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悪役令嬢

婚約破棄の舞台に、客席はございません

作者: くるみ
掲載日:2026/07/21

今夜、幕が上がる。


天幕の下には、もう客が集まっている。

誰に招かれたのかも知らないまま、

一番よく見える席を奪い合っている。


私が躓けば、もっと近くへ。

私が何かを失えば、もっと大きな拍手を。


ただし、幕が下りるまでは、

誰が見世物で、

誰が客なのかを決めないでほしい。


最後に笑う者が、

初めから笑っていたとは限らないのだから。



雨は夕刻から降り続いていた。

強い雨ではない。

音もなく落ちる細い雨が、王宮の高い窓を絶え間なく濡らしていた。庭園の灯は雫の向こうで細長く歪み、風が吹くたび、古い硝子がかすかに鳴った。


卒業祝賀舞踏会の大広間には、王都にいるほとんどの若い貴族が集まっていた。

磨き上げられた床に燭台の光が映り、足元には上下を逆さにした、もうひとつの広間が広がっている。


楽団の奏でる音。

絹の衣擦れ。

杯が触れ合う、澄んだ響き。


そのどれもが華やかでありながら、薄い膜を一枚隔てた向こうから聞こえてくるようだった。


国王は今夜も姿を見せていない。

数日前から重い病に伏せり、政務を執ることもできないと公表されていた。

そのせいか、大広間には宴に似つかわしくない緊張が漂っている。


誰もが笑っていた。

けれど、笑い声の切れ目には、互いの顔色をうかがう沈黙があった。


広間の中央だけが、不自然に空いていた。


誰かに命じられたわけではない。

それでも人々は、知らず知らずのうちに円を描き、その内側へ入ることを避けていた。

まるで、そこに見えない舞台があるかのように。


セレナ・アルヴェインは、その中央に立っていた。

正面には王太子リュシアン。

その傍らには、青ざめた顔をしたノエラ・リーヴェ男爵令嬢がいる。


楽団の音が止んだ。

最後の一音が高い天井へ吸い込まれ、雨の気配だけが残った。


「セレナ・アルヴェイン公爵令嬢」


リュシアンが彼女の名を呼んだ。

十年近く、婚約者として過ごしてきた男だった。

幼いころには同じ庭を走り、成長してからは同じ国の未来について語ってきた。

その青い瞳が、今はセレナを見ていない。


彼女の背後にいる者たちを、ひとりずつ見定めているようだった。


「貴女との婚約を、ここに破棄する」


人々の間にざわめきが走った。

驚きの声だった。


けれど、その底には隠しきれない期待があった。

セレナは黙ってリュシアンを見つめた。


冗談を口にする人ではない。

それでも、何かの間違いであってほしいと思った。


「理由を、お聞かせいただけますか」


自分でも驚くほど、声は震えていなかった。


リュシアンが片手を上げる。

侍従が進み出て、数枚の書類を開いた。


ノエラの教本や私物を壊したこと。

人目のない階段から突き落とそうとしたこと。

彼女を中傷する手紙を学園内へばらまいたこと。

そして今夜、ノエラの杯へ毒を入れようとしたこと。


読み上げられるたび、人々の視線がセレナへ集まった。

扇の陰から囁き声が漏れる。


やはり。

恐ろしい方。

王太子妃になるためなら、何でもなさるのね。


「すべて、身に覚えがございません」


「証人も、証拠もそろっている」


「でしたら、正式な場で御精査くださいませ」


「その必要はない」


あまりにも早い返答だった。

セレナはリュシアンの顔をまっすぐに見た。

その表情には、怒りも軽蔑も浮かんでいなかった。

何もなかった。


それが何より恐ろしかった。


「殿下」


男の声が、静まり返った広間を切り裂いた。

進み出たのは、近衛騎士団副団長ガレス・クロイツだった。

リュシアンの幼少期からの友人であり、セレナにとっても長く見知った人物だった。


「これは裁きではありません。証拠を検証せず、衆人の前で一人の令嬢を罪人と決めつけるなど、王家のなさることではない」


「下がれ、ガレス」


「下がりません」


ガレスは胸元から副団長の徽章を外した。

銀色の徽章が床へ落ちた。

硬い音が、広間の隅々まで響く。


「友としても、臣下としても、今夜の殿下をお諫めいたします」


ざわめきが大きくなった。

王太子の親友さえ、彼を見放した。

その事実は、どの証言よりも強く人々の心を動かした。


セレナはガレスを見た。

この広間で、彼だけが自分を信じてくれている。

そう思った。


「セレナ・アルヴェインには、明朝をもって王都を去るよう命じる」


リュシアンは続けた。


「北部の聖リゼル修道院で謹慎せよ」


「お待ちください!」


アルヴェイン公爵が、人々をかき分けて進み出た。


「娘には弁明の機会すら与えられておりません。正式な審理を――」


「これ以上異を唱えるのであれば、アルヴェイン公爵家そのものを調査する」


広間が静まり返った。


アルヴェイン公爵家は、西部の穀倉地帯と三つの要塞を預かっている。

王家に次ぐ力を持つ家だった。

反逆の疑いをかけられれば、公爵家だけでは済まない。

家臣も、領民も、要塞を守る兵士も巻き込まれる。


「お父様」


セレナは小さく首を振った。

公爵は拳を握りしめた。


セレナは改めてリュシアンへ向き直った。


「王太子殿下の御命令、承りました」


広間のどこかから、安堵の息が漏れた。

見世物が、予定どおりに終わったことを喜ぶような音だった。



翌朝、王都には号外が出ていた。


――王太子殿下、悪女セレナとの婚約を破棄。

――男爵令嬢を毒殺の危機から救う。

――アルヴェイン公爵令嬢、修道院へ追放。


まだ夜が明けきらないうちから、新聞売りの声が石造りの街路に響いていた。


記事の版は、舞踏会が始まる前から組まれていた。

ベルモント侯爵の一派が、最初から用意していたものだった。

彼らはノエラを使ってセレナを失脚させ、王太子とアルヴェイン公爵家を引き離そうとしていた。



馬車の窓から新聞売りを見つめながら、彼女は膝の上で指を組んでいた。

向かいには、護衛騎士のイアン・モルデンが座っている。

王太子直属の騎士だった。

昨夜のうちに命令書を携えて公爵邸を訪れ、夜明けとともにセレナを馬車へ乗せた。

馬車の前後には八人の騎士がついている。

修道院へ送るだけにしては多かった。

それでも、誰も事情を説明しなかった。


王都の城壁を出ると、街の音は急に遠くなった。

濡れた野原の向こうに、黒い森が横たわっている。

馬車が揺れるたび、車輪が泥を噛む音がした。


セレナは、座席の隙間に白い紙が挟まっていることに気づいた。


イアンが窓の外へ目を向けている隙に、指先で引き抜く。

小さく折られた紙には、クロイツ家の紋章を崩した印があった。

中の文字を見た瞬間、誰が書いたものか分かった。


ガレスの筆跡だった。


――殿下は、貴女を修道院へ届けるおつもりではありません。

――途中で賊に襲わせ、口を封じる御命令です。

――護衛も信用してはなりません。この手紙を誰にも見せないでください。

――東の森に、使われていない古い礼拝堂があります。

――そこまで一人で来てください。私の手の者が待っています。

――どうか、私を信じてください。


セレナは手紙を胸元へ滑り込ませた。


昨夜、ただ一人、自分を信じてくれた人。

王太子へ逆らい、地位まで投げ捨てた人。


「モルデン卿」


「はい」


「聖リゼル修道院までは、どの道を通るのですか」


「東の森を抜けます」


胸の奥が冷えた。


「北街道ではなく?」


「北街道には、号外を見た者が集まり始めています。迂回せよとの御命令です」


ガレスの手紙に書かれていたとおりだった。


家々が消え、葉を落とした木々が増えていく。

森へ入るころには、雨がまた強くなっていた。

枝が馬車の屋根を擦る。

乾いた指で、何度も蓋を引っかいているような音だった。


やがて馬車が大きく揺れ、止まった。

道の中央に、太い倒木が横たわっている。


「ここでお待ちください」


イアンが剣の柄へ手をかけ、部下たちとともに外へ出た。


セレナは窓の向こうを見た。

木々の間に、尖った屋根がわずかにのぞいている。

古い礼拝堂だった。


今を逃せば、もう機会はない。


セレナは反対側の扉を静かに開き、ぬかるんだ地面へ降りた。


雨音に紛れるように森を進む。

礼拝堂の扉の前には、黒い外套をまとった男が二人立っていた。


「アルヴェイン公爵令嬢ですね」


男の一人が歩み寄った。


「ガレス卿の命令で、お迎えに参りました」


セレナは息をついた。


しかし、差し出された手は彼女を導くためのものではなかった。

男の指が、セレナの腕を強くつかむ。


「離してください」


「暴れなければ、傷つけはしない」


背後で剣のぶつかる音がした。

道の左右から現れた男たちが、自分を追いかけてきた護衛へ襲いかかっている。


「令嬢は生かして捕らえろ!」


誰かが叫んだ。


「護衛は動けなくしろ!」


救出ではなかった。

セレナの口を塞ごうとした男の手首へ、短剣が突き刺さった。


男が呻き、手を離す。

雨を切って駆けてきたイアンが、セレナを背後へかばった。


「馬車から出ないように申し上げました」


「今、叱るところですか」


「後ほど、改めて」


剣戟の音が森に満ちた。


襲撃者は数で大幅に勝っていた。

通常では負けるはずのない差であった。


けれど、戦いが始まって間もなく、木々の奥から王家の紋章を外した騎士たちが現れた。

リュシアンが、護衛とは別に配置していた者たちだった。


彼らは森へ入る前から、馬車と一定の距離を保って追従していた。

襲撃を防ぐだけではない。

襲撃者を生きたまま捕らえ、その背後にいる者を明らかにするために。


イアンは捕らえた男の懐から、折り畳まれた地図と命令書を取り出した。


――女には、王太子に殺されると思わせよ。

――自ら護衛を離れたところを確保すること。

――西の別邸へ運び、次の指示を待て。


文末には、小さな印があった。

二本の剣を交差させ、その下に一本の線を引いたもの。

近衛騎士団で、ガレスが部下への命令を認証するときに使っていた記号だった。


セレナは胸元から手紙を取り出した。


「これは、ガレス卿から届いたものです」


イアンは手紙を読み、目を閉じた。

驚いてはいなかった。


「御存じだったのですか」


「殿下は、ガレス卿を疑っておられました」


「私を囮になさったのですか」


「いいえ」


イアンは即座に答えた。


「殿下は、貴女をこの国から出すことしか考えておられませんでした」


リュシアンは、ガレスが何らかの行動を起こすと予想していた。

だからこそ、表向きの護衛とは別に、森の中へ兵を置いた。

襲撃がなくても、彼らは国境まで一定の距離を保ち、セレナの馬車を守る予定だった。


「ガレス卿の裏切りを立証する証拠も、すでに別に確保されています」


ガレスの側近とベルモント侯爵の使者が接触するところを、リュシアンの密偵が監視していた。


暗号文の控え。

支払いの記録。

襲撃者へ渡された命令書の写し。

ガレスが否定を続けたとしても、裁くために必要な証拠はそろっている。


この襲撃は、リュシアンの計画に必要なものではなかった。

ただ、起こり得ることとして待ち構えていただけだった。


イアンは懐から、王家の封蝋が押された命令書を出した。


「仕方ありません。こちらが、殿下から私へ下された本当の命令です。」


――セレナ・アルヴェインを、東の国境を越え、隣国のルセル辺境伯の保護下へ送り届けよ。

――聖リゼル修道院へ向かうとの命令は偽装である。

――王宮、公爵邸、修道院のいずれにも内通者がいる。

――私の廃位、拘束、あるいは死亡の報せが届いても、任務を中止してはならない。

――彼女を国境の外へ出すことを、すべてに優先せよ。


紙の下には、見慣れた署名があった。


リュシアン


「説明してください」


イアンは短く息をついた。


「国王陛下は、ベルモント侯爵の一派に毒を盛られました」


毒は致死量には達していなかった。

国王付きの侍医が早く異変に気づき、秘密裏に治療したため、国王は二日前には意識を取り戻していた。


だが、その事実は公表されていない。

国王が危篤だと信じた者たちが、誰の側へ動くのかを見るためだった。


王宮の門を守る兵。

近衛騎士。

侍従。

官吏。

新聞社。


ベルモント侯爵が金を渡した者たちは、すべて監視されていた。


「では、殿下は最初から――」


「はい」


ベルモント侯爵が緊急議会を開くことも。

第二王子の名を使って命令書を発行することも。

西門と武器庫を押さえようとすることも。

すべて、リュシアンの予測の範囲内だった。

忠誠を偽っている者たちを一度に動かし、証拠を残させる。

そのために、彼は自ら孤立したように見せた。


アルヴェイン公爵家を失い。

親友に背かれ。

王太子妃を自分の手で捨てた。

そう見える舞台を作った。


「殿下お一人で、すべてを解決できるのですか」


「できます」


イアンは迷わず答えた。


「セレナ様が戻られなくても、今夜中にはすべて終わります」


ベルモント侯爵を裁く証拠。

ガレスの裏切りを立証する証拠。

セレナにかけられた罪がすべて虚偽であることを示す文書。

それらはすでに、国王と最高法院長の署名を得ていた。


たとえリュシアンが拘束されても、定められた時刻になれば公開される。

セレナの名誉が、彼の証言だけに委ねられることもない。


「でしたら、なぜ私を国外へ?」


イアンは、しばらく答えなかった。


セレナの母方の血筋は、現在の王家より古い王統へつながっている。

ベルモント侯爵はリュシアンを排除したあと、十五歳の第二王子を即位させるつもりだった。

そして、セレナを王妃に据える。

彼女の血筋とアルヴェイン公爵家の軍事力を、新政権の正統性に利用するために。


だが、王権が安定すれば、セレナは必要なくなる。

そしてベルモント侯爵には、セレナと同い年の娘がいる。


「王宮に残せば、人質にされます。公爵邸へ戻せば、御家族や領民を盾に取られる。修道院にも、すでに侯爵の手の者が入っていました」


安全な場所は国外しかなかった。


「なぜ、私に何も話さなかったのです」


「話せば、貴女が残るからです」


セレナは否定できなかった。

婚約者が命を懸けて謀反を止めようとしていると知れば、自分だけ逃げることなどしなかった。


「殿下は、貴女が御自身を憎めば、王宮へ戻ろうとはしないと考えられました」


「ずいぶんと、自分勝手な御考えですこと」


イアンはわずかに目を伏せた。


雨が礼拝堂の屋根を打っていた。

セレナは命令書へ目を落とした。

リュシアンは、自分が勝つことを疑っていない。


王国も、第二王子も、セレナのことも守るつもりだった。

ガレスを裁き、ベルモント侯爵を倒し、セレナの名誉を回復する。

すべては、セレナを安全なところに置いたままで。

それが、彼の選んだ結末だった。


「王都へ戻ります」


「必要ありません」


「殿下は、私が戻らなくても勝てるのでしょう」


「はい」


「でしたら、私が戻っても勝てます」


「そういう問題ではありません」


セレナは捕らえられた男の馬へ歩み寄った。


「止めるのであれば、私を縛って馬車へ戻してください」


イアンは動かなかった。


「殿下からは、必要ならば拘束してでも国境へ運べと命じられています」


「では、そうなさいませ」


セレナは彼を見た。


「ただし、その後、私は生涯、殿下を許しません」


雨音が続いた。

イアンは長く沈黙したあと、片手で顔を覆った。


「殿下は、どうして御自分と似た方を婚約者になさったのでしょう」


「存じません」


イアンは騎士たちへ顔を向けた。


「馬を替える。捕虜を連れ、王都へ戻る」



夜の王宮は、巨大な生き物のように静まり返っていた。


城壁には灯が並んでいる。

門には兵士が立っている。

それなのに、広い中庭には物音がなかった。

雨に濡れた石畳だけが白く光り、その上を渡る風が、どこにも行き場を見つけられずにいる。


議会堂では、王太子廃位の緊急審議が始まっていた。

長卓の片側には、ベルモント侯爵を支持する貴族たち。

反対側には、国王派の者たちがわずかに残っている。


議場の中央に立つリュシアンは、剣を外されていた。

背後に残っている騎士は三人だけだった。


王太子は追い詰められている。

誰の目にも、そう見えた。


「王太子は、無実を訴える公爵令嬢を正式な審理もなく追放した」


ベルモント侯爵が告げる。


「そのうえ、移送中に彼女を殺害しようとした疑いがある。もはや、王位継承者としての資格はない」


議場に賛同の声が上がる。

昨日までリュシアンへ頭を下げていた者たちが、次々と彼へ背を向けていた。

卓の端にはガレスが座っている。

副団長の制服は着ていなかった。


「クロイツ卿」


侯爵に促され、ガレスが立ち上がった。


「昨夜、貴殿は王太子の行為を諫めた。王太子がセレナ嬢を害する意思を持っていたと考えるか」


ガレスはリュシアンを見た。


「否定できません」


その声には苦痛があった。

だからこそ、誰もが信じた。


「では、王太子の権限を停止し、第二王子殿下を新たな王位継承者として――」


「役者がそろったようだ」


リュシアンが言った。

大きな声ではなかった。

それでも議場の端まで届いた。


ベルモント侯爵が眉を寄せる。


「何を――」


議会堂の奥にある扉が、ゆっくりと開いた。

意識を失っているはずの国王が、王弟と最高法院長に付き添われて姿を現した。

議場の空気が凍りついた。


国王の顔色は悪かった。

歩みも遅い。

しかし、その目ははっきりと開いていた。


「続けよ、リュシアン」


国王が言った。


リュシアンは一礼し、長卓の上へ書簡の束を置いた。

王太子妃の座が空いたと知り、ベルモント侯爵へ娘を売り込んだ者。

第二王子の即位後に与えられる官職を願い出た者。

アルヴェイン公爵領の分割を提案した者。

西部の要塞を新政権へ引き渡すと約束した者。


国王が危篤であり、王太子が孤立した。

そう信じた者たちは、自らの手で書き、署名し、封をしていた。


「私はただ、空席をひとつ用意しただけだ」


リュシアンが言った。


「そこへ誰が座ろうとするのかを、待っていた」


国王を診ていた侍医へ金を渡した記録。

西門の守備兵へ送られた命令書。

武器庫を占拠するための人員表。

第二王子とセレナの婚姻契約書。

戴冠式の半年後に使用する毒薬の注文書。

証拠が、次々と卓上へ並べられていく。

傍聴席からノエラが立ち上がった。


「私はベルモント侯爵から命じられ、王太子殿下へ近づきました」


彼女は、自分が受けた指示のすべてを証言した。

セレナから嫌がらせを受けたふりをすること。

王太子へ助けを求め、二人の仲を裂くこと。

王太子妃の座を空けること。

セレナを第二王子と結婚させること。


そして、新政権が安定したあと、セレナを病死させること。


「王太子殿下は、私と家族の安全を保障してくださいました。

私の家族を人質にしたベルモント侯爵よりもずっと信頼できると判断しました」


「偽造だ!」


ベルモント侯爵が叫んだ。


「すべて、この男が用意したものだ!」


「そのとおりだ」


リュシアンはあっさりと認めた。

議場がざわめく。


「ただし、あなた方が自ら書き、自ら運び、自ら実行しようとするところまで含めて、用意した」


議会堂の外で、複数の足音が響いた。

国王直属の騎士たちが入ってくる。

西門を開こうとした兵士は、すでに拘束されている。

武器庫も、王宮の門も、通信塔も、すべて国王派が押さえていた。


ベルモント侯爵が動かした使者は、一人残らず追跡されていた。

王太子は追い詰められてなどいなかった。

追い詰められたように見せていただけだった。

彼は、自分の前へ差し出される手を待っていた。


忠誠を捨てる者。

空いた地位へ手を伸ばす者。

他人の転落を見届けようと、身を乗り出す者。

すべて、彼の掌の上にあった。


「ガレス」


リュシアンが、友の名を呼んだ。

ガレスは立ったまま、動かなかった。


「お前の側近は、すでに拘束されている」


暗号文の控え。

ベルモント侯爵からガレスへ送られた金。

襲撃者への命令書。

ガレスが父の名誉回復と引き換えに、リュシアンの廃位へ協力すると記した書簡。


すべてが、ガレスの前へ並べられた。


「いつから、私を疑っていた」


ガレスが尋ねた。


「最初からではない」


リュシアンは答えた。


「疑う理由が増えるたび、違っていてほしいと思った」


「それでも、私を泳がせた」


「ああ」


ガレスが笑った。

ひどく乾いた笑いだった。


「私の友であったことも、すべて芝居だったのか」


リュシアンが尋ねる。

ガレスは目を伏せた。


「芝居であれば、もっと楽だった」


その言葉だけは、おそらく真実だった。


ガレスは、父の無実を信じていた。

父の処刑を認めた王家を憎みながら、それでもリュシアンの隣で過ごした年月まで、すべて嘘だったわけではない。


だからこそ、裏切りは深かった。


「連れていけ」


国王が命じた。


そのとき、議会堂の扉が開いた。

雨の匂いと冷たい風が流れ込む。


泥に汚れた旅装のセレナが、扉の向こうに立っていた。

背後にはイアンと護衛たち。

さらに、縄を打たれた襲撃者が引き立てられている。

議場にいた者たちが、一斉に息を呑んだ。


リュシアンの目が、わずかに見開かれた。

何かを言おうとした唇が、声を形にする前に閉じる。

喉が一度、かすかに動いた。


ベルモント侯爵が動いたときも。

西門の兵が裏切ったときも。

ガレスの書簡が読み上げられたときも。

彼の顔には、驚きの影ひとつ浮かばなかった。


ただ、セレナが扉の向こうに立っていることだけは、彼の知る筋書きにはなかった。


「なぜ戻った」


ようやく出た声は、かすれていた。

セレナはまっすぐ彼を見た。


「国外へ出るよう命じられた覚えはございませんので」


リュシアンがセレナからイアンに目を移す。


「申し訳ございません、殿下」


「あとで話を聞く」


「その前に、私とのお話がございます」


セレナは議場の中央へ進んだ。

彼女が持ち帰った証拠は、リュシアンにとって必要なものではなかった。

ガレスを裁く証拠は、すでにそろっている。

セレナの無実を証明する国王と最高法院長の署名もある。


彼女が戻らなくても、リュシアンは勝っていた。

けれど、セレナ自身がこの場へ立つ意味は、それとは別にあった。


「これは、あなたから届いたものです」


セレナはガレスの前へ手紙を置いた。

続いて、襲撃者から押収した命令書も並べる。


「王太子殿下が私を殺そうとしている。護衛を信用せず、東の森の礼拝堂へ一人で来るように。そう書かれていました」


ガレスは何も答えなかった。


「あの夜、あなたが殿下に逆らったとき、私は救われたと思いました」


「セレナ」


「だから、あなたの手紙を誰にも見せなかった。私を信じてくれた人を、私も信じようと思ったのです」


ガレスは目を伏せた。


「少しだけ本心を混ぜれば、嘘はよく効くのでしょう」


「私は、君を殺すつもりはなかった」


「ええ。生かしたまま、ベルモント侯爵へ引き渡すおつもりだったのでしょう」


ガレスが、セレナの死まで望んでいたのかは分からない。

だが、彼女を侯爵の計画へ差し出したことに変わりはなかった。


「あなたが裏切ったのは、私や王太子殿下だけではありません」


セレナの声は震えなかった。

ガレスの顔から、わずかに表情が消えた。


「無実の者を、他人の都合で罪へ差し出す。あなたが何より憎んでいたはずのことを、あなた自身がなさったのです」


セレナは、まっすぐに彼を見た。


「あなたは、あなた自身を裏切ったのです」


ガレスは何も言わなかった。

ただ静かに目を閉じ、顔を伏せた。


ベルモント侯爵と、その一派もまた、次々に拘束されていった。


「こんなものは茶番だ」


ベルモント侯爵は、騎士たちに両腕を取られながら叫んだ。


「国王を隠し、偽りの婚約破棄を演じ、我々を欺いた。最初から、すべて仕組んでいたというのか」


高窓には、絶え間なく雨が流れていた。

外の灯が水の向こうで揺れ、その淡い光が議会堂の床を薄く濡らしている。

机の上には、開かれた書簡が並んでいた。


王太子妃の座を望んだ者。

第二王子の即位後に、地位を求めた者。

王太子が失脚すると信じ、自ら忠誠を売った者。


どれも、リュシアンが書かせたものではない。

彼らが自ら筆を取り、署名し、封をしたものだった。


「私は、舞台を整えただけです」


やがて、リュシアンは言った。

声は低く、議会堂の静けさを乱さなかった。


「そこへ上がることを選んだのは、あなた方でしょう」


ベルモント侯爵の顔が歪んだ。


「詭弁を――」


「連れていけ」


国王の声が、その続きを断ち切った。


騎士たちが侯爵を扉へ向かわせる。

ガレスもまた、縛られた手を前にしたまま、そのあとに続いた。


扉が閉じた。

重い音が、広い議会堂の奥へ沈んでいった。

誰も、すぐには口を開かなかった。


セレナは、床に映った灯を見つめていた。


あの夜と同じだった。

人々は円を作り、その中央に立つ者を眺めていた。

自分たちは安全な客席にいるのだと、最後まで信じていた。

けれど、舞台の外にいた者など、初めから一人もいなかった。



セレナの無実は、翌朝、国王と最高法院の名のもとに公表された。


学園での嫌がらせも、毒殺未遂も、すべて偽装だった。

ベルモント侯爵と共謀した者たちは、国家反逆罪で裁かれた。

第二王子は計画を知らされておらず、関与を否定された。

ノエラには減刑が認められ、数年間の国外奉仕が命じられた。

ガレスもまた、公爵令嬢誘拐未遂と国家反逆への加担によって裁かれた。


婚約破棄は、撤回されなかった。

セレナが望まなかったからだった。


数日後、リュシアンはアルヴェイン公爵邸を訪れた。

応接室の窓は開いていた。

長く続いた雨はやみ、濡れた庭から土と若葉の匂いが入ってくる。


二人の間には、低い卓があった。

以前なら、リュシアンはセレナの隣に座っていた。


今は向かい側にいる。


「どこまでが、殿下の御計画だったのですか」


セレナが尋ねた。


「ベルモント侯爵が議会を前倒しすること」


「ああ」


「国王陛下が姿をお見せになることも」


「そうだ」


「ガレス卿の裏切りも」


「証拠を取るところまでは」


「私の名誉を回復することも?」


「舞踏会の前に、陛下と最高法院長の署名を得ていた」


腹立たしいほど、隙がなかった。


「では、私が戻らなくても、何も問題はなかったのですね」


「なかった」


リュシアンは迷わず答えた。


「すべて、殿下の掌の上だったと」


「君以外は」


セレナは目を細めた。


「私が戻るとは、思わなかったのですか」


「戻る理由を無くしたつもりだった」


「御自分を憎ませて?」


「ああ」


「私が、どれほど傷つくか分かっていて?」


リュシアンはしばらく黙っていた。


「君が私を愛したまま死ぬより、私を憎んで生きるほうがよかった。万が一の可能性すら、残したくなかった」


あまりにも静かに言うので、一瞬、意味が分からなかった。

リュシアンは、初めから自分が許されることを望んでいなかった。


王国を守る。

セレナを逃がす。

彼女の名誉を回復する。

そこまでが、彼の筋書きだった。

その先に、自分が彼女の隣へ戻る結末は、書かれていなかった。


「ずいぶんと傲慢ですこと」


「知っている」


「腹立たしい方です」


「ああ」


「許してはおりません」


「それも知っている」


リュシアンは、わずかに笑った。

舞踏会の夜に浮かべていた、何もない表情ではなかった。


「だから、次は待つことにする」


「何をですか」


「君が、もう一度私を選ぶまで」


セレナはすぐには答えなかった。


開いた窓から風が入る。

卓の上に置かれた薄い紙が、かすかに揺れた。


「ずいぶんと自信がおありなのですね」


「大抵のことは思いどおりになると思っている」


「私も思いどおりになると?」


リュシアンは首を振った。


「君が関わると、私はいつも、最善の手ではなく、君を失わない手を選んでしまう」


セレナは、しばらく彼を見つめた。

リュシアンは、困ったように笑った。


「君だけは、どうしても後回しにできない」


庭の木々から、たまっていた雨粒が落ちた。


一滴。

少し遅れて、もう一滴。

セレナは窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。


やがて、ほんのわずかに口元を緩めた。


「では、一年差し上げます。待つのではなく、失った信頼を、取り戻してくださいませ」


リュシアンは、いたずらげに口角を上げた。


「それは私の得意分野だ。君を最優先にする筋書きなら、造作もない」


舞台の幕は下りた。

けれど二人の物語は、ようやくここから始まった。

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