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竜に右腕を食べられた少女

作者: 丸 達山
掲載日:2026/03/31

『竜に右腕を食べられた少女』


私が小さい時、オバアは私に右腕がないのは、「産婆さんに頼まなかったからや」と言っていた。私を産む時、ママの希望で高い個人病院で出産したから、お金が足りなくて私の右腕の半分を竜の餌にして、費用の足しにしたのだと、変な作り話。ママに本当の理由を教えてほしいと聞いたけれど「神様が右腕を一つ作り忘れて、腕が一つ足りなくなったの。それで、腕ひとつで生まれる女の子につばさが選ばれたの」とオバアと同じように変な物語。右腕が無いことを聞いていた始めのころは黙って私を抱きしめてくれていたのに。私が何度も障害の理由を聞くから、しつこくて嫌になってしまって「神様が右腕の作り忘れた」を考え付いたのかも。私の障害の事をママに聞く理由は、ママが私の事を心配して抱きしめてもらいたいからなのに。ママに抱きしめてもらったら、なんでも大丈夫だと思うから。パパとオジイには、抱きしめられたら嫌なので聞かない。それに聞いてもはっきり答えないで、もごもご言っているだけ。私が生まれたのがだいぶん前の事なので、家族のみんなは、右腕に障害があるなんて、そんな事忘れているみたい。だからもう最近は聞かない。腕が無い原因は調べれば分かること。「先天性横軸形成障害」の前腕の欠損。「せんてんせいよこじくけいせいしょうがい」。長すぎる名前。ママのお腹の中でよくない事が起きる病気。でもなんで先天性って書くのだろう。なんで「先天」なんだろう。天は神様の事なのかしら。そしたら、ママが言っている神様が作り忘れたお話が正しいことになってしまう。私はの腕の方がないから、半袖を着ると右手が無くて、丸い肉を見られるのがとても嫌だった。手が途中から無い私に「翼」という名前を付けるのは信じられない。私の手のない丸い肉を見て「気持ち悪い」と言われたことをいっぱい憶えている。私はハンデキャップに負けないように、がんばって何でも自分の事は自分でする。服を着がえるのも、学校の用意をするのも自分一人でテキパキできる。オバアは最近、私に初潮が来たかと、とてもしつこく聞いてくる。初潮が来たら親戚からお祝いをもらうと言っている。そんなの恥ずかしいので、ババアハラスメント。それに、そんなお祝いの習慣が、他の家にあるはずない。オバアはとにかくお金が大好き。いつもお金を増やす方法が何かないかと考えているみたい。オバアはもうすぐ70歳。でもまだ元気に働いている。オバアの口ぐせは「損なんか得なんか」家族でオバアだけ関西弁。近所の産業廃棄物の回収会社で事務の仕事をしている。私もオバアが働いている会社に遊びに行く。広い駐車場の端の物置に、雄の猫が一匹だけ住み着いている。白黒のブチ猫。オバアや会社の人にドンブリに入れたエサを貰っているから、「ドンブリ」と呼ばれている。私は猫が好き。でもドンブリちゃんは、私には寄ってこない。猫や犬にとって子供は警戒の対象だから。仕事が忙しい時は、土曜日もオバアは会社に行く。年金ももらっているので家族で一番金持ちだと、パパが言っていた。オバアはネットで調べていろんな事を知っている。株の取引もして、稼いでいるらしい。小遣いはよくくれるけど、テストで良い点を取るか、オバアの指令で働く必要がある。通知表の成績は、お小遣い評価には関係ない。「通知表は人が決めた評価や。先生一人でみんなの事が全部わかるわけがない」そう。オバアのいいつけでする私の仕事は買い物が一番多い。オバアがスーパーのネットチラシでお買い得品を調べて、私に買いに行かせる。オバアも別のお店のお買い得品を買いに行く。手分けして行くのが時間の節約だから。他にはママが言っていた事の連絡、パパが何時に帰ってきたとか、何を買っていたか、オジイがパチンコへ行って勝ったか負けたか。家の車を軽自動車から7人乗りの自動車に買い替えた時、オバアは「自動車なんか金食い虫や、自転車でどこでも行けるのに何でそんなもんに金使うんや」と不満そうだった。でもみんなは、沢山乗れる自動車が来て大喜び。みんな揃っていろんなところに行けるから。運転するのはパパだけど、それは最初だけ。途中でご飯を食べるのにお店に入ると、パパはビールを飲んでしまう。だからその後は、ずっとママが運転する。ママの方がたくさん運転しているかもしれない。オバアは自転車でいろいろなところに行く。運動にもなるし、お金がかからないから。私も自転車に乗れる。右腕がないけれど、私は運動神経が良いから、すぐに左手だけで自転車に乗れるようになった。でも、パパとママから外で自転車に乗るのを禁止されている。私が自転車に乗ると、スピードが出た時に急に止まったり、曲がったりすることができないと思われているから。パパから、私は運動神経が良いので、なにかスポーツしなさいと言われた。最近は障害者スポーツも盛んだから。オバアは、走るだけなら道具がいらないから陸上がいいと言っていた。でも、私は長い手足のモデルみたいなきれいな女の人が、テニスの試合をしているところをテレビで見た。きれいで強くて、すごくかっこよかった。その人に、とてもあこがれていた。だから私はテニスがしたかった。一生懸命お願いしたら、パパがラケットを買ってくれた。私は壁打ちの練習やサーブの練習をいっぱいしたので、小学生なのに左の腕に筋肉がどんどんついていった。左手だけでトスを上げて、サーブを打つのは始めた時、すごく難しかった。けど、何百回も練習をしたので、今はとても上手だと思う。中学に入ってオバアはテニスシューズを買ってくれた。オジイが駅前のパチンコ屋さんの景品交換所に並んでいたのを、私が2回見つけて報告したから。でも、買ってくれた靴のサイズが大きかった。厚い中じきをシューズに入れて使っている。オバアは「私は成長期だからすぐに足が大きくなってピッタリになる」って。中学に入学してテニス部に入部しようとしたけれど、担任のA先生、顧問のB先生と話し合いが必要だった。硬式テニス部に腕が片方しかない生徒が入部した前例がないから。でも、私がコートでボールを打ち返す姿を見てもらったら、すぐに入部を認められた。腕が入部したての頃は、球拾いばかりでつまらなかった。私は左手だけしかないので、球拾いが遅くて、みじめな気持ちになりかけた。でも、同級生や先輩は、私が一生懸命下級生のする仕事をしていると言ってくれたから、みじめな気持ちにならなかった。初めて、私がみんなの前で片手バックハンドを打った時、みんなは驚いていた。他の女子は腕の力が弱いからバックハンドは両手を使って打つのが普通。でも私が片手で打ったバックハンドが他の女子の両手バックハンドよりも強いボールだったから。サーブを打つ時は片手でトス高く上げて、ボールが落ちてくる前に、右手のわきに挟んだラケットをすぐに抜いて打つのも驚いていた。武士が刀を抜いているように見えたので「サムライサーブ」と言われたけど。女子なのでサムライと言われるのはどうなのかなと思う。先輩のCさんが、「つばさは左利きだからサーブに回転をかけたら右と逆方向なので強い武器になる」と教えてくれたので回転をかける練習を沢山した。C先輩は色々教えてくれて、私は少し好きになったかも。初恋ではないけど。C先輩は優しくて、テニスもうまいので女子の人気がある。障害のある私にも区別なく接してくれるとても心のできた人だと思う。一年のクラスの男子は右腕のない私を見て「お前もピッコロ大魔王みたいに、力をこめれば右腕がドバッと出てくるんじゃないのか」と私をからかったりする。私はオバアの影響で気が強いから、そんなことを言った男子にジャンプしてひざげりでお返しする。みんなはそれを見てびっくりしていた。特に男子は、障害のある女子の私に、男子がやられるのを見て少し引いていたけど。女子は私のひざげりがかっこいいと大喜びしていたと思う。でも、小学校から仲の良いDちゃんからは、女子の中には「つばさは障害があるから、何でも自由にしていいと思っている」と言っている人がいると教えてくれる。私は小学校の時から、そんなことが沢山あったから気にしない。でも中学になると、スマホを使って、ウソや悪口を広める嫌がらせの方法が増えるので心配。スマホには家族割があるから、割引き目当てで、オバアが買ってくれた。もちろんママにスマホの使い方は気をつけないと、悪い人の思う通りになると、注意されている。オバアから、ゲームで課金は絶対するなと言われる。けど、私はテニスに夢中だから、LINE以外はテニスの動画ばかり見ている。友達とのグループLINEの反応が遅いと注意されることがある。グループLINEでは、私が障害者であることを忘れられて、みんなと同じように扱われる。文句を言われてもなんだかうれしい気持ちがする。グループLINEの中で、私は他の障害のない友達と同じように話せるから。でも現実を見ると、他の人には両腕があって、私には右腕が無い。私が想像する事があるのは、世の中、全ての人の右腕が無くて、左腕だけで生活するのが普通の世界。人が使う道具も左手だけを使うために作られた世界。でも、障害者には右腕がないだけでなく、目が見えない人、耳が聞こえない人、足が不自由な人、知能が遅れている人など、色々な人がいるから、そんなのは想像だけの自分勝手な世界。私は右腕の途中から先がないだけで、ほとんどのことは自分でできるし、性格もハキハキしているので自分の事が好き。でも、テストでよい点数を取ると私より点数の低い子たちにねたまれることがあると思う。それで悔しい気持ちになる時も。昨日、ホームルームでA先生から、E君が在日朝鮮人であることで差別されたと、みんなに注意するようにと言われた。「人を差別することはよくない事で、自分自身をいやしい人にします」A先生は歴史の先生。私はE君が在日朝鮮人であるとは、知らなかった。A先生がホームルームでE君が在日朝鮮人であることを伝えて、みんなに注意する必要があるのかよくわからないと思う。だってE君が在日朝鮮人であることが広まるから。見た目が同じなら知らない人は差別しないから。E君が他の男子に「どっちの朝鮮だよ」と聞かれているのを聞いた。朝鮮の国が二つに分かれていている事は知っている。他に知っている事は北朝鮮のリーダーがとても威張った太った男の人であること。ミサイルを発射してほかの国に迷惑をかけている。パパと一緒にニュース番組で見たから知っている。南側の韓国にはカッコいいアイドルがいっぱいいる。それにママは韓国ドラマが大好き。二学期になってから学級委員に選ばれたF君が登校出来なくなった。だから新しい学級委員を決める事になった。A先生は学級委員になった事がF君の心の負担になったと言っていた。後ろの席で男子たちは学級委員が大変なら、最初からならなければとか言っている。A先生は、明日新しい学級委員を決めると言っている。家に帰ってF君の事を話したら、パパもクラスの男子と同じように、学級委員にならなかったらよかったと言っている。その子は学級委員になるのを断れば良かったと。それを聞いて、私は男の人はみんな理性が少ないのだと思った。そんな簡単に断れない人もいるのに。明日、新しい学級委員を決めないといけない事を知ったパパは、私がなればいいと言っている。私にはリーダーシップがあるからだと。私にリーダーシップがあるなんて、何の根拠もない。リーダーと聞いて、北朝鮮の太ったリーダーの事を思い出して、嫌な気持ちが少しした。絶対あんな気持ちの悪い人にはなりたくないから。パパはなんだか私を買いかぶりすぎだと思う。横で聞いていたオバアは、学級委員になったら得することはあるのか聞いてきた。担任の先生とよく話をすることになると言うと「先生と親しくなるのは得になるかもしれんな」学級委員の話はママにだけ言えばよかったと後悔する。お風呂上り、ママに髪を乾かしてもらう。いつもは自分で乾かすけど。その時、ママに学級委員の子が二学期から来なくなった事を話す。それで、明日、新しい学級委員を決めると言ったら、来なくなった子のことを心配していた。パパが私にリーダーシップがあるから学級委員になったらと言われたとママに言うと、学級委員になる事をどう思うか、友達に聞いてみればと言ってくれた。そうしようと思う。次の朝、いっしょに登校する同じクラスのGさんとHさんに、学級委員の話をしようとしたら「学級委員なんか絶対やりたくない」と直ぐに言われて、私はそれ以上何も言えなくなった。ホームルームの時間になって新しい学級委員の候補にIさんの名前が出ているので驚く。Iさんは大人しくて目立たないタイプの女子だから。私はIさんが学級委員を押し付けられたのでないかと心配になった。GさんとHさんが学級委員は絶対やりたくないと言っていたのが、心に引っかかっていたけど、押し付けられて人がやらされるのが嫌だと思った。それで左手をあげて学級委員に立候補。私は私が障害者で目立つ人だから立候補すれば当選すると思った。それでIさんは学級委員を押し付けられずに済んで、ホッとするのだと思っていたけど違った。クラスの投票で私が学級委員に選ばれた。やっぱり、元気の良い障害者で目立っていた私に投票が集まって、学級委員に選ばれた。学級委員にならなかったIさんはその時は、特に悔しそうな様子はなかった。でも、本当はくやしかったみたい。友達のJさんから、Iさんが学級委員にならなかったのは残念だったと言われていたみたいだと聞く。そして、Jさんに言われた事をIさんはとても気にしていたそう。それを聞いてIさんはJさんに心を支配されているのだと思った。そしてIさんの心を支配しているJさんは嫌な人だと思う。学級委員になった事をHさんから「登校の時に気にしていたからつばさは学級委員に立候補すると思っていたよ」と言われる。Dちゃんからは「Iさんが押し付けられて立候補したみたいに思ったから、つばさが立候補した時は、やっぱりと思ったよ」と言われた。そして、私はあまり考えずに行動する「ちょとつもうしん」なところがあるから、気をつけた方が良いと教えられる。学級委員になって最初に、起立礼の号令をしたときは、緊張して自分の声がすごく変に聞こえた。けれど、だれも気にしていないので、もともと自分は変な声なのかと心配になる。テニス部の練習の時、私が学級委員になった話をしたら、他のクラスでは学級委員に立候補した人が8人もいたと聞いてビックリ。そのクラスの先生は生徒に人気があって、みんなの話もよく聞いてくれるそう。私のクラスの先生も、もっと話を聞く先生なら、みんな学級委員になりたがったのかなと思う。テニスでは相手の打つ早いホールをバックハンドでボレーする事が苦手。同じ学年の陽子ちゃんは、対戦するときにいつも私のバックハンド側を狙ってくる。それでよく陽子ちゃんにポイントを取られる。でも私は、弱点を狙ってくれる方が、自分の練習になるので良いと思っている。他校との練習試合をすることになって、一年の女子からは私と陽子ちゃんが選ばれた。うれしかった。私が片腕しかないので、試合前の練習で相手校の選手は集まって、私がどうやってテニスをするのか見ている。バックハンドを片手で返したら少し「おお」という感心する声が聴こえてきてなんだか照れくさい気持ち。ダブルスの試合に出てポイントは取れてジュースになる事もあったけど、1ゲームも取れずに負けてしった。やっぱりバックハンドボレーが弱く相手のチャンスボールになってしまうから。もっと上手くならないと試合に勝てないと思う。練習試合から帰る時、今度の休みの日に陽子ちゃんに誘われて一緒に映画を見に行く約束をする。約束した日に待ち合わせた駅に行ったら、テニス部のC先輩が陽子ちゃんと一緒に待っていた。私は陽子ちゃんしか来ないと思っていたのでとても驚いた。でもC先輩が一緒に来た理由を聞くことはしなかった。本当はとても聞きたかったけど。先輩が来ると聞いていなかったので少し腹が立ったのと、陽子ちゃんとC先輩が付き合っているのかなと思って、遠慮したから。部活以外で私は右手に義手をつけている事が多い。その日も義手を付けていた。義手を初めて見たC先輩は珍しそうに「普通の人と変わらないね」。私はC先輩がやさしくて思いやりがあると思っていたので、気を使ってそんなこと言わないと思っていたから少し傷ついたと思う。他の人からもよく言われることなので、よく言われますと普通の顔で返事をする。三人で電車に乗っている時に二人から付き合っているわけではないと言われる。C先輩と陽子ちゃんの家は近所だと教えられた。陽子ちゃんが、私と映画に行く事をC先輩に言ったら先輩も行くことになったのだと。映画はアメリカのアクション映画。男子のC先輩が見たいのもわかる。でも、その映画に私を誘ったのは陽子ちゃんだった。女子好みの映画でないので誘われたときは主役の人のファンなのかと思ったけれど。陽子ちゃんがC先輩の見たい映画に合わせていた気がする。だから二人はウソをついているんじゃないかと思った。二人で映画に行くと、知っている人に会ったらデートしていると思われるけど、私がいればデートではないことになるから。私は二人に利用されている気がして少し嫌な気持ちがしていた。でも、なぜか映画を見るときは私が二人の間の席に座ることに。どうしてそうなったのか分からないけど、もしかしたら、C先輩が私の事を好きなのかも、と少しだけ考えてしまう。でも、次の日から、そう考えるのは恥ずかしいしのとバカらしい気持ちになったので考えない。英語のK先生は、教科書の文章を読む時に、開いた教科書を手に持っているけど、まったく目を開けないで英語の文章を読む。教科書の英語の文章が、全部K先生の頭の中に入っているみたいでビックリ。K先生が目を閉じているのを見ていた私の前の男子二人が、ジェスチャーで合図して、席を入れかわるいたずらをする。でも、すぐにK先生がいたずらした男子の一人の名を呼んで続きを読ませる。その時もK先生は目をつむったままだった。目をつむったままで誰が動いたのかK先生は見抜いたみたいでまたビックリ。人間にはいろんな能力があるんだ。お前の弟は変な顔。私にはどんな能力があるのだろう。席を入れ替わるいたずらをして教科書の続き読むように言われた男子が上手く読めなくて笑われている。悪魔の子分みたいな顔。K先生が閉じていた目を開けて私を見ている。学級委員の私がちゃんとしていないから、男子が授業中にいたずらをしたと怒られているのかしら。姉のお前は悪魔女。ママにそのことを言うと「つばさの気にしすぎ」「先生が見ていたのはたまたまだよ」そうかな。

オジイが病気になった。悪い病気だから入院する事になる。オバアはちょっと元気がなくなったけど、やっぱり入院に必要なお金の心配をしている。オジイのお見舞いに行くととても喜んでいた。いっしょに家に住んでいていつも顔を見ているのに。病気になって入院した病院で会うと違う。家にいるオジイの口はタバコとお酒のにおいで臭かった。けど、病院では違うにおいで口が臭かった。悪い病気になったらするにおいがあるとオバアが言っていた。帰る時は、すごくさびしそうに「また来て」と言っていた。ママが一番オジイの病院に行っていたので、家の仕事が残ってしまう。それで、オバアと私が、家の事をいつもより多くすることになる。部活で疲れて帰った時、ママがいなくて家の事が残っているとイライラする事もある。学校でE君が先生を殴る事件があった。それで先生が集まっていたところに行ったら「学級委員は関係ないから来ないでいい」と言われた。そうなのかな。部活に行くと他の女子からC先輩と陽子ちゃんが付き合っていると聞いた。なんだ、やっぱりそうかと思う。先輩も陽子ちゃん人気者だからお似合いだと、みんなは言っている。でもそういっていたのに、キャプテンの方がカッコいいと言っている子もいる。私にはわからない。一緒に映画を見た事を思い出して、なんだかバカらしい気持ちがする。その日、練習試合をしたけど変なミスばかり。陽子ちゃんとはしゃべらなかった。オジイが病院から帰ってくる。やせていたけどうれしそう。「やっぱり家がいい」オジイは帰ってきたけど、いつも寝てばかり。たまに起きていてもぼんやりしている。病院の人が時々来ているのを見た。でも、オジイはその人と楽しそうに話しているだけ。病気を治しに来ているんじゃない感じ。F君が久しぶりに登校してきた。けれど、教室にはあまり来ない。別の部屋の先生の所にいることが多い。F君とクラスの事は学級委員の私が連絡係。A先生はF君の事はとても気にしている。でも先生は、IさんがJさんたちから無視されていることは知らない。IさんにそれとなくJさん達とどんな感じか聞いてみたら、すごく反発された。「学級委員には関係ないから入ってこないで」それ以上何も言えなくなった。オバアの会社に行く。ドンブリちゃんが行方不明。一か月くらいご飯を食べに来ない。オバアは、雄だから雌を探して冒険の旅に出たのだと言っている。会社の人が、オバアと私の会話を聞いていて、「あの猫、廃品回収のパッカー車に食われたかもな」と怖い冗談を言ったからオバアにすごく怒られていた。

夢を見た。私はビンの中に閉じ込められて、川の底に沈んでいる。川の水はどんどん流れて、目の前を家族や友達やいろんな人が私の前を通り過ぎる。ビンの中で私は叫んでいるけど、誰も私に気が付かないで去って行った。とても怖い夢。

オジイが死んでしまった。「延命はしないでいい」と言っていたそう。全身に悪い病気が広がっていたから死んでしまった。人が死ぬとみんなが忙しい。葬儀屋さんが来る。お通夜やお葬式の準備。その間に泣いたり、笑ったり。オジイが死んで、私は不思議で変な気持ちがする。生きていた人が死んだのを、初めて身近に経験したからだと思う。オジイはオバアより10歳年上。私は働いているオジイのことは知らない。パチンコで勝ったらお小遣いをくれる。他にオジイの思い出は、お酒を飲んで楽しそうに笑っていたり、オバアに言い訳をしていたり、怒っているのに照れくさそうな顔だったこと。最後は火葬場で骨だけに。悪い病気が広がっていたから、骨がスカスカだとオバアが言っている。火葬場の人がスカスカの骨を、ガシガシ音を立てながら細かくバラバラにする。その後、みんなで順番に、骨を箸でつまんで白いツボに入れる。オジイの体が無くなってしまった。私も死んだら焼かれて体が無くなると考えると、すごく怖い。オバアが新しいラケットを買ってくれた。オジイの保険金が出たからだそう。「ありがとう」の言葉をオジイに言えばよいのかオバアに言えばよいのかよくわからない。「新しいラケットはおじいさんだと思って使いなさい」パパが自分のお父さんを使って受けをねらうために、つまらないことを言う。生理になった。学校にいる時に来ちゃったけど、ママが準備して持たしてくれていたのと、最初は、どんな感じかDちゃんに聞いていたから、大丈夫だった。オバアのお祝い金計画はママに止めてもらう。オジイの写真の前に、お赤飯が供えられて変な感じ。昔は生理になると「あかふじょう」と言われて、女の人は血が出ている期間は小屋に閉じ込められていたとパパが言っている。いらない情報。三学期の学級委員はLさんになった。引き継ぎをする。Lさんは違うグループの人だったので、あまりしゃべったことがなかった。話をしたらすごく明るくておもしろい子。学校内のいろんな事を知っている。誰と誰が付きあっていて、どこまで進んでいるとか、何でも知っている。私の知らない先生が不倫をしている話とか。誰が誰の事好きかとか。体育館の前でLさんと話していたら、知らない先輩がLさんに声をかけてくる。すごく顔が広い。あんまり何でも知っているので、なんだか警戒してしまう。オバアは「これからは女も人生の目標をもって生きなあかん」と言う。みんな目標持っているよと思うけど。それに中学生はまだ目標じゃなくて、夢を持つじゃないのかなと考える。目標と夢は同じなのかな。数学のテストの点数が悪かった。オバアは勉強ができた方が将来得になると言っている。オバアが費用を出すから、塾に行くことに。塾の男の先生はすぐに肩に手を置くし、なにか甘い匂いがする。甘い匂いはとても強い。寄ってきて肩を触られた方の空気が、濃くて重たい気がする。数学が嫌いになるかも。熟のお金をオバアに出してもらっているので、辞めたいとは言いにくい。LさんがDちゃんの事を聞いてきた。Dちゃんを紹介してほしい先輩がいるそう。Dちゃんは小学校からの友達。中学生になってすごくかわいくなった。Dちゃんに聞いてみたけどよく知らない先輩と会うのは、少し怖いと言っている。Lさんにそう伝えた。Lさんは不機嫌そうな顔で聞いていた。次の日、Lさんにもう一度Dちゃんに一度先輩と会うだけでも会ってくれないか、聞いてほしいと言われる。Dちゃんはお寺の子。小学校の時はよく遊びに行った。片腕がない私にも分け隔てなく接してくれる。片手で手を合わせられなくても心の中で合わせれば大丈夫と教えてくれた。両手を合わせても、心の中で合わせられない人は、本当は手を合わせていないと教えてくれた。とてもまじめ。それに、少し人見知りのところもある。知らない先輩とは会いたくないと思うけど。生まれた時に死んでいたらよかったのに。私はDちゃんには、何度言っても同じだと思ったので、自分で決めてLさんにやっぱり無理みたいだと伝える。Lさんはとても困った様子。先輩になんて言ったらいいのかわからないと困っている。でも、やっぱり無理だと思う。右手を使いなさい。Lさんの機嫌が悪い。先輩がかわいそうだと言う。私のせいだと。Lさんにとっては、先輩がかわいそうなのがダメなことで、その原因が私。私は罰を受けなければならない人。そんなのうそ。嫌がらせをされるのかな。身体障害者はいじめられない。いじめてはいけないから。Lさんのグループからは無視される。私は気にしない。けれどDちゃんが心配。Lさんが紹介したかった先輩を、私は部活に行く前に見かけた。ニキビだらけの坊主頭の人。バレーボール部の背の大きな人。女子を紹介しないからって、怒るような人には見えないけど。私にはどうしようもない。LINEでの悪口。女子の嫌がらせは見えないようにして、いきなりやって来る。私は、弱みを見せない。でも、相談するとしたら誰にしたらいいのだろう。「昨日の映画見た?」「チャーリーとチョコレート工場!」「同じ顔の小さい人がいっぱい。笑える!」「遺伝でみんな同じ顔」「誰かの弟が大集合!」私の方を見てニヤニヤしている人がいる。たたく。たたかれる。たたく。たたく。たたかれる。たたく。たたかれる。たたかれる。たたく。朝、学校に来たら、上靴に土とダンゴ虫がいっぱい入っていた。誰にも見つからないように、土をこぼさないようにして一足ずつ上靴を外に持ち出す。校庭で上靴の土を捨てると、白い地面に落ちた黒い土の小さな山から、ダンゴムシたちがゆっくり逃げ出していく。Lさんが男子にやらせたのだと思う。上靴をきれいにしても、足の裏に土が残っている感覚がする。教室にいると気持ちが押しつぶされそう。部活だけが自分の時間。陽子ちゃんとダブルスを組んでいる時だけが、すべてを忘れて集中できる。二人が連携してポイントを取る。二人そろって、ガッツポーズ。リップを使うと唇に激痛がはしる。くちびるから血がポタポタ落ちてくる。すごく痛くて涙がでる。リップを見たら中に針が入っていた。痛いのと悔しいのとで涙がたくさん流れた。学校が怖い。誰も信用できないところ。ママが無理して行かなくてもいいと言ってくれた。珍しくオバアからLINEが来ていた「悪口は全部ウソで出来とる。悪口を言う人は全員ウソつきなんや」A先生が来ていろんな話をしたけど、ちゃんと聞けなかった。何を言っていたのか全然、憶えていない。Dちゃんが授業のノートを持って来てくれた。授業の進み具合を教えてくれる。そして笑顔で優しい言葉をかけてくれた。前より少しふっくらしていて、とてもかわいい。自分が嫌になる。私は日焼けして棒のような足と細い身体。それに右腕が途中までしかない。成長したら義手も新しくしないといけない。心も新しくしないといけないのかも。怖くてこのまま学校にいけなくなくなるかもしれない。不安が私の心にべったり貼り付いていている。

ママと病院に行く。心の病院。カウンセラーの先生に会う。カウンセラーは女の人。私の秘密を暴く人かも。私の隠したものを見つける人かも。私の不安を聞いてくれる。敵なのか味方なのかまだわからない人。私の話をなんでも聞くと言ってくれた。でも秘密の話はまだしない。意地悪な気持ちの自分がいる。意地悪は、もちろん自分を守るため。木の絵を描く。左手で描いた。下手くそな汚い木の絵。絵の事は何も言われなかった。にじんだ怪物のような絵を見せられた。その絵が怪物に見えるにはどんな意味があるのだろう。終業式には出ないことになった。カウンセリングは週に一回。心を調べるテストと受けてからは何もしなくなった。先生と同じ部屋に居てもスマホの動画を見たり、マンガを読んだりしているだけ。話したくなったら話をする。塾は不登校になってから言っていない。学校の知り合いに会うのが怖かったから。オバアがお金を出すから、オンラインで勉強を教えてもらうことになった。オバアは女こそ教育が大事だと言っている。勉強のためならいつもお金を出してくれる。その話をカウンセリングの先生にしたら、オバアの事が好きだと言っていた。会った事無いのに。それから、いろんな話をするようになった。二年生に進級。まだ、学校には行けないけれど、クラス分けで嫌な人たちがいないことが大事。「ウソをつかないで」と言われた。私はウソをついている。それも自分にウソをついているのだと、指摘される。学校に行けなくなったのは、私が自分にウソをついているから。無視とか嫌がらせを受けたのは私のウソのせいなのかな。誰の悪口も行っていないのに、ウソつき。でも、そんなこと言われても今まで生きて何がホントの事なのか、みんなわかっているのかな。弟の事を聞かれた。答えられない。「弟さんとは仲良くできているのかな」私の弟です「たかしくん」タカシ。タカシはダウン症です「お母さんに聞いていますよ」いつも母と一緒にいます「ケンカするの」しません「たかしくんはどんな弟」母とばかりいてあまりわからない「たかしくんの話はまた今度にしましょう」行きたくない。どこにも行きたくない。二年生になって初めて登校する。Lさん達とは違うクラス分けだったのでホッとする。担任は女の先生。歳はお母さんと同じ位のM先生。国語の先生。最初はまだ別室への登校。昼休みに元気づけるため話をしに来てくれた。久しぶりにテニス部のみんなの顔を見に行く。部活での日焼けが消えて、肌が白くなっている私を見て、みんなから「美白かよ」と突っ込み。みんなで笑う。私も久しぶりに笑う。陽子ちゃんが前より大きく見える。本当は腕の無い障害者は陽子ちゃん。私は自分が陽子ちゃんになったらと思い込ませていた。なぜそんなことをしていたのかは、分からないけど。その時は、その方がなんだか落ち着いて過ごせた。初めて陽子ちゃんが同じ場所で壁打ちをしているのを見た時、すごいと思ったのがきっかけ。陽子ちゃんは左腕が途中までしかない。でも、誰にも負けない強い人。「左腕がないのからすごく人前に出るのが嫌だった。だけど、絶対負けたくなかった」明るくて人気者。でも陽子ちゃんはズルいと思う。腕がないのは、かわいそうだけど、顔がかわいいし頭もよくて人気者。障害が有っても、それをバネにして乗り越える力がある人。自分の人生を自分で生きていける。家族と意見が違っても自分を主張できる人。でも、ダウン症の障害者タカシは違う。ダウン症の顔で家族の誰とも全然似ていない。小さくて吊り上がった目。平べったい顔。頭もよくないし、一人では生きていけない。本当の自分の事がよくわかっていないし、タカシに意見なんてない。たまに、わがままな気持ちをみんなにぶつけるだけ。タカシの心は大人にならない。タカシは自分で、できないことが多いから家族の負担がいっぱい。そして私はダウン症の弟のお姉さん。同じ血が流れている。みんながそう思っている。授業で自由と平等の話が出てくるのが一番嫌い。タカシは自由も平等の事も一生知らないし、わからない。何のために生きているのだろうか。怒りで体の芯が熱くなる。カウンセラーの先生はタカシの事をよく聞いてくる。相談を聞いてくれるつもりでも、結局は他人のお話。「ダウン症の遺伝子って強い特徴がるから」「でも知的レベルはダウン症でも個人差があるから、大きくなってからでないとわからないところもあるでしょう。ダウン症でも大学に行く人もいるみたいですよ」「ご家族の負担は確かに大変だと思います」「そうね。たかし君は自分の気持ちを上手に伝える事は難しいでしょうね。でもあなたがそのことをわかっているのは、とても大切なことよ」「それはそうかも‥‥仕方がないですね」「それはその通りです。つばささんの言う通り。申し訳ないと思います」「残念だけれど、ほかの人たちに理解されない事は多いでしょう。私には気の毒に思うとしか言えないけれど、あなたにはあなたの大事な人生があることを忘れないでほしい」私は過去の事を思い出さないといけない。それは、ずっと前の過去の事じゃなくて、今から少し前の事から順番通りに思い出すことが必要。

夏休みが終わって、朝から教室に行く。もう別室登校はしない。陽子ちゃんの様な強い人になりたいから。しんどい時もあるけど。教室では目立たない様にしている。知り合いになって憎むなら知り合いにならない方がいい。でも家族は選べない。オバアと一緒にカウンセラーの所に行く。「中学はまだ川の途中や。狭い川の途中やから回りが見えにくいんや。つばさも、もっと大きくなったら、広い海に出るから回りがたくさん見えるようになる。心配するな」オバアのカウンセリング。海の方が広いので、心配なことが多いと思うけど。「学校に行けているからもうそろそろここも卒業ですね」「気になることがあったら、いつでも遊びに来てください」「弟さんはあなたの心を成長させてくれます」笑顔で私を見ている。良いことと悪い事の数は数えない。良いこと悪い事の大きさが違うから。私がDちゃんと陽子ちゃんに出会ったのは良い事。タカシがダウン症なのは、タカシにも私にも悪い事。知的障害者として生きることは、『ろう屋』に閉じ込められているのに、そのことを知らないで死ぬまですごすみたいだと思う。そんな怖い考えが頭からはなれない。お前が子供を産んだらどんな子供。私が結婚して子供を産んだら、ダウン症の子供ができるのかもしれない。ダウン症の人間を増やして生きて行く。生理が来ると前より、気持ちが不安定な気がする。休み時間に、女子みんなが集まっていると、クラスでお笑い担当のⅯ君が、寄ってきて鼻をつまみながら「血の匂いがする」と騒いでいる。それで、M君の事は女子みんなで無視することになった。それでもM君はバカみたいに、休み時間になると面白いことを言おうとしている。みんな、自分の役割を必死で守っているみたい。私が不登校になったから、その間ママは大変だったと思う。ママにはタカシに付いていないといけないことが沢山あるから。もう不登校にはならない。学校にも部活にも休まずに行っている。部活の後、陽子ちゃんと話をした。その時、陽子ちゃんは左手に義手をつけていた。「つばさが私のリップに針を入れたの」私はポロポロ泣いてしまった。私はウソつきで悪い人間。針を入れた理由は聞かれなかった。陽子ちゃんはリップを使う前に、針が刺してあることに気が付いたから、怪我はしなかった。陽子ちゃんに部活は辞めたらダメと言われた。それでまた何も言えないでポロポロ泣いてしまった。陽子ちゃんはやっぱりとても強い人。私は、それでも陽子ちゃんは少しずるいと思った。陽子ちゃんは障害を乗り越える気持ちを持つことができる。タカシは自分が障害者だと自覚することもできない。自分に障害あることがわからないから、乗り越える気持ちなんてわからない。陽子ちゃんは顔もきれいで人と違う。タカシの顔はダウン症の顔。オバアはタカシを「おもろい子や」と言っているけれど。教室には行けるようになったし、部活も休んでいない。数学はやっぱり苦手。体育祭。部活対抗リレーで陽子ちゃんとリレーメンバーになった。陸上部に負けたけど、片腕の陽子ちゃんとバトンリレーが上手くできたのが思い出。あと、フォークダンスで男子と手をつないだこと。自殺した子がいるとみんなが騒いでいる「誰が死んだの」「女子?男子?」「何年生?」「何組の子」「誰に聞いたの」「なぜ死んだの」「どうやって死んだの」「一人で死んだの」「みんな生きているのに死ぬなんて、なんだか、かっこ悪いね」私は死んだのが一年の時のF君がIさんかもしれないと思って心配になったけど、違うみたい。でも誰かが自殺したのは本当。知らない人が死んだとわかると、心配する気持ちが少なくなっていった。Lさんなら、だれが自殺したか知っているはず。顔が広いから。そしてLさんのところに死んだのは誰か、みんな聞きに行く。いろんな事が気になって眠れなかった。布団の中で、じっとしていたらママとパパの言い合う声が聞こえてきた。そんなのを聞くのは私には初めて。すごくドキドキする。静かになってからも眠れない。もしかしたら、パパとママは離婚するのかもと極端な想像をしてしまう。そしたら、ママと私とタカシの三人家族になって、パパはオバアと二人家族に分かれるのかな。遅くまでいろんなことを想像して知らない間に眠っていた。眠い朝。タカシが先に起きて泣いていた。パパとママがケンカしたので不安になったのかもしれない。学校に行ったら、自殺したのは一年生の女の子らしいと聞こえてきた。みんな色々言っている。みんなの話は誰が言っても同じ。会話が一つの塊になるから、誰が言ったか事なのかわからなくなる。学校のあちこちで、うわさ話の塊が風船みたいにふくらんでいる。でも、しばらくすると風船はしぼんで教室や廊下のスミに捨てられている。新しいうわさ話が始まるまで捨てられていて、風船を踏んでも誰も気が付かない。しぼんで汚れた風船。  

晩ご飯を食べたあと、パパが中東で戦争している国のドキュメンタリーを見ていた。配信映画。イスラム教の国の人たち。私が見る中東の人たちは戦争の中で生きている人ばかり。パパにそう言うと石油が出てですごいお金持ちの人もいるから、結婚したら大金持ちになれるって言っている。パパは不真面目だったり、真面目過ぎたりする。男の人はいつも丁度いい感じにならないと思う。女子とは違うところを見せたいのかもしれない。女子同士ならもっと寄り添って話をするのに。ドキュメンタリー映画の中で、爆撃で死んでしまった男の子が病院に運ばれてきた。男の子の顔がホコリで真っ白になっていた。死んでいるけど、目の下だけ涙でホコリが無くなってきれいに肌が見えている。映画の中で本当の命が亡くなっていた。男の子は私と同い年くらいかも。黒い服を着た、死んだ男の子の小さなお母さんが現れる。病院の人に止められても、死んだ男の子を抱きかかえて帰って行く。中学二年生の女子が見る映画じゃないと思うけど。パパはビールを飲みながら見ていた。見終わった後、私にいろいろ言っていたけど、酔っているからまとまりがない。結局、何を言いたかったのかさっぱりわからない。パパとママはやっぱりなんか変な感じ。なんだか二人とも元気がない。お風呂に入って久しぶりにママに洗った髪を乾かしてもらった。ママから話があるから乾かしてくれた。ママに髪を乾かしてもらうのは、私の大好きなこと。で、もその時はママから何か怖いことを言われそうで怖かった。ママが悪い病気にかかったから入院しないといけない。悪い病気なのだと聞いた。すごく悪い病気は小さいから大丈夫だと言ってたけど、オジイを思い出す。ママがオジイみたいに死んでしまうと思うと、それは、私の人生で一番怖い事。話を聞いてのどから胸まで石が詰まったみたいに重くなった。そして胸の石がつぶれてバラバラになる。身体がどこにあるのか分からないような気持になる。泣きながら寝てしまったけど、その間の事を憶えていない。朝起きたら、昨日の事を少し思い出した。嫌だ、嫌だと頭の中で繰り返していた。朝起きても、身体はバラバラのまま。学校には行けない。オバアが起こしに来た。ママの悪い病気はまだすごく小さいから、すぐ治ると言っている。オジイが病気で死んでしまった後、みんなで健康診断を受けた。そしたら、ママだけが病気が見つかった。オジイのおかげで見つかった。オジイが護ってくれたのだ。だから、心配しないで学校に行けと言う。オバアが大丈夫、ママの病気は治ると聞いて少し落ち着いた。学校へ行ったけど、ママの悪い病気の事ばかり考えてしまう。もしママがいなくなったらと考えてしまう。考えると怖くて、のどが詰まってうまく息ができなくなる。オバアには怒られそうだけど、ずっと保健室ですごした。ママがいない世界を想像したくないのに、その事ばかり思い浮かべてしまう。ママがいなくなるという事は、私の一番大事な人がいなくなる事。自分の大事な心の中を聞いてもらえる人がいなくなる事。残ったタカシと私で二人の世界をつくらないといけない。パパとオバアは仕事があるので、タカシの面倒をみて、タカシの人生を考えるのは私。今まではママにまかせっきり。ママには絶対に病気を治してもらわないといけない。それからママの負担を減らさないといけない。タカシの面倒は私が見る。高校はどうしようかと考える。定時制高校なら昼間はタカシを世話する時間ができると思うけど。部活を辞めないといけないことは嫌だ。誰に相談したらいいのかわからない。本当に相談できるのはママしかいないから。ママはタカシの事は自分がするから、つばさが心配する必要ないと言うに決まっている。頭の中で考えても何も決まらない。病院で手術して悪い病気を取るために、ママは入院することになった。その後も、薬で病気が再発しないようにしなければならない。手術の日はママの応援をするから、みんな病院に行く事に。手術はテニスの試合と同じような気がしたけど、ママは絶対に勝たないといけない試合。もちろんパパもオバアも仕事を休んで応援。タカシも一緒。オジイと同じ病院。やっぱりテニスじゃない。負けたら死ぬ試合なんか絶対だめ。手術の前、みんなでママを見送る。ママはタカシを笑顔で見つめて手を振る。それから、みんなに手を振って手術の部屋に入っていく。待合室でパパがウロウロして落ち着きがない。立ったり座ったり。違う家族が入ってきた。女の人が泣いているみたい。ハンカチを目に当てている。タカシが泣いている女の人のことを心配して、トコトコ歩いて近づいて行く。ママなら、タカシが知らない人の所へ行くのを止めたはず。私はタカシを止めようとしたけど、間に合わなかった。女の人は小さいタカシを来たので笑顔で答えようとした。けど、寄って来た子供がダウン症だとすぐわかったみたい。女の人の笑顔が一瞬固まったのを、私は見逃さない。その後、タカシにありがとうと言っていたけど。私は女の人に頭を下げて、タカシを連れ戻した。私は女の人の反応をいちいち気にする自分に「それがどうしたの」と伝えたくなった。でも自分から私に返事はなかった。長い時間が過ぎて手術が終わったママが病室に戻ってきた。すごくつらそう。私達を見る笑顔も無理している。それでも少ししてから「つばさとタカシがいるからママはすぐ元気になるから」と言ってくれた。でもその後、私に「つばさ、ママが帰るまでタカシを見てね」なんで。嫌だ。なんで私がタカシを見ないといけないのだろうと思ってしまった。初めて、タカシの事をママにお願いされたけど。前にした自分の決意と違う気持ち。自分の心がどこにあるのか分からなくなった。頭がおかしくなったのかもしれない。本当の自分の気持ちがどこにあるのかわからない。何もかも不公平。ママが病気になる前、タカシのことはママが全部見ていた。パパとオバアと私はなんにもしてない。ママが病気になったら今度は私。学校のみんなはダウン症の家族はいないし、そのせいで、からかわれることはない。他のママはみんな元気。タカシが生まれたから、私はみんなと違って自分の未来を想像する事ができない。仕事をしたり、結婚したり、赤ちゃんを産んだりする自分の未来を。でもママを助けると決めたのは方が、ちゃんとした私。そうしないといけない。手術の先生がママの様子を見に来た。一緒に来た看護師のお姉さんがタカシにカワイイねと言って出て行った。優しい人なのか偽善者なのか。大人の人がタカシを見たら、優しい人か偽善者になる。私がタカシに優しくしたら偽善者なのかしら。家族が家族の偽善者になるなんておかしな事。


今日は、私がタカシを障害者支援の保育施設に連れて行く日。ママが入院してから、パパかオバアがタカシを施設に連れて行っていたけど、今日はオバアとパパは忙しくて、朝から仕事に行かないといけないから。ママが行く時は自動車にタカシを乗せて行っていた。パパと行く時も自動車。オバアと行く時はバスに乗っていく。私もバスに乗って連れて行くはずだったけど。施設に電話して、タカシはお休みすると連絡する。学校には前の日に遅れて行く事と先生に伝えているけれど、電話して頭が痛いから今日は一日休むと伝える。M君が生理で休むのだと言うにきまっている。M君の女子から無視される期間は延長。私は、なんでこんなことしているのだろうか。昨日、お風呂に入っている時に思いついたこと。寝る時に決心したこと。どうやったらいいかを考えていたこと。タカシが着替えて大人しくテレビを見ながら待っている。タカシには施設は、お休みでママの病院に行くと言ってある。

「タカシ、ママの病院に行こうか」

「いこう」

パパが仕事で、車で行けないから電車に乗っていくと言ってある。タカシと手をつないで駅まで歩いて行く。私は白いブラウスに紺のワンピース。タカシはデニム風のストレッチパンツとグレーのトレーナー。それと、おそろいの白いチューリップハット。オバアが買ってくれたチューリップハット。チューリップハットを深くかぶると、タカシの顔が目立たない。周りの目を気にしないで済む。オバアは、そのことを考えて買ったのかな。

青い空のすごくいいお天気。でも、太陽はどこにも見えない。

「いい天気だね」

「いいてんき」

生まれ変わって自分の片腕が無いのと、ダウン症になっているのと選ぶのなら、みんなダウン症は嫌だと思う。右腕がないのなら努力するけど、ダウン症で生まれたら、努力が何かも分からない。私が欲しかったのは、タカシみたいな障害者のいない安全な家族。私とタカシは不幸な人生に取りつかれて、逃げる道はない。

駅まで10分歩いたけど、タカシは疲れていない。元気。ママと一緒によく散歩していたからかも。切符を買って駅に入る。持ってきた水筒の麦茶をタカシに飲ませる。タカシはすごく慎重にゆっくり飲む。そのあと、多目的トイレに二人で一緒に入る。タカシは上手にオシッコできた。ホームで電車を待つ。少し遅い朝だから、ホームにいる人は少しだけ。小さい男の子と中学生くらいの女子がいるのは、変な時間だと思われないかしら。ママの入院している病院は大きいから、誰かに何をしていているのかと聞かれたら、二人でその病院に行くと言えば大丈夫。ホントは病院には行かないけど。私の計画は違うから。

「タカシ、ママにおみやげ持っていこうか」

「もっていこう」

「きれいな貝がら持っていこうよ」

「かいがら」

「海に取りに行こうか」

「うみにいくの」

「そうだよ」

「わかった」

タカシが小さい時に、家族で海水浴に行った事を思い出す。あの時は、小さい車だった。タカシはまだ赤ちゃんで、ママがずっと抱っこしていた。海ならタカシを遠くへ連れて行ってくれるかもしれない。私も一緒に連れて行ってくれるかもしれない。電車に乗った。海に近い駅は病院のある駅より先にある。海に行くには駅からたくさん歩かないといけない。タカシがどれだけ歩けるかわからない。わたしは部活で走っているから大丈夫だけど。気が重くなってきた。行く海には海水浴場はなくて、堤防があって魚釣りをする海。走る電車の窓から知らない人の家をぼんやり見ていた。私は自分が本当は何をしたいか、わかっていない。タカシを海に連れて行って、私は何したいか自分でちゃんとわかっていない。でも、私は怖いことをしようとしている。それを思うとすごく緊張して、体の中が固くなる。将来オバアもパパもママもいなくなった未来を考えると、辛いことばかり思い浮かんでしまう。身体障害の人は障害を乗り越えて、がんばる先に自分が考える夢がある。回りの人も真剣に応援してくれる。タカシにはがんばる意味も夢もない。がんばるのは家族。そして回りの人の温かい目でみてくれる。でもその温かい目は、作り物。何もわかっていない他の人は、本当は嫌な人だと思うと腹が立ってきた。腹が立ったら気持ちが落ち着いてきた。電車が病院に行く駅に着いてもそのまま、降りないで乗っていたら、また、気が重くなってきた。

昨日から何回も、堤防から海にタカシが落ちて行く姿が頭に浮かぶ。足の先からタカシが真っすぐ海にボチャンと落ちて、ゆらゆら海に沈んでゆくのを見ている私。そして、私も続いてボチャンと飛び込んでゆらゆら海に沈んでゆく。

タカシと二人で出かけるのは、すごく久しぶりの事。新しい車が来てから、パパとママとタカシでいろんな所に出かけて思いで作りをしていた。私は部活があるから一緒に行けないのでオバアと二人で留守番する事が多かった。オジイも生きていたけどパチンコばか行っているか、ら家にはあまりいなかった。パパとママは幼いタカシとの思いで作りをしていたのだと思う。ダウン症の子供は病気になりやすい身体だから、元気な時にいろんなところに連れて行きたいのだと思う。

私も小学5年生の時までタカシと二人で散歩したり、Dちゃんと遊んだりしていた。ある日、タカシと公園にいた時に同級生の男子たちが寄ってきた。

「つばさの弟?似てないな。へんな顔」

「ダウン症の病気だよ。ダウン症になるとみんなおんなじ顔になるんだよ」

「へんな病気」

それから私はタカシと出かけることをしなくなった。タカシと出かけなくなった理由を聞かれない様に、宿題が沢山あるとか、試験勉強があるとか友達と遊ぶと言い訳した。タカシを見たくなくて、部屋から出ないようにしていた。

6年生になるとラケットを買ってもらったので、テニスの壁打ちばかりしていた。或る日、先に壁打ちをしている女の子がいた。それが陽子ちゃんだった。

タカシが赤ちゃんの時は、学校から帰るとずっとタカシといっしょにいた。いつも私が抱っこしていた。その時、私はダウン症の事なんか何にも知らなかった。

タカシが生まれた時、病院のベッドにいるのを見て、すごくワクワクしたことを憶えている。家にタカシが来るのがすごく待ち遠しかった。

タカシがママのお腹にいる時は、私はママのお腹をなでるのと、耳を当ててタカシの出す音を聴くのが大好きだった。そして、お姉ちゃんになるのがとても楽しみだった。

でも本当はその時から私とタカシには見えない不幸が絡みついていた。その時から、タカシは自分一人では生きていけないことが決まっていた。ママもパパも教えてくれなかった。ママもパパも私の本当の気持ちは知らない。カウンセリングの先生に言ったことは知らない。ママやパパ、オバアやDちゃんが知ったら、私のことをどう思うのだろう。ママは私に「タカシを見てね」なんて絶対言わない。時間は戻らないけど。

電車の中から、次々と見えて来る景色にタカシは夢中。もし、私とタカシが死んでしまったら、ママはタカシを抱いて家に帰って行く。残された私は目の周りが涙で濡らしたまま置いてきぼり。

海に近い駅に着いた。何もない駅。駅前にはバス停の看板。バスが来るのは、一時間以上先。タクシー乗り場もあるけど。タクシーは一台もいない。その先にジャリを敷きつめた駐車場が有る。その真ん中に、枝も葉っぱもあまりない木が一本だけ植えてある。

「くるまは」

「歩いて行くよ」

砂利の上でタカシはとても歩きにくそう。

「大丈夫」

「がたがた」

雲が出ていないので日陰がない。そんなに暑くないけど。タカシがどれだけ歩けるか不安になる。スマホに表示された道順を見ながら方向を確かめて海へ行く道を歩き始める。つぎはぎだらけのアスファルトの道。海までの到着時間は徒歩であと38分と出ている。スマホの道順を見ても景色はわからない。スマホの向きと自分たちが歩いている方向が一致しているのか自信がない。標識を見つけたら方向があっているのかいちいち確認しないといけない。ウロウロとしながら歩くタカシにとっては丁度良い速さかもしれない。ガードレールの内側の狭い歩道をゆっくり進んでいく。歩道の反対側は雑木林。しばらく行くとガードレールが切れて雑木林の間の土地に古い家が出てきた。家の前は雑草だらけの庭。雑草の中に自動車が止まっている。不気味な家。その家の方から猫の声が聞こえてきた。

「ねこ」

「猫だ」

家の前で止まって見たら、車の上、玄関の前、そこら中に沢山の猫がいる。みんな陽当たりの良い場所を選んでのんびり座っている。自動車の屋根には、オバアの会社にいたドンブリちゃんに似たブチの猫がいる。写真を撮ってオバアに見せようと思いついた。知らない家に入るのは怖いけど、誰もいないような気がして少しずつ庭の中に入って行っていく。子猫の小さいかわいい声がたくさん聞こえてくる。玄関の前で子猫が走り回っていた。2匹の子猫がケンカしながら遊んでいる。

「子猫がいる」

「こねこだよ」

私は子猫が見たくなってもっと知らない家の庭の中へ入っていく。その家に人がいるとは全く考えなかった。

「おらーだれだー」

男の人のすごい怒鳴り声。玄関の扉が開いて、作業服を着たヒゲだらけの背の高い男の人が出てきた。左手に餌のお皿、右手にとんがった刃物みたいな物を握りしめている。アイスピックみたいな感じの刃物。私たちの方を起こった怖い顔でにらんでいる。足がすくむ。全然動けない。男の人が一歩、私たちの方に踏み出す。

「ねこになにしたぁー」

「見てただけです」

「こわい」

タカシの声で私は動けるようになった。タカシを引っぱって猫の家から出て行く。すごくドキドキしている。怖くて振り返ることもできない。しばらく何も考えないで歩いていた。ドキドキが収まってから、スマホで今いる場所を調べる。道は外れていないみたい。その後、いくつか道を選んで進むと広い道路の前に出た。自動車がスピードを出していっぱい通り過ぎていく。この道を反対側に渡らないと海にいけないみたい。タカシを置いて私が反対側に渡れば、タカシが慌てて追いかけてくるかも。そしたらタカシは自動車に引かれてしまうんだろう。道路で血だらけになって倒れているタカシが見えるよう。怖いことを想像したけど、なんだか他人の人生みたいに自分の事を考えている。でも、自分の人生。タカシが目の前で自動車にひかれて死んでしまったら、それは私のせい。私はきっと心がこわれて頭が変になるだけ。想像通りの人生なんてないかもしれないけれど。そうなったら心がこわれてしまうのは、想像通りになると思う。大きなトラックが目の前を通り過ぎていく。すごい振動とすごい音がする。どなり声で怒られているみたい。私は、しばらく動けないでタカシの手を握りしめていた。

「ここどこ」

タカシに聞かれる。

「向こう側に渡らないといけないの」

信号も横断歩道も見当たらない。しばらく歩いているとタカシが私を呼び止める。

「おねえちゃん。みて。とったよ」

タカシが指先で大きなカマキリをつかんで、こちらに向けている。カマキリは私の方を向いて、細い手足をうねうね動かしている。

「ヒィ」「タカシ捨てて」

「なんで」

「いいから捨てて」

「いやだ」「ママにあげる」

「ママ、カマキリいらないよ」「かわいそうだから」

「かわいそう」

「そうよ」

「いやだ」

「早く!」

「わかった」

なんでタカシは虫を怖がらないのだろう。保育施設で虫に触っていたのかもしれないと思う。タカシはしゃがんで、歩道の反対側の植え込みの中に大事そうにカマキリを戻した。

スマホの道順案内の線が先に行くと反対側に渡るようになっている。そのまま歩いて行くと、前の方に歩道橋がある。見たことない、すごく大きな歩道橋。歩道橋で道路を横断するんだ。階段の角度がゆるくて自転車でも渡れるようになっている。緑の塗装があちこち取れて錆びた鉄が見えている。タカシと手をつないで、幅が広くて長い階段を上る。足元を確認しながらゆっくり上る。歩道橋の上に出ると遠くまで見渡せた。国道の先に海が見える。道路の先が下り坂で、走って行く車が、そのまま海に吸い込まれるみたいに見える。遠くで海の表面がキラキラ銀色に光っている。遠くだけど、とてもキラキラしていてまぶしい。ここからはすごく遠い海。まだ半分も来ていないと思う。

「タカシ海が見えるよ」

タカシはしゃがんだままで、海を見ようとしない。

「こわい」「こわい こわい たかい おりる」

虫は大丈夫だけど高いところは怖いんだ。

タカシの手を取ってゆっくり歩道橋を渡って降りる。

「おなかすいた」

タカシに言われて私もお腹がすいていると思う。まだお昼前だけど。

「お腹すいたね。帰ろうか」

海へ行くのは無理だと思う。

「なにたべるの」

「焼きそば食べよう」

「やきそば」

インスタントだけど。

駅に戻るためには、さっき渡った歩道橋を戻らないといけない。

「戻るよ」

「いや」

「家帰れないよ」

「いやだ」「こわい」

タカシ歩道橋の方には戻らない。断固として動かない。戻ったら猫の家の怖い人がいるし。

でも、戻らないと駅に戻れない。今度、思い浮かんだのは、二人ともはねられて死んでしまうこと。歩道橋を渡らないで、二人手をつないで広い道路を走って渡る。二人でたくさんの車にひかれてしまう。死んだのが子供二人で小さいから棺桶は一つ。一緒に火葬。まだ変なことを想像してしまう。前にクラスの女子が自殺した子の事を「みんなが生きているのに死ぬなんてかっこ悪い」と言っていたことを思い出した。そしたら気持ちが大爆発。かっこ悪いんじゃなくて死んだら損。損だと思ったのはオバアの影響。

「そんや!」

「そん」

麦茶を二人で飲む。

スマホの地図で駅まで行く別の道順を探す。行けるみたい。線路沿いの道まで出れば来た時と反対の出入口に着く。

「違う道が有ったよ。行こうか」

「やきそば」

スマホの地図を頼りにして、来た時と違う道で駅に向かわないといけない。大きな道を進むと遠回りになる。町の中を斜めに進めば線路沿いの道に出て、その道が駅に着く道。広い道からわき道に入ると広い空き地がある。雀や鳩がたくさん集まって、地面の何かを一生懸命ついばんでいる。私たちが前を通ると、びっくりした雀たちが大急ぎで逃げ出す。その後、誰もいない広い公園の前を通り過ぎて、住宅街の中の道になる。タカシは知らない家をきょろきょろ見ている。止まってからタカシの手を離してスマホで道を確認していたら、私の足にしがみついてきた。

「ここどこ」

「知らない町。駅に行くところ」

さっき気持ちが爆発したと思ったけれど、爆発が治まると気持ちが沈んでいく。

タカシを足からはがす。家があるけど誰も外にいない。そんな時間なのかな。みんなが死んだような町。私たち二人しかいない世界みたいだ。突然、犬が近くで吠える。他の犬がそれに答えて吠え出した。大きい犬の低くて太い声や、小さい犬の甲高い声の大合唱。それに混じって人間の赤ちゃんの泣き声も聞こえてきた。家の中から、犬を叱る声がする。少しずつ犬の鳴き声がしぼんでしまう。私とタカシ二人は、動物たちだけが気がつく、お化けみたいな人間になった。お花がいっぱいの大きな家の前を通ったら、中から見えない犬が鎖をガチャガチャ引っ張る音と「ガルガル」と鳴く声が聞こえてきた。タカシを引っ張って速足で犬の鳴く町を通り過ぎた。

「おこってるね」

「うん」

怒っていたのかな?二人のお化けにおびえていたのかもしれないと思う。

分かれ道。方向を調べる。スマホの電池残量がほとんど無くなっていた。今ごろ気がついた。しまった。大体の方向で住宅街を進む。道路の工事をしているところがある。警備員のおじさんが見張りで立っている。身体が細くて、すごく日焼けをしている人。他の人はみんな自分の仕事に集中している。おじさんに駅への行き方を聞けば、教えてくれるかも。

「こんにちは」

「こんにちは」

「こんにちは」

「駅に行きたいんです。どう行けばいいですか」

「駅?車に乗せてもらって来たからなぁ。駅なぁ。車で来た時、あっちの方に線路があったと思うけど」と赤い棒で方向を示してくれた。

「ありがとうございます」

「ありがとう」

どうしよう。今の話は信用できるかしら。知らない人のあやふやな言葉。でもしかたがない。警備員さんが示した方向の道を進む。しばらく行くと三つに分かれた道に出る。こんな道、地図にあったかしら。スクリーンショットを撮っておけばよかった。電池が切れたら一緒か。スマホを見たらやっぱり電池が切れていた。スマホがもう使えないことが確定。すごくドキドキしてきた。ちゃんと帰れないかもしれない。真ん中の道を進んだ。先へ行くと三つの道は先で一つになっていた。どの道でも同じだった。住宅街を抜けたら目の前に大きな道路。この道を渡ればその先に線路があるような気がする。どこから渡ろう。あまり自動車は通っていないけど、タカシと走って渡ると二人で死んでしまう想像が、現実になってしまうかもしれない。死ぬことは近くにある。タカシは死ぬことが何なのか知らないけど私は知っている。オバアやパパは知っていたけど忘れている。オジイが死んで思い出して、ママが病気になって慌てている。私には全部始めての事だから忘れない。大きな道路の前でしばらく立ち止まって右に行くか左に行くか迷う。住宅街でいろいろなところで曲がって方向が分からなくなってしまった。

「ここどこ」

目の前を大きなリムジンバスが左から右に通り過ぎた。外を眺めていた人が、みんな私とタカシに気付いて、こちらを見おろす。タカシの手を引っ張って道路に飛び出す。続いて来るリムジンバスの2号車が、私とタカシをはね飛ばして、私たちは死んでしまう。血だらけの子供二人を前にして、楽しいバスの旅行は中止。やっぱり、変なことを想像してしまう。なんの根拠もないけど、バスが向かったのと同じ方に進む事にする。しばらく行くと地下道があった。地下道の前で、男の人が電子タバコを吸いながらスマホを見ている。

「すいません、この下を通ると駅に行きますか?」

「・・・・・・・・」

男の人はイヤフォンをしていて、音楽を聞いている。私の声が聞こえないみたい。私が見ているのに気がついて、あっちに行けと、電子タバコを持った方の手をひらひらさせた。タカシと地下道に下りる。コンクリートで固められた地下道。真ん中が階段で両端が斜面になっていて自転車も通れるようになっている。自転車なんて1台も見ていないけど。壁と天井はツルツルに塗られたクリーム色。通路の両側に蛍光灯が並んでいる。長い地下道はとても静か。何かの底の、その下にいるみたい。麦茶を二人で飲む。麦茶はもうほとんど空だ。誰もいないまっすぐな道をタカシと二人で歩いていると、なんだか違う世界へ向かっている気がしてくる。地下道の真ん中に銀色の缶ビールの空き缶が置いてある。たしか、オジイがよく飲んでいたのと同じビールだ。周りにタバコの吸い殻がたくさん落ちている。反対側の階段を上がって外に上がるとなんだか変なにおいがする。歩道に立つと道路側に植え込み。その反対側は金網のフェンス。植え込みには元の植物の他に長い草や固い枝の雑草がいっぱい生えている。フェンスの向こうは何かの工場。工場の金網フェンスの内側には沢山のキョウチクトウが植えてある。とがった濃い緑の、葉っぱが沢山歩道にはみ出して、歩道にいる私たちより、高いところにまで生えている。枯れて、色が落ちた赤い花が茶色くなってしぼんでいる。他に、知らないツタみたいな植物が金網に絡みついている。歩道の植え込みと頭の上でくっつきそう。毒の葉っぱのトンネルをくぐり抜けるみたいすごく不気味。キョウチクトウには毒があるとオバアに教わった。変なにおいは、工場の薬品と色々な草とキョウチクトウの毒が混ざった恐ろしいにおいだと思う。不安になるし、気分が悪くなってきた。

「ここどこ」

「くさいから、息すったらだめ」

「わかった」

毒の植物のトンネルを通り抜けたけど、道が本当に合っているのかまだわからない。ずっと変なところばかり歩いている。気持ちが焦ってくる。不安が塊になって胸に詰まってくる。タカシの手を引っ張って歩いていると怖くて涙が出できそう。やっぱりタカシは歩くのが遅い。タカシの顔を見ると何も考えていない顔。イライラして、タカシをたたきたくなるのをガマンする。キョウチクトウが無くなって、金網の向こうに工場の建物が見える。でも働いている人は見えない。薬と油の強いにおいがする。工場から時々何かが、ぶつかる音が響いて来る。何の工場かしら。歩道にある植え込みにレジ袋に入れたゴミが、あちらこちらに捨ててある。本当に道は合っているかな。二人でトボトボと進む。電車が線路を走る音が聞こえた。工場を過ぎて線路沿いの道に出た。薬品と油のにおいが消えて、サビのにおいがしてきた。線路は金網フェンスの中だけどすごく近くて、私の頭の高さくらいでの土手の上。雑草がいっぱい。後ろの方から線路を走る列車の音が聞こえてきた。機関車に引かれた貨物列車がやって来る。目の前の線路を、大きな車輪でガタンガタン叩きながら通りすぎて行く。こんなに大きなものが、近くをすごい勢いで通り過ぎるのを見るのは初めて。オバアの会社のパッカー車よりずっと大きい。どこまでも続く貨物列車。四角い箱や何かのタンクとか、何も乗っていない台車なんかが延々と続いてく。タカシも帽子を取って貨物列車を見上げている。びっくりした顔で固まっている。耳がガンガンするけど、私も長い貨物列車が通り過ぎるまで、動けないで立っていた。その間タカシと手を強く握っていた。貨物列車が通り過ぎた。タカシの頭は汗でぬれている。私のハンカチで拭いてあげる。タカシの帽子は私が持って歩いた。

「ながい」

「うん。すごく長かった」

体の大きな女の人が、自転車を止めてスマホを見ている。

「ここどこ」

「すいません。駅はあっちで合っていますか」

「え?駅。駅はこのまま真っすぐ行けば駅よ」

「ありがとうございます」

「ありがとう」

ホッとして気持ちが落ち着いてきた。

やっと駅が見えてきた。心に出来ていた不安の塊が消えて、体が軽くなる。駅前に着いて、タカシのズボンの前が、おしっこ染みができているのに気づく。タカシも不安で怖かったんだ。

「ごめんね」

「おなかへった」

やっと駅に帰ってきた。来た時とは反対側。途中の住宅街より、古い家がポツンポツンと立っている。その中の一軒がお店をしている。コンビニとは違う。お店にいたのは、花柄の黄色いワンピースを着て白いエプロンをしたおばあさん。お茶とおにぎりを二人分買う。

「二人だけなの?どこから来たの?」「どこへ行くの?」

「母が入院している病院へ行きます」

「そう。気をつけてね」

「はい」

「はい」

急にママの事が心配になってきた。私は自分勝手な人間だから。

電車が来るまでの間、駅のベンチで座って買ったおにぎりを二人で食べる。

「ゆっくり食べるのよ」

「うん」

カラス鳴き声がした。電柱に止まって、おにぎりを食べる私たちを見ている。とても大きなカラス。

電車が来た。電車に驚いたのか、カラスが飛んでいった。

電車に乗って、ホッとした気持がジワジワ身体中に広がっていく。他にお客さんは少しだけ。タカシのズボンがおしっこでくさくないか心配になって、においを嗅いでみる。大丈夫、くさくない。

タカシは疲れていて、電車の振動が気持ちよかったから、すやすや寝てしまった。安心して私にもたれかかっている。私は、陽子ちゃんとC先輩と一緒に電車に乗って映画を見に行ったことを思い出していた。その後、私が考えていたのは、大きくなった高志は、今日、私と一緒に歩いた事を、どんなふうに憶えていて、いつか思い出すのかしらということ。


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