納得
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正しさは心地がいい。
だからこそ、人は心酔し浸り、溺れていく。
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ただ生きていてほしい。
それは愛する者に対して、誰もが抱きやすい感情だろう。
そこにいて、笑ってくれたら。
愛する家族にかける想いは、いつの時代でもシンプルで、そして大きいものである。
靴谷氷花が白塔呑荊棘に投げた言葉には、たくさんの愛が詰まっていた。
それはもしかしたら、残された妹のためだったかもしれない。
それはもしかしたら、命という可能性を持つ彼女のためだったかもしれない。
それはもしかしたら、あの日何もできなかった自分のためだったかもしれない。
そこから先の言葉は、慎重に選ばなければならない。
人の心は、誰にも見せることはできやしないが、自分だけは、知らないでは済まされない。
そして、その心に従い言葉を紡いだとしても、口から出た瞬間に色が混ざってしまう。
相手に伝えたい、届いてほしい、理解してほしいと願えば願うほど、それらの言葉は心から離れていってしまう。
心に浮かんだ文字を、想いを、言葉を、そのまま相手に発することはひどく難しい。
同様に、そういう類の言葉をありのまま受け取ることもまた、難しいのだ。
ただ一言。
生きていてほしいという言葉さえ、靴谷氷花の思いの全てを汲んでいるわけではない。
そして当然のように、それを受け取った彼女も、その言葉をそのまま受け取ることはできない。
言葉が、想いがシンプルであればあるほど、その背景にある感情は複雑であることが多いのだ。
それを互いに理解しているからこそ、二人の間には静寂という「思いやり」が生まれる。
しかし、時間はその停滞を許してはくれない。
「氷花姉、私はここを出たら生きていけない。それは素体になっている私自身も似たようなものだと思う。だから、これ以上に私を貶められることがないように、殺してほしいんだ。駄目••••••かな」
彼女もまた、必死に言葉を選んでいるのだろう。
相手を必要以上に傷付けないように。
「非情な頼みだってことは理解してる。氷花姉に背負わせられるようなことじゃないことも、痛いくらいわかってる。でも、他に頼める人がいないんだ。私にとって、梢も舞白も、そして氷花姉も大事な家族。私の願いも、一緒だよ。みんなにはちゃんと生きていてほしい」
彼女が言葉を重ねるたびに、靴谷氷花の表情は険しくなる。
互いの願いが反発し合い、妥協することはできない。
にもかかわらず、その根幹にあるのは同じ愛なのだ。
「呑荊棘、あたしがそんなことできねえこと知ってんだろ」
「うん、知ってる。氷花姉は優しくて格好いい、あたしの憧れだったから」
「それでも、変わんねえのかよ」
「うん、変わらない。私はここから先にはいけない」
「どうしても、か」
「どうしても、だよ」
「あたしは弱い。何も守れてねえ。ごめんな、呑荊棘」
「私のこと、許さなくていい。恨んでも、いいよ」
「できるわけねえだろっ!! あたしがお前に対して、何を恨めるってんだよ。お前はあたしの家族で、妹だ」
「ありがとう。やっぱり格好いいよ。梢のこと任せるよ? 舞白のことも。二人とも危なっかしいからさ、氷花姉がちゃんと見ていてあげて」
言いたいことはもう伝えた。
彼女の顔は、そう語っていた。
靴谷氷花は、その顔を見て言葉を飲み込んだ。
もう何を言っても何も変わらないとわかってしまったから。
届いていないからではない。
伝わっていないからでもない。
届いて、伝わっているからこそ、彼女は変わらないことがわかってしまったから。
「私が言いたいことはまだまだたくさんあるけれど、今はもうこの辺で終わりみたい。氷花姉、本当に会えてよかった。私は氷花姉の妹になれて幸せだったよ。生意気で無愛想な妹だったけれど、私のことをいつも見ていてくれてありがとう」
彼女は、一人で会話を締めようと口を動かし続ける。
まるで、何かに追いつかれないように。
「だからね、氷花姉。私はずっと幸せだった。大丈夫、私はもうわかってるから。心配しないで、みんながここを無事に出られるように、できることはあまりないかもしれないけれど、何かやってみる。梢がアイと名付けてくれたこの子のことも、ちゃんと守るから。私も頑張るから、だから、氷花姉もちゃんとやるべきことをやって、ね?」
早口に話す彼女は、靴谷氷花も見たことがないくらいに泣いていた。
声を振るわせ、頬を涙で濡らし、愛する家族を見送ろうとしている。
自分はこの場所から離れられないことを理解しているのに、自分の命が再び終わりに向かっていることもわかっているのに。
それでも彼女は、靴谷氷花を送り出す。
愛する姉を信じているから。
託された想いを、靴谷氷花という人間は無碍にしない。
それが呪いのようなものであったとしても。
「お前の言葉は受け取っておく。でも、まだあたしは決断できてねえ。その場にならねえとわかんねえ。そうすることでお前が、白塔呑荊棘という人間が、あたしの妹が救われるかもしれないということは、ちゃんと考える。だからお前も、アイも死ぬな。あたしはお前のことを諦めたりしねえ」
その言葉を聞いて、彼女は微笑んだ。
満足したのか、感動したのか、嬉しかったのか。
彼女は、静かに出口に視線を送る。
それに応じて、靴谷氷花も出口も見る。
時間は有限であり、決して多く残されているわけではない。
「あたしは、行くぞ。いろんなことに決着をつけなきゃなんねえし。お前もできるだけ変なことはせず、命を大事にしてくれ。その体の命は、あたしの妹がくれたもんだろ。粗末にしたら許さねえからな」
「••••••うん、わかった。気をつけてね」
靴谷氷花はもう振り返らない。
この扉を出てしまえば、きっと二度と会うことはない。
それでも、彼女たちは時間を進める。
アイは、深く深呼吸する。
「バレてた、よね。演技の練習は結構してきたのになぁ。やっぱり本当の家族にはなれっこないよね。梢、氷花さん、生きてください。絶対に死なないで。••••••はあ、何とか間に合ったのかな。私にしてはうまくやれていたと思うけれど、本当にここまでみたい」
アイは、静かに目を閉じる。
「さよなら、氷花姉」
その瞳から、最後の涙がゆっくりと零れ落ちていく。
「さよなら、梢」
アイは、人造人間である。
管理者の入力一つで、すぐさまその命を停止されられてしまう。
その命の価値は、この場所において、何よりも低く、簡単に消えてしまうものだった。
靴谷氷花が扉を出た数秒後、白塔梢によって「アイ」と名付けられたその命は、誰にも看取られることなく、知られることもなく、静かに幕を閉じた。




