握手
133
私は花が好きだ。
人間と違って嘘を吐かないから。
134
靴谷氷花は、意識を取り戻した。
拘束などは受けていない様だが、その理由はすぐにわかった。
「身体が、一切動かせねえ。毒かなんかを吸わされてんのか? いつだ、どうやってあたしに毒を盛った?」
「うふふ、起きてすぐに頭が回るのは、流石ね。貴方たちに盛ったのは私のオリジナルの毒なのよ、すごいでしょ? 痛覚や意識だけを切り離し、その他の自由を全て奪うものですわ。例えば、貴方笑いなさい」
「はぁ? あ、はは、くっ、ははは、ははははははは」
全ての自由を奪う。
それは、靴谷氷花の想像を超える範囲で、精度で示された。
笑え、そう枠綿水仙に言われただけで、彼女が目を合わせて指示しただけで、靴谷氷花の身体は従ってしまう。
笑うことを強制される。
「おいおい、水仙ちゃんよぉ。あたしの身体に何してくれてんだよ」
「うふふ、その威勢の良さは嫌いじゃないわ。でも彼を見てもそのままでいられるかしら?」
枠綿水仙は、妖艶に微笑み靴谷氷花の背後を指差す。
そして一言、指示を、許可を出す。
「うふふ、後ろ、振り向いていいわよ」
「••••••っく」
指示に従って、靴谷氷花の身体はゆっくりと後ろを向く。
彼女の背後にあったもの、いた者は、修羅のような表情のまま、拳を血に染め呼吸を荒げていた。
「おっさん••••••何してんだよ。お前、何してんだよぉ!!」
「あらあら、会話はできないわよ。彼には許可してないから、うふふ。彼はいい玩具になってくれそうね、もう少し侵蝕を深めてあげなくちゃ」
考えろ。
考えろ。
思考を止めるな。
靴谷氷花の守るべきものは、一体何なのか。
その線引きを、見誤ってはいけない。
「さて、氷花ちゃん。貴方に選択肢を与えてあげる。選んだ後は、その選択に従うことを誓うわ、うふふ」
「選択だぁ? それにお前を信用する気にはなれそうにないんだが?」
「いいのよ、時間を稼ぐ必要はないわよ、健気な氷花ちゃん。私の調教は完璧だし、彼が自我を取り戻すことは、今の所あり得ないのだから」
諦めてはいけない。
辞めてはいけない。
靴谷氷花の中に逃げるという選択肢は、最早存在していない。
「そうかよ、最悪な性格してんだな、水仙ちゃん。でもお陰で少し冷静になれそうだ」
「そんなに褒めないで頂戴、嬉しくって殺したくなっちゃうから、うふふ」
「••••••ちっ、それで? あたしは何を選ばされるんだよ」
人生に劇的な展開など求めてはいけない。
都合よく救世主は現れてはくれないし、いつでも見守ってくれている誰かなんてものも存在しない。
自分を助けてあげられるのは、どこまでいっても自分だけなのである。
しかし、そんな当たり前を彼らは、彼女らは笑顔でぶち壊してくる。
悪意に満ちた笑みを浮かべ、天使のような取引を持ちかけてくるのだ。
そこに魂を売ってしまえば、一瞬は満たされるかもしれないが、その後は死ぬまで搾り取られる未来が待っている。
彼女、枠綿水仙が持ちかけた選択は、まさにそういう類のものだった。
「一つ、私と手を組んで、枠綿無禅含めその組合員全ての始末をする。もう一つは、今すぐこの屋敷から出て行き、二度と私の前に現れないこと」
耳を疑った。
それも仕方がないことだろう。
靴谷氷花が、どれほどの最悪を準備していたのかは定かではないが、枠綿水仙の口から出てきた選択肢は、彼女の思考を完全に掌握した。
「うふふ、驚いているのね。氷花ちゃんが何を考えているのか、手に取るようにわかるわ」
「お、お前の狙いはーー」
「飽きたのよ」
靴谷氷花の言葉は、酷く冷たい声に遮られた。
妖艶で不気味な枠綿水仙。
得体の知れない技術で、大猫正義を無力化し、生殺与奪の権を完全に握っている女。
極悪非道の人体実験を繰り返し、既に数えきれない程の人間を殺している彼女。
その枠綿水仙は、真剣な表情で、痛々しく、助けを求める子どものように言葉を続ける。
「ずっとこの地下にいるとね、自分が死んでいるんじゃないかって思う時があるのよ。死んでいないだけで、生きているとは言えないんじゃないかって、ね。氷花ちゃんには、そういう気持ちになることないかしら? ふふ、あったみたいね。ここで運ばれてくる誰かを殺したところで、何になるというの? 枠綿無禅は私の実の父親ではないのだけれど、拾ってもらった恩があるから、仕方なく人造人間の製造にも協力したけれど、これじゃ私はあの道具の娘たちと同じじゃない。うふふ、私ね、使うのは大好きだけれど、使われるのは許せないみたいなのよ」
枠綿無禅と枠綿水仙の関係。
それは、確かに違和感を抱かせるものだった。
枠綿水仙は、靴谷氷花たちの前に姿を現す際、枠綿無禅のことを父親ではなく、「枠綿様」と呼んでいたのだ。
血の繋がりのない家族。
それは、靴谷氷花がよく知る家族の形だった。
「私はね、ここから出たいの。でもそんなこと言ったら、私は問答無用で殺されるでしょうね。それこそ彼岸様にでしょうか。うふふ、最期にあのお方と殺し合えるのは魅力的だけれど、私じゃ彼を殺すには至らないでしょうから、私の目的は果たせないままということになってしまう。だったらどうすればいいか、殺される前に全てを殺してしまえばいい、それだけよ」
「全てを殺すって、ここにいる全員をか?」
「ええ、そうよ。心配しないで、氷花ちゃん。協力してくれるなら、貴方のお仲間の救出にも手を貸すわ。私の言う全てに、貴方たちは含まれていないわよ」
破格、もしかしたらそう表現できてしまう提案ではある。
しかし、簡単に信用などできるわけがない。
これは、損得勘定で考えていい問題じゃない。
そんな次元の話は、ここには一つとして転がってはいない。
全てが殺し合い、喰うか喰われるか。
取引、駆け引きさえも、当然のように命懸けなのだ。
「水仙ちゃんの願いはわかった。でも、あたしがそれを選ぶかは、また別問題だろ」
「うふふ、その通りね。氷花ちゃんが心配しているのは、ここを出た後の話よね?」
黙って頷く靴谷氷花であったが、実際のところ彼女の中で、答えは既に決まっている。
悩むまでもない、いわばこれは証拠集めのようなもの。
枠綿水仙を知る為の問答なのだ。
勿論、状況的に靴谷氷花と枠綿水仙は対等ではない。
未だに身体の自由が戻らない靴谷氷花が、枠綿水仙に抗う術は皆無なのだ。
しかし、それでも枠綿水仙は取引を持ちかけてきたのだ。
恭順を強いる訳でもなく、調教を施そうともせず、ただ真っ直ぐ。
「ここを出た後は、貴方たちに関わらないと誓うわ。殺人鬼の青年と例の彼女には、正直興味はあるのだけれど、自分の欲求には代えられないわ。それにここを出た後で、氷花ちゃんだけに特別に情報を渡してあげる」
「欲求ねぇ、碌でもなさそうだな。その情報とやらも、信じる根拠がねぇだろ」
「その辺のことは追々話してあげるわ。それで、どうする? どちらも選ばない場合は、貴方には私の道具になってもらうわ。ここを出るまでの間、壊れるじゃ足りないほどに付き合ってもらう、うふふふ」
「いいよ、そういう脅しは興味ねぇ。ちゃんと選ぶさ」
「じゃあ、今後のプランを話し合いましょうか」
「はぁ? まだ何もーー」
「氷花ちゃんが家族を見捨てて帰る訳ないじゃない」
靴谷氷花と枠綿水仙は一時的ではあるが、同盟を組み、枠綿無禅の全てに挑むことになった。
この時の選択を彼女は、後悔しない。
この後に、どんな未来が待ち受けていようとも。
例え、どんな運命が手招きしていたとしても。
一度、悪魔との取引に応じた者に、希望が訪れることはないのだ。
「うふふ、愉しくなりそうね」




