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魔王の娘、敵国で商売を始める ~欠陥兵器の少女が綴る、優しき支配の物語~ 【旧題:勇者の修行場】  作者: 琴坂伊織
第二章 綻ぶ薔薇 忍び寄る棘

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静かなる戦いの始まり




 意識が浮上すると同時に、右の二の腕に鈍い痺れを感じた。重たい瞼を持ち上げると、右腕が視界の半分を塞いでいた。


 どうやら昨晩は、腕を枕にして右側を向いたまま気絶するように眠ってしまったらしい。じんじんと痺れる右腕を無理やり引き抜き、布団の上で小さく呻いた。


「ズズッ、ズズズ……」


 痺れが引くのをボーっとして待っていると、場違いなほど間の抜けた水音が、鼓膜を震わせた。視線を流せば、闇を固めたかのような漆黒の騎士が鎮座している。


 鳥の頭部を模した兜の、その精巧な「くちばし」の先端から、一本のストローが突き出ている。彼は微動だにせず、管を通して熱い緑茶を吸い上げていた。


 火傷すら恐れぬその所作は、茶の湯の儀式か、あるいは何らかの拷問か。


「……兜を外せばいいのに」


 起きて早々シュールかつインパクトのあるシチュエーションに遭遇してしまった。部屋にあるものは好きに使っていいと言ったが、こんな使い方をするとは思っていなかった。


 まるで親鳥から餌をもらう雛のように、懸命にストローに吸い付いている。


 私の呆れ声に気づいた騎士がゆっくりとストローから口を離し、湯気の立つカップをテーブルへと安置した。


 怒られるのだろうか。私が身構えた瞬間、彼は闇のようなマントの裏へと手を伸ばし、白い紙束……スケッチブックを抜き放った。


 その所作は、まるで聖騎士が宣誓書を掲げるかのように厳かだった。だが、突きつけられたページに記されていたのは、達筆な墨文字で書かれた、たった二文字の言葉。




『 や だ 』




 拒絶。圧倒的かつ、理不尽な拒絶だった。


「ええ……」


 二度と人を死なせないと誓い、ありったけの魔力を費やして創造したというのに、果たして大丈夫なのだろうか?


「まぁ、愛嬌があっていい……のかな?」


 緑茶スケッチブックマンは、再び熱々の緑茶を嚥下する。もちろん、こんなふざけた名前で呼ぶわけにもいかない。なにがいいかなと考え始める。


「ノワール……シャドー……」


 昨夜初めて目にしたときは、そんな名前が思いついたけれど、こんなコメディの塊のような生物には絶対に向いていない。


「……クロ。あなたの名前はクロ。どうかな?」


 暫定クロは片腕で緑茶を持ったまま、スケッチブックのページをめくる。そこには『それだ!』と書かれている。……いつ書いたのだろう。


「えと、じゃあ、よろしくね」


 返答の代わりに、「チュゥゥ……」という音が帰ってきた。




 私は苦笑いを浮かべると、ダンジョン1階層へと意識を飛ばす。空がオレンジ色に染まり始めていて、人っ子一人いない。どうやら夕方まで眠り続けていたらしい。


 花畑に沈む道の上で、ルディがトタン君たちと追いかけっこをしている。


 ぽよんと可愛らしい音を鳴らしてトタン君に飛び掛かるが、当たり前のように避けられている。それでも飽きずに追いかけ続けていて、楽しそうだ。


「寝る前に着替えたから、大丈夫だよね?」


 行商人との戦いで負った傷はポーションで治している。昨日死にかけたことはルディにはバレていないはずだ。不安を抱きながらも、1階層との接続を切る。




 唐突に、あの騎士の死に様が蘇った。行商人を血祭りにあげ、恋人の名を呼んで首を断った。


 彼の傷口から溢れた血が、私の頬を伝って流れ落ちた感触は、今も消えない。


 ざわり、と肌が粟立ち、カチリと歯を鳴らして息を呑む。あんなおぞましい感触は、もう二度と味わいたくない。


「……クロ。今の状況を教えて」


 強張った肩の力を抜くように、吐息混じりの言葉が吐き出された。クロはくちばしの隙間からストローを抜くと、『了解』と書かれたページを開いた。


「えっと、ダンジョンにはしばらく誰も来ない。……理由は深夜に起きた事件。ダンジョンを守るために大勢の騎士や侯爵家お抱えの冒険者が駐在している、と」


 紙の繊維の奥から、漆黒のインクが滲み出してくる。


「ということは、ユーマも来れないか」


 ただ、蒼天の刃はこれまで通り週1でダンジョンを訪れ、魔力を貢いでくれるらしい。クロの創造でコアが空っぽになってしまったから、非常に助かる。


 現状を確認できたところで、これからのことに思いを馳せる。


 魔晶石によってアストラル王国を依存させる案は決して悪くはないが、エステル聖王国から補給される限り、敵を潤しているだけだ。


 聖王国から魔晶石を輸入できなくなって初めて、アストラル王国が私のダンジョンに依存する。


「クロ。アストラル王国と聖王国の国境地帯、貿易路を塞ぐように現れたダンジョンがある。そこの様子を探りに行ってほしい」


 お願いをすると、クロの外套が水面のように波打った。その裾から零れ落ちるようにして、一羽、また一羽と烏が飛び出す。


 あたかもそこが幻影であるかのように、音もなく壁をすり抜けていった。


 あのダンジョンが強力であればあるほど、2国間の貿易が難しくなる。当然攻略対象にもなるだろうから、そのときは私も防衛に協力するつもりだ。




 ……ヴェルナ、うまくやれてるかな。




「それから、サテラの市場調査もお願い。ポーションとか、塩、鉄とかがいいな。交通の要衝であるサテラで軍需物資を牛耳ることができれば、いずれ起きる聖戦を止められる」


 クロは頷くと、再び烏が放たれる。


 魔晶石だけで依存を目指すのは弱い。商売を始めて、私という敵国の商人に依存させていく。……もちろん、ほとんどの市場は大商人に独占されているだろうが。


「幸い私には魔族の技術がある。人間が絶対に作れないものを作れる」


 同じ土俵で戦わなければ、私にだって勝機はあるはずだ。

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