同じ夢に堕ちるまで
目を閉じれば、あの人が現れる。
それはいつも夜で、夢の中だけだった。
閉めたはずの寝室の窓辺を開け放ち、腰掛けて佇む彼。
月を見上げ、何かに想いを巡らせているその横顔。
目にかかるほどの前髪と、月明かりが落とす影に遮られて、表情ははっきりとは見えない。
そして私は、彼に近づくことができない。
「ねぇ……」
布団の中から、今日も彼の姿を確かめるように小さく声をかけた。
けれど、話しかけても彼は何も答えない。いつものことだと分かってはいるけれど、返事がないと少しだけ不貞腐れてしまう。
「どうして、いつもここにいるの」
何度も問いかけてきた言葉。
答えが返ってこないことも分かっているのに、それでも知りたくて、今日も口にする。
「……」
「毎日こうして勝手に私の夢に出てくるのに、理由は教えてくれないなんて、変じゃない?」
霞んだ視界の向こうで、彼がこちらを向いた――気がした。
思わず布団から身を起こし、目を凝らす。
高い鼻筋と、綺麗な唇の形。
初めて、はっきりと彼の顔を見た。
窓に切り取られた夜空を背景に、彼の姿だけが浮かび上がる。
そのあまりの美しさに、言葉を失う。
これは、私の中の幻想。
ただの夢。目が覚めれば、彼はいない。そんなこと、頭では分かっている。
それでも――
この光景が現実であってほしい。もっと近くで、彼を見てみたい。
そう思った瞬間、私は無意識のうちに布団から体を起こしていた。
「動くな」
低く、静かで、それでも鋭い声。
その一言で、体が凍りついた。
起き上がったことで、彼の姿はより鮮明に見える。
この世のものとは思えないほど、妖艶な存在感を放っていた。
「……今、話して」
初めて聞いた彼の声は、不思議と耳に馴染み、溶けるように広がった。
たったそれだけで、胸の奥が満たされていく。
「これ以上近づいたら……夢が、夢じゃなくなる」
掠れた声が部屋に染み渡る。
まるで、私たちだけが世界から切り離されたみたいだった。
胸が高鳴る一方で、進んでしまえばこの夢が消えてしまうような、底知れない恐怖が押し寄せる。
ふわり、と空気が揺れた。
彼が窓辺から立ち上がり、視線を逸らさぬままこちらへ歩いてくる。
「ま、待って……」
思わず布団を握りしめる。
薄闇に慣れた目が、前髪の隙間から覗く彼の瞳を捉えた。
「近づいちゃ、だめなんじゃないの……?」
ベッドのそばで立ち止まった彼は、何も答えない。
静寂の数秒。
言ってはいけないことを口にしてしまったのかと、後悔しかけたそのとき――彼が動いた。
さらに、私の近くへ。
「ちょ……」
後ずさる私を追い詰めるように、彼はベッドの端に腰を下ろした。
夜に溶けるような、甘く切ない香り。
その距離に、心臓が強く疼く。
「……俺は、忘れられたくない」
「え……?」
彼がこちらを向き、手を伸ばす。
顎に添えられ、思わず彼の瞳を見つめ返した。
暗く、深い――海の底のような瞳。
「失いたくない。君を」
重く響く声に、言葉を失う。
それでも、目だけは逸らせなかった。
「……忘れないよ。私も、一緒にいたい」
「その言葉、信じてもいいのか」
「当たり前でしょ。ずっと、夢の中で会ってきたじゃない」
眉を下げる彼が愛おしくて、自然と笑みがこぼれる。
胸の疼きは、甘さに変わっていた。
顎に添えられた指が、わずかに動く。
それを合図に、互いに顔を近づけた。
唇に、柔らかな感触。
彼が覆いかぶさり、私たちは強く抱き合った。
月明かりに映る影は、ひとつだけだった。
――――――
長い夢の中で、俺は今夜も彷徨っている。
唯一の居場所だった、彼女のもとを離れて。
自分の気持ちに従った瞬間、激しい後悔が押し寄せた。
分かっていた。最初から、分かっていたんだ。
地面を強く踏みしめながら歩く。
あの夜、彼女を抱き締めた瞬間に気づいた。
あれは幻想だったと。
せめて最後に、彼女の熱だけでも欲しかった。
だが、どれだけ腕を伸ばしても、触れられなかった。
掴んだのは、俺を嘲笑うような冷たい空気だけ。
もう二度と、彼女の夢には戻れない。
記憶にすら残らない。
夜の海のような闇の中で見ていた、彼女の寝息や寝顔が脳裏をよぎる。
毒だ。
愛おしい記憶は消えず、体中に染みついて離れない。
それでも――
「……あたたかかったな」
触れられなかった唇も、肌も、息も。
確かに、あたたかかった。
中途半端な月が、雲に隠れる。
「ねぇ」
鼓動が止まった。
心臓を貫かれたような感覚に、思わず振り返る。
聞き間違えるはずがない声。
「なんで、ここに……」
誰もいるはずのない場所に、彼女が立っていた。
「"同じ存在"だから、かな」
そう言って微笑んだ彼女の意味を理解した瞬間、俺の意識は闇に落ちた。




