それは……
それは、白くて黒い。
それは、小さくて大きい。
それは、人のようで猛獣のよう。
そして、
それは……人を喰らう。
「ね? 面白そうでしょ?」
部室に入ってくるなり興奮気味に話す藤村涼子に、俺はちらりと視線を投げかけた。少しばかり顔をしかめていた自覚はある。そんな俺をよそに、副部長の里中衛は期待を多分に孕ませた声で言った。
「いいですね! 今回はそれで行きましょう」
「あは! 衛君ならそう言ってくれると思ったよ。みんなはどうかな?」
部長と副部長に見つめられ、他の部員たちもそれぞれ首を縦に振る。最後にうなずいたのは俺だった。
「場所もね、もう調べはついているんだ」
「さすが部長、仕事が早いですね」
「そりゃあね。オカルト情報を探し求めるのが、私の趣味みたいなものだもの」
そう言いながら、涼子はスマホを操作して俺たちに地図を見せてきた。
「廃墟、ですか?」
「意外に近いんですね。これなら日帰りで行けそう」
オカルト研究部唯一の一年生である矢地茉央と、同級生の二宮海斗が身を乗り出して涼子のスマホを見ている。話が進んで行くにつれて、俺以外の部員たちの意気も上がっていた。涼子が余計な一言を発するまでは。
「次の土曜日に行ってみない? 私、車出すから!」
空気が凍るというのはこういうことを言うのだろうか。こんなにも寒々とした空気感なのに、涼子は変わらずに満面の笑みを湛えている。涼子はリーダーシップもあり、後輩にも慕われるよい部長だ。だが、時折空気が読めないことがある。
「藤村先輩」
俺は、おもむろに挙手した。
「ん? なあに? 潤君?」
「そんなに急いで行くこともないじゃないですか。そこに辿り着くまでの時間も楽しみましょうよ。自転車で二時間ぐらい走れば着くみたいですし」
俺の言葉に、他の部員たちは盛大にこくこくとうなずいている。無理もない。涼子は、つい数日前に車の免許を取ったばかりなのだから。
どこか腑に落ちない表情をしていた涼子だが、みんなが口々に「自転車で行きましょう!」と言うので、渋々それに従うかたちになった。
「ところで、今回のネタはどこからの情報ですか?」
俺たちは二列になって自転車をこいでいる。前から、涼子と里中、俺と矢地、俺の後ろには二宮が続いている。
前を走る涼子と里中の会話が聞こえてきた。
「いつも通り、ネット情報だよ」
「え? でも、昨日の夜に検索してみましたが、部長が話していたようなネタは見当たりませんでしたよ?」
「ええ? だって、みんなで一緒にグーグルマップを確認したじゃない」
「まあ、そうなんですけど」
「衛君が探せなかっただけじゃない?」
「そう、ですかねえ……」
俺は、妙な胸騒ぎを覚えた。
「いやあ……っ」
か細い悲鳴に、みんなの視線が矢地に向く。さっきまでの期待に満ちた笑顔はどこへ行ったのか、廃墟を目の前にしてその表情はすっかり怯え切っていた。
「茉央、そんなに怖がらなくても大丈夫だ。ただの廃墟、どうせ何も出やしない」
「それじゃあ、ちょっと困るんだけど……。でも、茉央ちゃん、衛君の言う通りだよ。みんなが一緒なんだもん。そんなに怖いことはないよ。適度に怖がろうね」
「涼子先輩、それフォローになってないですって。茉央ちゃんは、この二宮海斗が責任を持って守ります!」
「随分と頼りない騎士がいたものだな」
「なんだと、衛! やんのか?」
「もう、いい加減にしろよ。こんなところに来てまでやめろ」
着いて早々、喧嘩になりそうな里中と二宮の間に割って入る。俺はもともと喧嘩の仲裁をするようなタイプではないのだが、部活動においてはもはやこれが俺の定位置となっていた。
「さあ、行くわよ」
時刻は午後三時。にも関わらず廃墟の周りは薄暗く、人が入ることを拒んでいるかのようだ。
廃墟に立ち入って早々に俺たちは足を止めさせられた。その原因となったものを、涼子がスマホのライトで照らす。
「……それは、白くて黒い……?」
壁に書いてあった。
「これって、部長が言っていた都市伝説ですよね。俺たちのようにここに来た誰かが、悪戯で書いたのかもしれないな」
「でも、どういう意味なんだろ」
「意味なんてないんじゃないか? ただ、怖がらせたいためだけに書かれたものだろう」
里中と俺が話していると、
「もう、やだぁ……」
背後から涙声が聞こえてきた。矢地が後ずさったかと思うと、「私、帰ります!」という言葉とともにくるりと踵を返す。
「え、あれ……っ」
建物の出入り口に扉はない。一歩踏み出せば外に出られるはずだ。しかし、矢地は目の前で手をぱたつかせているだけで、なぜか外に出ようとしない。
「なに、これ……。なんでっ」
パニックに陥った矢地の声に被さるようにして、全員が異様な声を耳にした。
「あ……あ……いる……っ」
「……化け物っ」
誰かが叫んだ。それを皮切りに、あちらこちらから叫び声が上がる。
「逃げろ!」
そう叫んだのは俺か、それとも別の誰かだったか。自分の言ったことも、とった行動も、あまり憶えていない。ただ、気がついた時には、俺は涼子の手をしっかりと握り締めていた。
「待って、潤君!」
涼子の言葉に我に返り、とっさにその手を離した。
「こっちには来ていないみたい。きっと、衛君たちを追って行ったのよ」
「追ってって……何が?」
「わかんない。なんか、白っぽくて、ゆらゆらしていて……」
「見たんですか?」
「わかんない。見えた気がしただけ。小さくて、幼い子供ぐらいの大きさの何かが揺らめいていたの」
「それは、小さくて大きい……」
俺がつぶやくと、涼子がもとから大きな瞳を見開いた。
「大きさが変わるの……?」
「それだけなら、まだましかも」
「……たしかに、そうだね」
「それは、人のようで猛獣のよう……ですよね?」
「さっきのは小さい人型だったから逃げられたってことかな。それはそうとさ、二人の時くらい、昔みたいに名前で呼んでいいんだよ?」
はにかみながら上目遣いに見つめられて、俺は目を逸らしてうつむいた。
俺と涼子は、家が近所で互いの親同士が仲良しだったこともあり、幼い頃から姉弟のように育ってきた。小学生までは互いに名前で呼び合っていたが、中学生に上がった頃から、俺は涼子に敬語を使い、苗字で呼ぶようになったのだ。
「……涼子」
久しぶりに名前を呼ぶと、涼子は照れたように笑った。
「絶対に生きて帰ろうね」
「うん。そのためにも知りたいんだけど、この施設はなんなんだ?」
「ここはね、研究施設だったみたいだよ。おぞましい人体実験のね」
昔、生まれつき病弱な娘がいたらしい。その父親は医者であり科学者だった。弱い娘を嫌悪したその科学者は、娘に強靭な体を与えようと実験を繰り返したらしい。そうして生み出されたのが、「それは」から始まる文言通りの得体の知れないものとのことだ。
「食べられちゃったそうだよ、その父親」
「それは、人を喰らうってやつか。そいつは、幽霊の類なのか? それとも実体があるのか?」
「幽霊が人を食べられるとは思えないけどね。……あ、ここ!」
涼子がスマホのライトで俺の足元を照らす。思わず照らされた片足を浮かせた。
「……赤いそれを見たら……?」
床に刻まれた「それ」を示す文言に言葉を詰まらせる。
「見たら……なんだよ。それに、色は白か黒なんじゃないのか?」
「……わかんないよ」
その時だった。廊下の奥からつんざくような悲鳴が聞こえてきた。
「に、逃げよう!」
「ダメ! みんなを置いて行けない!」
声の聞こえた方へと一人駆け出す涼子を追う。しかし、ほどなくして、俺たちは足を止めさせられることとなった。
闇の中、黒い何かがそこにいた。170ある俺の身長よりも遥かに大きい。ゆらゆらと体を揺すりながら、顔らしいものを前後に振っている。まるで、何かを……咀嚼でもしているみたいに……。
「あ……あ……」
声が出ない。喉が、からからに渇いている。なんとか目線だけを動かして傍らの涼子を伺うと、その口がぱくぱくと小刻みに動いていた。涼子の口元に耳を近付ける。
「……あ、か、い……」
直後、俺の目の前から涼子の姿は消えた。生臭い風が頬を撫でる。黒かったそれは赤黒く、また一段と大きくなった。甲高い獣のような咆哮が上がる。そして、一瞬、それは俺を見たような気がした。
「……うわあっ!」
体中の酸素を吐き出すように全身全霊を込めて叫んだ。それが脳のリミッターを解除したのか、がちがちに強張った体が軽くなる。踵を返して逃げ出した時、足がもつれて転倒してしまった。その頭上を「それ」の腕らしいものが通り、石造りの壁を貫く。いつの間にか、「それ」は全身を真っ赤に染め上げていた。
震えが止まらない。
赤い「それ」は、尋常でない速さで追ってくる。
何度も突き刺されそうになったが、そのたびに都合よく転倒しては身をかわし、なんとか逃げ切った。
物陰に身を隠し、早鐘のように鳴り続ける鼓動を抑えようと胸元に拳を押し当てる。と、手の中に何かがある。さっき転んだ拍子に、落ちていたものをつい拾ってきてしまったのだろうか。
「……『わたし』に触れて……?」
メモ紙のようなものに、そう書かれていた。
「もう、いい加減にしてくれよ。なんなんだよ、こんな謎々みたいな……」
メモ紙をぎゅっと握り締めた時、ちらりと裏側が見えた。裏には、女の人の絵が描いてあった。胸元で手を組んで眠っている女の人の胸元にはアミュレットらしいものが描かれている。そして、そのアミュレットだけが緑色に塗られ、その横に「わたし」と書かれていた。
メモ紙を手に数秒考えたところで、つんざくような声が再び聞こえてきた。「それ」は、もうすぐそばまで来ている。
思わず後ずさった時、また何かにつまずいて尻もちをついた。立ち上がろうとして気が付く。
「あの絵って、まさか……」
浮かんだ答えに淡い希望を託し、俺はすぐ横の扉に手をかけた。
じめっとした空気が全身にまとわりついて体が重い。
スマホのライトで照らすと、部屋の中央に置かれた長方形の大きな箱が目に止まった。それを覗き見た俺は息を呑む。
棺だ。
中には、白いワンピースを着せられた骸骨が祈りを捧げるように手を組んだ状態で横たわっている。
「アミュレット……?」
胸元のネックレス、その中央の大きな石は緑色に輝いていた。
「『わたし』に触れてって、これのことか……?」
アミュレットに手を伸ばす。その時、耳元でこれまでに聞いたことのない咆哮が上がった。振り向いた瞬間、顔に生臭い吐息がかかる。
頭が真っ白になった。
全身を真っ赤に染め上げた「それ」が、その巨体には似つかわしくない速さで俺の首を締め上げたのだ。足が宙に浮く。息ができない。
「かは……っ」
息も絶え絶えに足をばたつかせる。今にも飛びそうな意識の傍らで、俺はわずかな希望を見出していた。
「あ、あ……っ」
ギシギシと骨がきしむ。折られると思ったその刹那、最後の力を振り絞り右手を「それ」の前へと突き出した。
アミュレットをかざすと、緑色の光が放射線状に広がる。その光に触れた「それ」は、膨れ上がった体が急速に小さくなり、俺の首に巻き付いていた指も外れて、俺は床に叩きつけらるとともに盛大に咳き込んだ。
涙をぬぐって顔を上げた先に、白くて小さな……幼い少女のような姿を見た。
……ママ……
そう、聞こえた気がした。
そして、少女は消えた。
まるで煙のように。
消える瞬間、笑ったように見えた。
あのあと、どうやって帰ってきたのかわからない。
そして、不可解なことがふたつある。
ひとつは、「それ」に関する都市伝説を調べてみたが、ネット上のどこにも見つけられなかったこと。
もうひとつは、「それ」に喰われたはずの部員が全員無事だったということだ。ただ、みんなの記憶の中からは、「それ」に関わることの一切が抜け落ちてしまっているらしい。
「それ」のことを知るのは、もう俺しかいない……。
それでもいいと思った。みんなが無事だったのだから。
ようやくいつもの日常を取り戻しかけたある日のこと。
「ねえ、聞いて。面白い都市伝説を見つけたの!」
涼子が話し出した都市伝説の内容に、俺は血の気が引くのを感じた。
ふと、窓の外に目をやる。俺にそっくりな白い影が、虚ろな目を向けていた。
「まさか……」
つぶやいた俺をみんなが見つめている。
みんなが、一様に、笑顔で……。
そうか。
俺は、瞬時に理解した。
ああ……そう、だったんだ。
「それ」に喰われたのは……。
……みんなじゃ、なかったんだな……。