村
枝を払う音が、まだ耳に残っている。
切り落とされなかった枝が、頭上で擦れて鳴った。
男が振り向く。
「おれはトキワってもんだが」
額の汗を腕で拭う。
「あんたは?」
少し考える。
喉の奥に、母の声が残っている。
――麦。
口を開く。
「……オオナ」
「オオナか」
うなずく。
「よし」
何がよしかは分からない。
「村、近いんだ。来なよ」
もう歩き出している。
枝を踏む音。
ひとりで喋り続ける。
「さっきの熊な、あんなの初めて見たわ」
「この辺じゃ出ねえんだよ、あんなでかいの」
「まぁ、助かった。ほんと助かった」
返事を待っていない。
言葉だけが前を歩いていく。
オオナは、少し遅れてついていった。
⸻
開けた場所に出る。
畑。
低い家。
かまどの煙が、細く空へ伸びている。
土の匂い。
遠くで、人の声。
ありふれて見えた景色。
知らない景色。
⸻
「おーい、帰ったぞー」
家の奥から声。
「早かったのね」
女が顔を出す。
やわらかい目。
「ユイと申します」
軽く頭を下げた。
トキワが横から割り込む。
「この兄ちゃんすげーんだよ。熊ひっくり返してよ」
「はいはい」
「飯だ、飯」
「そんなすぐできませんよ」
トキワが振り返る。
「そのへん、ふらっとしてていいぞ」
ユイがこちらに小さく会釈する。
それから、笑って台所へ戻った。
戸口に、ひとり残された。
⸻
風。
葉擦れ。
その奥で、鈴。
音だけが、先にあった。
足が、そちらへ向いた。
⸻
白い布が揺れている。
人がゆるく集まっている。
中央で、巫女が舞っていた。
静かな足運び。
袖が流れる。
ひとり、動きが整っている。
もうひとりは、少し雑だ。
裾を踏みかけて、笑っている。
「スズちゃん、こっち!」
呼ばれた巫女が、もう桶を抱えて走っている。
水を運び、布を渡し、誰かに指示している。
さっきの人だ。
もう一人。
静かな方。
汗を拭っている。
視線が、ふと重なった気がした。
それだけ。
⸻
家に戻る。
湯気。
匂い。
膳が並んでいる。
椀を左手で持つ。
口をつける。
置く。
左手の箸だけ動かす。
右手は、膝の上。
トキワが向かいで喋っている。
「どっから来たんだ」
「その服、変わってんな」
「まあいいか、食え食え」
止まらない。
⸻
戸が開く。
さっきの巫女が立っている。
目が合う。
「娘のヒナスクだ」
トキワが言う。
「こっちはオオナ。すげーんだよこの兄ちゃん」
また始まる。
ヒナスクは小さく頭を下げただけだった。
向かいに座る。
二口、三口。
⸻
戸を叩く音。
「うちの子が、熱出しちまって」
ヒナスクが立つ。
手を拭う。
「……行きますね」
すぐ外へ出る。
⸻
戻る。
二口、三口。
⸻
また戸を叩く音。
「うちの婆さんが、足捻っちまってよ」
「はい」
また出ていく。
⸻
「いつもああなんですか」
気づけば聞いていた。
ユイが手を止める。
「昔から、ああいう子で」
少し笑う。
「……冷めちゃいますよ」
それ以上は言わない。
鍋の音だけが続く。
⸻
夜。
虫の声。
火が小さくなる。
ヒナスクは、まだ戻らない。
トキワはもう寝ている。
ユイは静かに片付けている。
皿の触れる音。
たらいの水が、静かに揺れる。
梁。
低い天井。
横になる。
右手だけが、重い。
目を閉じる。
鈴の音が、まだ耳の奥に残っていた。




