説戒
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彼の優しさはいつも無味無臭で、私の心を拒絶する。
146
現状を維持することは容易い。
しかし、物語はそれを望まない。
常に混沌を求め、常に悲劇を、喜劇を、惨劇を。
枠綿水仙には、自信があった。
それは殺し合いという点においてもそうだが、彼女が自らの能力として誇るのは、その生存能力である。
どんな状況でも生き残ること、それは彼女が彼女であり続けるために必要な能力だった。
枠綿家に連れてこられて、最初にさせられたことは、自分と歳の変わらない少女を殺すことだった。
まだ彼女が枠綿水仙と呼ばれる前の出来事である。
彼女は躊躇うことはなかった。
怯える瞳も、震える彼女の身体も、どうでもよかった。
そうしなければ彼女自身も処分されることがわかっていたからだ。
そして、その儀式に何ら意味がないこともわかっていた。
彼女はとっくに壊れていた。
「うふふ、時雨? 私のことを無視して氷花ちゃんを殺せると思っているのかしら」
聖時雨の動きは、洗練されたものだったように思う。
少なくとも、靴谷氷花にはそう見えた。
しかし、そんなことよりも彼女と聖時雨との間には、いつの間にか枠綿水仙が立っている。
無防備に、無抵抗に。
聖時雨の握る刃物は彼女の左胸を貫通し、靴谷氷花の目の前で止まっていた。
「水仙様、貴方を殺せるとは思っておりませんが、今の小生は登様の遣いでございます。お許しくださいますよう」
冷淡な声だった。
枠綿家に仕えている者は皆同様にして、人間味のようなものが薄いとは感じていたが、目の前の聖時雨もまたそうだった。
靴谷氷花には何が起こったのか、目では追えていなかったが、結果として何が起こったのかは理解できた。
自分が狙われ、それを枠綿水仙が身を挺して庇ってくれたのだと。
「水仙ちゃん!!」
「大丈夫よ、氷花ちゃん。私はこの程度じゃ死なないわよ」
余裕を見せて応じる枠綿水仙に対し、怪訝そうな顔をする聖時雨。
対照的な両者は、呼吸を合わせたかのように殺し合いに身を投じる。
男は無表情のまま冷酷に彼女の命を刈り取ろうと。
女は愉しそうに頬を赤らめて彼を殺し尽くそうと。
「水仙さんは相変わらず化け物じみてますなぁ、ははは。じゃ、僕もそろそろ働かないと、ね」
靴谷氷花の横で明るくつぶやいたその男は、一瞬で枠綿登の目の前まで駆けていき、その直後にはその身柄を完璧に拘束して見せた。
「さあ、頼むから大人しくしていてくれよ? これでも僕だって結構怒っているんだ、怒りに任せて君の身体を壊してしまいそうなくらいにはね」
「正義やら平和やらを掲げるヤツの言葉とは思えねえな。安心しろよ、元々俺にそんな力はねえよ、あの女や四四咲、聖なんかと一緒にするな」
ーーカラン
「うふふ、まだ踊れるでしょ? 時雨、その程度じゃないはずよ。もっと、もっとよ。登兄様はもう捕らえたし、何も気にすることはないわ、本気で掛かってきなさい」
ほんの刹那、彼女が後ろの大猫正義と枠綿登に意識を向けた、その瞬間に事態はもう動いていた。
靴谷氷花が呆けていたわけではない。
聖時雨の片腕が、肩のところから綺麗に切り落とされていることも。
枠綿水仙の左胸に刺さっていたナイフが、いつの間にか聖時雨の腹部に刺さっていることも、彼女は知らない。
「氷花ちゃん、私たちはこういう生き物で、こういう存在でしかないの。殺すことしかできないし、殺されることでしか救えない。だから心配なんか必要ないし、仲間意識なんか持たない方がいいわよ。殺人鬼の彼にしたってそう、生きる世界が違うのだから、価値観も倫理観も全て違う。氷花ちゃんが大事にしているものを、何とも思わずに踏み躙れるのが、私たちなの。それだけは覚えていてちょうだい、お願いよ」
彼女は振り向いてはくれなかった。
殺し合いの最中なのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、その声色を聞く限り、こういう時の彼女は淋しげに笑うのだ。
靴谷氷花には、わからなかった。
目の前で殺し合いを繰り広げる二人に、どんな違いがあるのか。
人を殺すことは、良くないことだ。
他人を傷つけることを許す正義など、あってはならない。
それでも、彼女は決めかねている。
枠綿水仙が悪として嗤うのを、嫌悪できない自分が確かにいるのだ。
人を導き、国の情勢に関わる枠綿無禅を正義に準ずる者だと、認めたくない自分を知っているのだ。
あの少年も、そうだ。
殺人鬼として振る舞うことを隠そうともしない。
殺すことに躊躇いがないのだ。
しかし、彼には何度も命を救われている。
ひだまり園と不思議な縁で繋がる殺人鬼は、靴谷氷花だけでなく、白塔梢や白塔呑荊棘、そして「時野舞白」のことまで守ってくれていた。
その彼の存在を、悪だと言えるはずもない。
殺人鬼は、人を殺す。
そして、殺人鬼でなくとも人は人を殺す。
枠綿水仙もあの少年も、そして『あの子たち』も。
「水仙ちゃん、もういいだろ。枠綿登は捕まえた、これ以上ここで戦う理由はないだろ」
「あらあら、氷花ちゃんは優しいのね、それにとても残酷なのね、うふふ」
「なあ、頼むからああいうこと言うのは辞めてくれ。自分を否定するようなことは言ってほしくない、期待することや何かを望むことを辞めないでくれ」
「氷花ちゃん、貴方は強くて格好良くて、美しいわ。それこそ私が妬いてしまうくらいに。うふふ、いいわ、大好きな氷花ちゃんの頼みは聞いてあげないと、ね。時雨、今すぐこの場から去りなさい。登兄様のことは、心配しなくてもいいわよ、今のところは殺す予定はないわ。質問も意見も口答えも一切受け付けないから、さっさと消えなさい」
靴谷氷花の言葉が、彼女に届いたのだろうか。
少なくとも、靴谷氷花自身はそうは思っていない。
他人の言葉一つで、人はそう簡単に変わったりしない。
だが、ほんの少しだけ確定していた未来を歪ませることくらいは、できたかもしれない。
既に姿を消した聖時雨も、死ぬことは避けられたかもしれない。
枠綿登に対して、何か有効な手札を持っているわけではないが、ここで誰も死ななかったことが何かの切欠になるかもしれない。
希望を抱くのは、勇気がいることだ。
夢を描くのは、覚悟がいることだ。
この瞬間にも、彼女らには刺客が向けられている。
殺意を遠慮なく向けられている。
それでも、彼女は生きることを諦めないし、生かすことを諦めない。
彼女の中にある「正義」がそうさせるのか、それとも「呪い」のように纏わりついた家族の死がそう思わせるのか。
靴谷氷花の血は、まだ目覚めていない。




