消褪
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この世の全ての花がすべて花開けば、どんなに美しいだろう。
だからこそ、僕は君に「絶対に咲かない花」を贈ろうと思うんだ。
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最初は小さな違和感だった。
それは歩みを進めるうちに膨れ上がり、焦りや不安に表情を変えた。
そこが近づくにつれ、靴谷氷花の心臓は暴れるように脈打っていた。
「どうやらここが《会場》だね。嫌な静けさだ、静かなのに人の気配はちゃんとある。お嬢さん、少し心の準備をした方がいい。戦闘になる可能性も、誰かを救えない可能性も低くはない」
「••••••ああ」
枠綿無禅の私室から、二人は真っ直ぐ《会場》に向かってきた。
想定していたよりも遥かに襲撃が少なすぎたことも、建物内が異様な緊張感に包まれていることもわかってはいる。
それでも、靴谷氷花は前を向いた。
大猫正義は静かにそれに従った。
この先で、二人を待ち受けているものに思いを馳せながら。
「僕が先に中の様子を見るよ。突入の合図も僕に任せてくれるかい?」
「わかった、あたしは中に入ったら梢たちを連れてここを出る。••••••でいいんだよな?」
「そうだね、基本的にはそう動くつもりでいよう。でも臨機応変に、状況を瞬時に理解して的確に動けるようにね。この中で、何が起きていても思考は止めない」
大猫正義の顔に、緊張の色が滲む。
その隙を、彼女は見逃せない。
彼女はそういう変化を嗅ぎ取り、対応してきたからこそ、今もなお生きているのだから。
「おっさんでも緊張とかすんだな。少しだけ安心した」
「ははは、そりゃ僕だって人間だからね」
人間だから、この状況で緊張して当然。
それは理解できる。
しかし、同時に彼らがそうでないことも、痛いくらいに理解できてしまう。
「じゃ、少し離れて待っててくれ」
大猫正義は、静かに扉に耳を当てる。
絵面としてはかなりシュールではあるが、彼の表情がそんなことを掻き消してしまう。
苦虫を噛みしめたかのような、何らかの心配事が現実になってしまったかのような、そんな表情だった。
大猫正義は、靴谷氷花に向けて手招きをする。
彼女は、彼を倣い、できるだけ静かに扉へと近づく。
しかし、耳を当てるまでもなかった。
中で何が起きているのか、詳しくはわからない。
しかし、彼女が泣いている。
大事な妹が、涙を流し、必死に声を上げている。
理由としては、十分だった。
動機としては、充分だった。
「梢っ!!」
勢いよく開かれた扉の先で、二人を待っていたのは想像していた最悪よりも、数段深く酷い悲劇。
「ひょうか姉! お願い、舞白ちゃんを止めて! 舞白ちゃんが死んじゃう••••••」
扉を開けて、靴谷氷花の目に最初に入ったのは、殺し合いをしている二人だった。
一人は、四四咲彼岸だとすぐにわかった。
身体に無数の傷を負い、出血だけで死んでしまいかねないくらいに、辺りに血を撒き散らし、目の前の誰かを殺さんと顔を歪めている。
もう一人は、わからなかった。
頭では理解している。
この場にいて、彼と殺し合いができる可能性を秘めているのは彼女しかいない。
それでも、靴谷氷花の記憶が、心がその事実を拒絶する。
「舞白ちゃんっ!! それ以上動いたら死んじゃうよ!!」
四四咲彼岸に対し、間断なく攻撃を続けるそれは、吐血してもなお、鼻血が止まらなくともなお、対象を死滅させんと動き続ける。
身体の至る所の筋肉は、その動きについていけず、既にその機能を失っている。
それでも、それは、彼女は止まらない。
「あれは、少しまずいね。お嬢さん、ひとまず白塔梢さんたちの救出を済ませよう」
動けなかった。
思考することさえ、できなかった。
靴谷氷花の目の前で起きていることを、靴谷氷花自身が受け止めることができない。
「お嬢さん、呆けている時間はないよ」
「••••••っああ」
どうすることもできない状況は、誰にだって往々にして訪れる。
「梢!! 大丈夫か?」
「うん。私は大丈夫なんだよ。でも姫ちゃんが••••••」
それが偶々、彼女にとっては今だった、というだけの話。
「姫••••••ちゃん。なんでだよ、なんで姫ちゃんがこんなにボロボロになってんだよ」
「姫ちゃんは、私たちのこと守ってくれたんだよ。でも、そしたら舞白ちゃんがっ」
やり場のない怒りも、昇華することのない憎しみも、受け入れることのできない悲しみも。
全てが彼女を蝕んでいく。
「とにかく、まずはここを出よう。お嬢さんたち、動けるかい? 僕はあの子の戦いを見届ける。決着が着き次第すぐに、あの子と共に合流する」
乗り越えなくてはいけない。
受け止めなければいけない。
殻柳優姫が死んでしまったことも。
守るべき妹が命を削って、その危険から家族を守っていることも。
「アイちゃん、一緒に来て。ひょうか姉、姫ちゃんのことも••••••」
「梢、それはできねぇ。今のあたしらにそこまでの余裕はねぇんだ。頼む、わかってくれ」
非情な選択を余儀なく迫られることも、珍しいことではない。
生きるためには、殺さねければならない。
そして、生き残るためには、拾い上げる命を選択しなければならない。
「ひょうか姉、嫌だよ。姫ちゃんをこんなところに残していくなんてできないよ。お願い••••••」
縋るような、消えそうな声で靴谷氷花に頼む彼女は、一体どれだけの涙を流したのだろうか。
その抱えきれないをどの悲しみが、靴谷氷花にはわかってしまう。理解できてしまう。
「おい、おっさん。姫ちゃん、この人のことも頼んでいいか。あたしらにとってとても大切な人なんだよ」
「うん、大丈夫。あの子のことも、その人のことも、任されたよ」
「ありがとう、恩に着る」
「とにかく、ここは早く行きなさい。水仙さんたちもすぐに合流するはずだから。ここでの戦いも直に終わる、あらゆる覚悟をしておかなくてはならない。お嬢さんたちは、それらを見届けるべきだ。だからこそ生きていなければ、ね」
「わかった、待ってるぞ。ほら、梢、行くぞ」
開かれたままの扉は、去る者を拒絶しない。
まだ戦う者を残したまま。
そして、それを見守る者を残して。
既に命に幕を閉じた者を残したままに。
その扉は、開かれたまま、また誰かを待ち続けている。




