右腕
チャイムが鳴る。
椅子の脚がいっせいに床を擦る。
笑い声。
鞄のファスナーの音。
教室の空気だけが先に帰り支度を始めている。
麦はまだ席に座っていた。
黒板の端。欠けたチョークの粉。
それを見ている。
「なあ」
背中に声が落ちる。
「その手、ほんと気持ちわりぃな」
振り向かない。
「おい、大那!聞いてんのかよ」
肩を小突かれる。
椅子の脚が浮く。
視界が傾く。
手が出ない。
顔から床に落ちた。
鈍い音。
遅れて痛み。
笑い声。
右手は胸の前に引きつったまま。
指が揃わない。
縮れた皮膚。
盛り上がった痕。
油の匂い。
白い湯気。
台所。
ひっくり返る鍋。
泣き声。
熱。
あの日から、形は変わらない。
⸻
玄関の灯り。
「おかえり」
母の声。
顔を見るなり、目元が少しだけ曇る。
「……麦……また……転んだの?」
「なんでもない」
短く答える。
母はうなずいて、
「……そっか」
それ以上、聞かなかった。
その「そっか」だけが、耳に残る。
⸻
翌朝。
うつむいたまま歩く。
信号の色を見ていない。
ブレーキの音。
白い光。
体が浮く。
空が遠い。
母さん。
ごめんなさい。
暗闇。
その奥に、細い光が差した。
⸻
………
音がない。
重さもない。
どこかで、ひとつ息を吸う音がした。
それが、自分の肺だと気づく。
………
⸻
………
匂いが、先にあった。
湿った土と、青い草の匂い。
肺がひやりとする。
目を開ける。
枝葉の隙間から光が落ち、地面に細かい影が揺れている。
葉の擦れる音。
遠くで水の音。
知らない空。
背中に土。
制服の袖に泥。
体を起こす。
息が軽い。
胸の奥の重さが、きれいに消えている。
立ち上がる。
ふらつかない。
足の裏に冷たい感触。
裸足だった。
小石を踏んでも、痛みが浅い。
見慣れた紺色のブレザーだけが、草の色の中に残っている。
⸻
細い踏み跡が奥へ続いている。
そのまま歩く。
枝が袖に触れ、裾が濡れる。
布の擦れる音だけが後ろについてくる。
やがて、乾いた音が混じる。
規則的に、木を打つ音。
⸻
男が木に登っている。
枝を払っているらしい。
紐で留めた上着。草履。
時代劇の中の人のような。
男がこちらを見て、何か叫ぶ。
大きく手を振っている。
その視線の先。
木々の間に、黒い影。
幹と並ぶ高さ。
毛の抜けた背。
前足が持ち上がる。
影が落ちる。
右腕。
爪が、めり込んで止まっている。
払う。
巨体が横倒しになり、地面が鈍く揺れる。
低い唸り声。
それきり、森の奥へ消えた。
⸻
音が途切れる。
葉の擦れる音が、ゆっくり戻ってくる。
⸻
枝を踏む音。
男が駆け寄ってくる。
「おい、あんた……大丈夫か」
荒い息。
「今の……見たか。でかい熊だったな」
しばらく黙り、
「……あんなの、初めて見た」
麦は右腕を見る。
縮れた皮膚。
盛り上がった痕。
前と変わらない右腕。
男の声はまだ続いている。
視線だけが、そこから離れなかった。
⸻
風が抜ける。
木々がわずかに鳴る。
知らない山の匂い。
ここがどこなのか、まだ分からない。
ただ、右腕の感触だけが、はっきりとしていた。




