白い糸のままで
「昨日の行商人……」
いつでも魔法を発動できるよう魔力を練り上げると、ベルトポーチから小瓶を引き抜いた。親指で蓋を押し開け、辛うじて生きている騎士に向かって中身をぶちまける。
バシャリ、と液体が鎧を濡らす音がした。
「優しいのですね」
抑揚のない声が私の鼓膜を揺らす。漆黒の短刀を濡らす鮮血が、月の光を浴びて艶めいていた。
「寝覚めが悪くなるからだよ。……悪いのは確定しているけど」
僅かに生気を取り戻した騎士は、泥と血にまみれた指を地面に突き立て、芋虫のように這い進む。動かぬ白銀の鎧へと。
「アイリス、アイリス、あぁ……ッ」
血の轍を引きずりながら、彼は冷たくなった女騎士の頬へ手を伸ばし、祈るようにその名を呼び続けていた。私の胸の奥を、鋭利な何かで抉られる感覚が襲う。
「助けないほうが幸せだったかもしれませんね」
「うるさい。お前がやったんだろ」
自分でも驚くほど低い声で、言葉の礫を浴びせかける。もう一度口を開こうとした、その瞬間。音もなく肉薄した行商人が、私の言葉ごと喉笛を喰いちぎらんと迫っていた。
魔法を準備していたことを忘れて、右手に握る『怠惰の鎖』をがむしゃらに振るう。行商人を離すことには成功したが、私は鎖分銅の扱い方など知らない。
「ぐぅっ!!」
遠心力に振り回され、一周して脇腹へと食い込む。鈍い衝撃と共に、肺の中の空気が強制的に吐き出された。
作り手が最初の被害者となり、『怠惰の鎖』の効能で無気力状態になる。腕をだらんと下げると、殺し合いの最中にも関わらず突っ立ったまま動けなくなる。
「……罠でしょうか?」
私の醜態をなにかの罠と勘違いしたのか、行商人は袖口から暗器を放つ。私は身を捻ることもなく、鈍い衝撃を受け入れる。
凶器は衣服を貫き、皮膚を裂き、肉に潜り込む。左肩の骨が軋むような鋭角な激痛に正気を取り戻し、脂汗を滲ませながら奥歯を噛み締めた。
「大、丈夫……」
痛みに霞む視界を無理やり上げ、行商人がいたはずの空間を見据える。視線を巡らせても、敵の影はすでに虚空へ溶けていた。
私を取り囲むのは、冷え冷えとした闇夜の森。月は雲に隠れ、耳が痛くなるほどの静寂が森全体を支配していた。
「アイリス……」
その静寂の中に、悲痛な声が溶けていく。
私が出血多量で倒れるのを待っているのか、行商人はいつまでたっても姿を現さない。脈打つたびに左肩から力が抜け落ちていき、拍動に合わせて鈍い痛みを主張する。
生殺しの時間が、傷口よりも深く精神を攻撃している。
「このままだと死ぬ。でも、下手に動けばカウンターを喰らう」
声には出さず、唇の動きだけで言葉を紡ぐ。
死が目前に迫った極限の状況下で、閃きは刹那に走った。……そうか、魔法なんて必要ない。ただ、魔力の塊をぶつければいい。
私の中に眠る計り知れない魔力を、爆発的に解放する。解き放たれたのは炎でも氷でもない、純粋な破壊の奔流だ。
属性を持たぬ透明なエネルギーが、美しい同心円を描いて水平に弾け飛ぶ。地に伏す騎士の髪をわずかに揺らす高さで展開された衝撃波は、立ち塞がる木々を無慈悲に両断し、森を更地へと変えた。
「なっ……」
能面のような顔に、初めて変化が起きる。跳躍して回避した行商人が驚愕の声を漏らしていた。
「ずっと、勘違いをしていた。白い糸はそのままでも美しい。染めなくたっていいんだ」
「……随分と力技ですね」
「魔道具を作るとき以外、細かい作業はできないみたい」
木々を根こそぎ吹き飛ばした。森にぽっかりと空いた巨大な穴。舞い上がる粉塵が月明かりを浴びて、銀色の霧のように揺らめいている。
そんな砂煙を切り裂くように、私の正面に立つ行商人が再び暗器を投げる。だが、そんなものは想定内だ。
凝縮された純粋な魔力の塊が唸りを上げて飛び出し、空中で暗器と衝突するや否や、それを飴細工のように粉々に砕き散らす。
「凄まじいですね」
砕けた刃の破片を巻き込んだ魔力弾が、行商人へと一直線に突き進む。行商人はそれをひらりと躱すと、滑るようにして私との距離を詰めた。
「秘策はまだあるよ」
閃きは1つだけではない。たどたどしく白い糸を染めると、なにもない空間から水が溢れてくる。その水が、『怠惰の鎖』を満遍なく濡らす。
行商人が私の懐へ入ろうとした瞬間、水で濡れた『怠惰の鎖』を全身を使って振り回す。行商人は当たり前のように距離を取るが、その顔に無数の水滴が降り注ぐ。
すると、『怠惰の鎖』の効能を吸収した水が、行商人のやる気を削いでいく。それは私も同様だ。互いに顔を濡らしながら、その場に立ち止まって動かなくなる。
数秒か、あるいは数時間か。
顎先を伝った雫が肌を滑り落ち、鎖骨の窪みへと消えていく。シャツがそれを迎え入れ、白い綿素材に吸い込まれていった。
未だ気怠さが残る中、唇を噛み締め、向かってどうにか魔力弾を放つ。反応が遅れた行商人は咄嗟に横へ跳ぼうとするが、その緩慢な動きでは間に合わなかった。
「うぐっ」
魔力弾が行商人の横腹に直撃する。被弾の衝撃に身体をのけぞらせ、鈍い音を立てて仰向けに倒れ伏した。
私は荒い呼吸を響かせながら、急いで行商人へと近づく。左肩から止めどなく熱いものが溢れ出ている。『怠惰の鎖』の持ち手を離し、起き上がろうとする行商人の体に落とす。
ドサリという音と共に、行商人が再び地面に倒れる。その胸には『怠惰の鎖』が乗っていて、体を動かすことなく呆けている。
「私の勝ちだよ」
張り詰めていた神経が弛緩し、泥のような疲労感が私を引きずり込む。夜の冷気に体が震える。寒い。異常なほどに寒い。おかしいな、と首を傾げた拍子に平衡感覚が消し飛んだ。
尻もちを打ってへたり込む。
震える指に鞭を打ち、ベルトポーチを開いて小瓶を取り出す。でも、左肩に深々と刺さった暗器を抜かない限りポーションが届かない。
「ぐ、う……ッ!」
叫び声を噛み殺すと、鮮血がドッと噴き出した。その傷口へ、蓋を飛ばしたポーションを叩きつけるように振りかけた。
「たくさん作っておいて良かった……」
傷口が無理やり塞がっていく不快な熱さに耐えていると、ガシャン、ガシャンと、硬質な金属音を伴った重い足音が近づいてくる。
そこに立っていたのは、あの騎士だった。足元には行商人が転がっている。瞳は氷のように冷たく、昏い憎しみを宿している。
切っ先を下げた剣を持つその手は、小刻みに震えていた。
「待って!」
私の制止など届かない。騎士は激情に任せて行商人に向かい剣を振り下ろす。辺りに血飛沫が舞う中、騎士は満足げに笑ったように見えた。
「これで、一緒だ」
最愛の名と共にそう言い残し、騎士は流れるような動作で自らの頸動脈を切り裂き、その場に崩れ落ちた。生温かい液体が私の頬にへばりつき、ゆっくりと垂れた。




