌ーーーーっ!」
迫り来る黒狼を前になすすべなく動きが取れない三人を、あざ笑うかのごとく無慈悲にも近づいてきた黒狼が三人の前で停止する。
そして、その黒狼の背中から顔をのぞかせた存在に、三人はただ唖然とするしかなかった。
信じられないことに、黒狼の背に人が乗っているのだ。
それも、見たことが無いほどに巨大な黒狼にである。
リーガハルはそう思いながらも、エリーネを肩から下ろした。
「こんな所で人に出くわすとは驚いたな。見たところハンターのようだがあの岩の向こうにチラチラ見える黒竜はあんたたちの獲物か?」
有りえない状況で、有りえない場所から、有りえないことを言ってくる男。
リーガハルは、男の問いにただただ首を横に振ることしか出来ない。
巨大な黒狼の背に乗った黒尽くめの男は「そうか」とだけ言うと、ニヤリと喜色を浮かべてエーリッツェが足止めしている黒竜へと向かって行ってしまった。
懸命に火球を操り黒竜を足止めしているエーリッツェは、最後の時が近づいていることを感じ取っていた。
火球の操作ももう限界に近い。
「エリーネたちは無事に逃げ切っただろうか」
その言葉を最後に黒竜の行く手を阻んでいた火球が爆発を起こす。
しかし、黒竜にとってはそれも少し熱いそよ風のようなものであった。
忌々しい火球が消滅したことで視界が戻った黒竜は、ねぐらに侵入した不届き者を始末するために牙をむいて動き出す。
しかし、その牙が気力と魔力を使い果たして動くことが出来ないエーリッツェに、届くことは無かった。
咆哮を上げ、今にもエーリッツェに向かって動き出そうとした黒竜の喉元に、巨大な黒狼が喰らいついたのだ。
しかも、その黒狼は黒竜と大差ない巨大さだった。
エーリッツェはこれ程に見事で大きい黒狼を見たのは初めてだった。
あろう事か、その黒狼は美しいとさえ思えた。
それはエーリッツェが既に死を覚悟していたからこそだったのだろう。
しかし、エーリッツェのその覚悟はいい意味で裏切られることになった。
喉元に喰らいついた黒狼を振り落とさんと、左右に激しくその体ごと首を振る黒竜の足元に飛び込む黒い影。
その直後に絶叫とも取れる甲高い咆哮を上げて倒れこんだ黒竜。
そのときエーリッツェは、およそあり得ない光景をまのあたりにしていた。
飛び込んできた影はどう見ても人間である。
しかも、その人間が黒竜の右足首を剣の一振りで切り落としたのだ。
黒竜は常時その体に、絶対防御と言っても差し支えないほどに強力な防御シールドを纏っている。
それはカシール大平原で狩をするハンターならば、誰でも知っている常識であり、そのシールドを突き抜けて黒竜に傷を付けることが出来るのは、今なお黒竜に喰らいつく黒狼か、伝説の白竜くらいのはずだった。
人間ごときの振るう剣がその強力無比なシールドを貫いて、しかも、それだけに止まらず、あの太くて屈強な足をその骨ごと断ち切ったのだ。
切ったのが茶毛竜の足ならばまだ分かる。
ギルドトップレベルのハンターか、王国騎士の隊長クラスが死を覚悟して数人がかりで挑めば、茶毛竜を仕留めるとまではいかないが、傷つけることはできるだろう。
しかし相手は茶毛竜などの亜竜ではない。
黒竜なのだ。
こんなことを信じられようか。
それがエーリッツェの偽らざる思いだった。
草原から突き出た巨岩の向こうから強烈な光と爆音が響き、その位置に黒竜を確認した昌憲はハティを走らせる。
そして、昌憲を乗せたハティは巨岩を回りこむように走り抜けると、そこに見えた黒竜の喉元へと食らい付いた。
昌憲はその直前にハティから飛び降りると、その速度を殺さずに大地を強く蹴って自称覇者の剣を振り上げ、そして黒竜の右足に渾身の力で叩きつける。
その結果、その右足はあっけなく切断された。
ように見えたが。
――硬ってぇー。
声には出さなかったが、それが黒竜の右足を叩き切った昌憲の正直な感想だった。
鋼の剣を叩き切ったときにも感じることの無かった強い衝撃が、剣を持つその手に走り、両手がじんじんとしびれている。
そうしているうちにも、右足を切断された黒竜は、バランスを崩してハティに引き込まれるように、咆哮を上げながら昌憲のほうに倒れこんでくる。
昌憲はそれを大きくバックステップして躱した。
ズシンと音を立てて黒竜は倒れたが、ハティはいまだに喉元から牙を離そうとはしない。
それは、黒竜の力がまだ衰えていないからに他ならなかった。
黒竜は必死にもがいてハティの牙を外そうとしている。
しかしそれは叶わない。
勝利を確信した昌憲は、眼前に位置する倒れこんだ黒竜の頭部へと、体重を乗せた自称覇者の剣を、しびれる両手に構うことなく突き入れたのだった。
自称覇者の剣は、黒竜のその巨体に似合わぬ小さな脳を、正確に捕らえていた。
そして脳を破壊された黒竜は大きく痙攣した後に、その生命活動を完全に停止する。
ハティはそれを感じ取って、仕事は終わったとばかりに黒竜の喉元からその牙を離し、昌憲に顔を向けた。
昌憲にはその表情が誇らしげに見える。
実際、ハティがいなかったら、これ程たやすく黒竜をしとめることはできなかっただろう。
「よくやったぞ。いい仕事だハティ」
自称覇者の剣を黒竜の頭部から引き抜いた昌憲は、そう言ってハティの首を乱暴に撫で、その仕事ぶりに報いたのだった。