激情
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膨れ上がった憎しみは、恋に似ている。
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「ほ、本当に大丈夫なのか? その胸の傷なんともないのかよ」
「心配には及ばないわよ、氷花ちゃん。うふふ、ありがとう」
言葉通り、文字通り、彼女は自分の傷の一切を気にしていない様子だった。
普通なら命に関わる傷のはずなのに、本人はそれを気にも留めていないのだ。
彼女ならば、自分の身体を弄るくらいのことは平気でしているだろうし、靴谷氷花がとやかく首を突っ込むことではなかったのかもしれない。
「水仙さん、この後どうします? とりあえず枠綿登の身柄は抑えましたけど、これで終わりじゃない」
「そうね、お兄様にお父様の居場所を聞いておいてもらえるかしら? 私と氷花ちゃんで捕らえられている子たちの救出に行ってくるわ。危険の度合いで言ったら私と行動を共にする方が、言うまでもなく危険なのだけれど、氷花ちゃんは救出には欠かせないし、私はお兄様と一緒にいることはできない。殺しちゃいそうだしね」
諦めたように頷く大猫正義と、不安が拭いきれない靴谷氷花だった。
「そんな顔しないでちょうだい。殺人鬼の彼も拾っていくつもりだから、戦力的には問題ないでしょうし、お兄様にはまだやってもらいたいことがありますから、生きていてほしい。そうなるとこの配置で動くのがベストなのよ」
「おい、水仙。お前の企みがここから出ること以外にあって、それが枠綿家の存続を脅かすようなものであれば、その時は本気で死ぬつもりでいろよ。希望なんてすぐに抱けなくなる。靴谷とやらも、親父が目をつけているとはいえ、殺すときは簡単に殺す。交渉の余地なんかねえよ、お前らは全員ここで殺される」
靴谷氷花にとって、枠綿登という人物は妹の仇である。
白塔梢と白塔呑荊棘がひだまり園に来ることになった事件の元凶であり、靴谷氷花の妹と弟の命を弄び、奪った男。
彼女は感情のみで動くような者ではなく、理性的かつ合理的に思考し、行動に移せる者である。
しかし、靴谷氷花はこの場所に招かれてからというもの、幾度となく感情に押し潰されそうになるのを感じていた。
心を埋め尽くさんとする憎悪、叫び出したくなるほどの殺意、それらが彼女の心を蝕んでいた。
そして、その経験が彼女に変化を、進化をもたらそうとしていた。
「枠綿、登。お前が呑荊棘たちにしたことは、許さない。でも、お前に罪を償えとも、もう言わない。全てが終わったら、あたしが殺してやる。水仙ちゃんや大猫のおっさん、その四四咲とかに比べたら、あたしには何の力もないけれど、あの子らの代わりにお前を殺してやることくらいは、あたしにだってできるし、あたしがやるべきことなんだろうな」
「正義」を信じていたわけじゃなかった。
彼女の人生において、「正義」はいつも間に合わなかったし、自分たちを助けてくれるものではなかった。
それでも、彼女は「正義」を掲げた。
大切な人を今度こそ守るために、これ以上傷付けないために。
「お前ごときが凄んだところで、怖くねえよ。靴谷、お前は勘違いをしているようだが、目を覚ますなら早い方がいいぞ。お前がまだ生きてんのは、お前が何かをしたからじゃねえ、お前が何もできなかったからだ。水仙や殺人鬼の餓鬼に守られ、安全なところに閉じこもっていたからだろうが。そんなお前が何を成せる? 漫画やゲームじゃねえんだ、決意したくらいで現実は何も変わらねえぞ」
彼女はわかっていた。
自分に特殊な力や、能力がないことくらい。
だからこそ、特別を求めた。
唯一を探した。
力が欲しい、と。
強さが欲しい、と。
「水仙、お前も言ってやれよ。分不相応のことをしても、何の意味もないって。それどころか、こういう場面では足手纏いにしかならないってな。いいぜ、聞きたいことを聞けよ、言いたいことを言え。全てに答えてやる。お前が俺を殺す? 馬鹿が!! できるわけっーーーー」
「五月蝿いわよ、お兄様」
おそらく誰も反応できていなかった。
大猫正義でさえ、何が起きたのかを理解するのに、一瞬の時間を要した。
「氷花ちゃん、計画を練り直す必要があるわね、うふふふ」
枠綿登の首元に深く突き刺さったナイフを、ゆっくりと引き抜き、その返り血を浴びながら彼女は嗤った。
「気にしないで、とは言わないわ。これの言う通り、氷花ちゃんには戦う力はないもの。だから自覚しなさい。貴方は強いけれど、脆いのだと。殺せば簡単に死んでしまう器の中に生きていることを、正しく認識しておくといいわ。そしてそれを踏まえた上で、氷花ちゃんのしたいことを全うしたらいいわ」
枠綿登は、何も言わず、何の抵抗もすることなく、倒れていく。
誰が見てもわかってしまう、彼はもう既に起き上がることはないのだと。
三者三様。
物言わぬ死体になった枠綿登を、それぞれが見つめている。
「水仙ちゃん••••••」
「それにしても、氷花ちゃんも災難ね。うふふ、何をしたらあの男に目をつけられるような最悪になるのかしら。どうせ大した情報は聞き出せなかったでしょうし、ここにいた不自然を考えても、お兄様に時間を使うのは賢くなかったわ。時雨がここに来たことも、今考えればおかしいわね。うふふ、本当にこの家はどこまで不愉快ね」
靴谷氷花は、その人生の中で多くの死に触れてきた。
それは家族だった者も、敵対して自分を殺しにくる者も、自分とは全く関係ない者も。
死んだ者は二度と生き返らない。
「ここからは、大猫さんと氷花ちゃんのペアで動いてもらえるかしら。私は殺人鬼の彼を探すわ」
子どもの頃、クローゼットの中で声を噛み殺していた彼女は、どれほど強くなれたのだろうか。
ひだまり園で皆の姉として弟妹を支えていた頃、家族を失っても何もできなかった彼女と今の彼女には、どれほどの差があるのだろうか。
「大猫さん、氷花ちゃんのこと頼むわね。私はどうやら、自分でも驚くくらいには氷花ちゃんのことを気に入っているみたいだから、彼女を守りきれないなんてことがあったらきっと悲しいわ。だから、ね」
「水仙さんにそう言われるお嬢さんを敬うべきか、憐れむべきか悩ましいね。でも、お嬢さんの安全は死守しよう」
靴谷氷花は、男の言葉を何度も咀嚼する。
自分が何者にもなれないのは、自分がよくわかっている。
それでも、家族は守ると決めたのだ。
命に代えても、自分の矜持を捨てでも。
しかし、実際のところ、彼女にできることは限りなく少ないのだ。
その事実が、彼女の思考を濁らせていく。
命の価値が、軽くなる。
「じゃあ、私は先に行くわね。《会場》にいるであろう氷花ちゃんの身内を回収したら、私の研究室に隠れていてもいいわ。まあこの敷地から出ることが一番いいのだけれど、流石に大猫さん一人じゃ、荷が重いでしょうから。私たちが合流するまでは、身を潜めておいてくれるとありがたいわ」
「了解したよ、ご武運を」
部屋から出ていく彼女を目で捉えながら、靴谷氷花は何かを言いかける。
しかし、言葉にならず口を制御できない。
人は慣れる生き物であり、忘れる生き物である。
彼女は一体何に慣れて、何を忘れていくのだろうか。
彼女が妹たちと合流するまで、あと二十分。
加速し、崩れて壊れてしまった物語において、その永遠にも近い時間はあまりにも残酷だった。
あと何人死ぬだろう。
あと何人殺せば、この悲劇にも似た喜劇は満足してくれるのだろうか。
靴谷氷花と大猫正義は、まだ知らない。
これから自分たちが向かう《会場》が、どうなっているのかを。




