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か:card of ZERO

――戦いは終わった。

 彼にはもう、手持ちはない。




 彼は田中を信じていた。

 大抵の局面に於いて、田中の意見は正しい。

 膨大な知識から下される冷静な判断、ストイック且つ貪欲に勝利を求める姿勢。

 いつだって、彼は田中を信じてきた。

 世間の考えの大多数が田中と意見を異にしても。

 彼は田中を信じ続けた。




 裏付けされた実績。

 信頼に足る血統。

 経験豊富にして熟練技の、手綱を引く者。

 田中が前面で熱弁を振るった。

 世間の期待も田中の見込みと同じ。

 彼は追い詰められていた。

 なけなしの金を握り締める。

 頼むぞ、田中!!

 彼は田中に全てを託した。




「家賃の滞納がねえ、もう三ヶ月目なんですわ」

 大家は不遜に言い放った。

 彼は俯いた嫁を見た。表情を髪の毛に隠した嫁の腕の中で、十ヶ月の赤ん坊が泣き始めた。

 あやす事もしない嫁は、だが強く拳を握り締めていて、筋の浮いたその細さに彼は愕然とした。

 一ヶ月づつでもどうにか払える様に努力します、必死で大家に頭を下げ、説得した。大家が帰った後、それ迄頑なに押し黙っていた嫁が、泣き喚く赤ん坊も放ったらかしに呟いた。

「私だって、必死にやりくりしてるわよ。でも足りないのよ、生活費。当然でしょう。あんな給料で毎日あんな豪華な食事、家計を圧迫しない訳がないじゃない。誰のせいよ」

 ――そんなにも痩せた体。毎日ビールを五本飲み、幾種類ものアテをちまちまつまみながら長々と食事を続ける自分、そう言えば……嫁は料理の合間に赤ん坊にご飯を食べさせ、自分は漬物を載せた白飯に茶をかけたもの一つで済ましていた様な……。

 私食が細いの、それにこの子の世話で疲れて欲しくなくなるのよ。その言い分を彼は信じてきたが、もしかしてそれは単なる家計の為の我慢でしかなかったのか?

 痩せ細った体、首元も裾もヨレヨレのみすぼらしい位の衣服。何より疲れきった表情。

 彼は涙ながらに嫁と泣きじゃくる子供を抱き締め、自らの食生活を悔い改める事を固く誓ったのだった。




 嫁に腹いっぱいの食事をさせてあげたい。部屋が溢れる程の買い物を楽しんで貰いたい。

 着飾って、昔の様に化粧をして、何より笑って貰いたい。いつもの髪で目元の隠れた、暗い無表情はもうさせたくない。

 彼は強くそう思った。嫁に恩返しをしたい。その為の資金。

 彼の信じる田中が、揺るぎない自信を語った。

 彼には田中しか信じる者がいなかった。




 モニターを食い入る様に見つめる。

 誰もが息を呑む。

 白熱する展開。

 彼は小さな紙きれを大事に胸元に押し当てる。

 〝上位伯仲〟

 田中も、テレビの中の誰かもそう告げた。

 妥当な人気順。

 賭ける金額が大きい程、戻りは増える。

 貰ったばかりの給料、全額。

 硬い試合だからこそ挑んだ、一世一代の大勝負。

 徐々に結果を見せる最終カーブ。

 予想通りに一歩前に抜ける一頭。

「おっと、シゲルスダチ落馬!!」

 見ていた皆が軽く騒めいた。

 更に熱い視線がモニターに注がれる。

「二番手アルフレード、更にはオリービン、クラレントなど二番手大接戦!!」

 肝心の二番人気が伸びない、会場に不審と不安の空気が流れる。

 一着は確定している、映像と実況に彼を始め全員が息を呑んだ。

「逃げた逃げた、五番カレンブラックヒル!! 逃げ切ってゴールイン!!」

 ただし、もつれた二位以下の順位。

 審議です、とスタジオのナレーターの声。

 〝最終直線で六番の進路が狭くなった件で……〟

 どんな審議がなされようと。

 二番人気のマウントシャスタは、見た所五着。

 負けを悟った人達の手から馬券は宙に放たれ、集まった人達は罵倒の言葉と共にモニター前から去って行った。

 全財産をなくして、彼はその場にへたり込む。

 やがて審議の末に確定した順位が発表されるのを、彼は朧ろに聞いていた。

 ――小牧は矢張り、万年三位男だった。脱け殻の頭でそんな事を思って。

 救いは。

 周りの殆どが、彼と同じに賭けに破れた哀しい男達である事。

 打ちのめされた彼に、そんな事が分かる筈もないが。




 ――また一人の男の人生が終わりを告げた。




「そう、今日も競馬場よ。どうせ負けんのに。もう別れよっかなあ、あんなダメ男」

 伸ばした手の先で綺麗に飾られていくネイルを見ながら、彼女の電話はまだ続く。

「どんだけ飯食うのよって感じ。……当たり前でしょ、作ってなんからんないわよ。全部惣菜よ、出来合いの。味なんか分かりゃしないって酔ってるから。嫌よね、醜く太ったブタは。夜に食べるから太るのよねー! あたし達みたいにランチでしっかり食べれば、夜はいらない位なのにねえ。かわいそうよねサラリーマンって」

 そこで彼女はげらげら笑う。振動に作業を中断させられ、ネイリストが隠せない嫌な顔をするが、当然彼女は気付かない。

「ねえ、今度さホテルのランチ行こうよ。三千円位でさ、美味しそうだったのよまたそれが!……えー、いいじゃんその後エステ行けばー。だって最近便利じゃない、子供みてくれるとこ多いからさ。今もさ、ネイルしてもらってんだけどさ、ここも赤ちゃん預かりしてくれんの。ねっ? お世話になってまあす」

 電話の合間に軽く話し掛けてくる彼女に、貼り付けた笑顔でネイリストは会釈を返す。

「でもこないださあ、おしゃれしてるの旦那のおかあさんに見られちゃってさあ。ヤバいヤバい! 普段貧乏くさいかっこしてるから、足しにしなさいってかげでお金もらってんのに、疑われたらもらえなくなっちゃうわよ。だからさ、これからはちょっと遠出しないとさ……」




注)スポーツ報知の田中記者は予想を滅多に外しません。また筆者は「万年三位男」の小牧太騎手を三着率の高さから純粋に尊敬しております。

更に、作中の5月6日の第17回NHKマイルカップに対する記述は、仕事にて実際を見ておりませんので後付けの情報による想像です。もしも間違いがありましても、鼻で笑って流して下さい。

実在の人物名と馬名をお借りしました事、この場でお詫びと感謝に変えさせて頂きます。

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