惜別
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君の物語は、君を中心に廻っている。
しかし、主人公が必ずしも君自身とは限らない。
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「お願いしますっ••••••もう、やめてください」
その願いは、果たして誰かに届いたのだろうか。
彼女の中にある復讐の想いは、そこで途絶えてしまったのだろうか。
白塔梢は、全身をズタズタに切り裂かれ、すでに動かなくなった殻柳優姫を抱きしめたまま、小さく願った。
二十分程前、「クロ」と「シロ」が白塔呑荊棘の姿をした敵と殺し合おうとしていたその時、それは起きた。
殻柳優姫、白塔梢、アイの三人がいた会場に、一人の男が入ってきた。
四四咲彼岸である。
彼は会場に入るなり中央のステージに立ち、マイクを握って告げた。
「そこにいる三人の入札を今すぐ始める」
その宣言に会場は沸き立つ。
人を買うという行為に、罪悪感を抱くような者はこの場にはいない。
絶体絶命というやつである。
「何、なんで急に。姫ちゃん、どうしたらいい?」
「梢、アイ。あんたら二人は、いつでもこの場から逃げられるよう準備しておきなさい。私が絶対に守るから」
殻柳優姫は気丈に笑ってみせる。
娘を不安にさせまいと、希望を潰えさせないように。
そして、それは始まる。
人が人を買うための競売が。
「三人まとめての購入しかできんのか」
「私はあの子が欲しいだけなのだけれど」
「ボロボロの年増を買ったところで、何になるというのかね」
会場の者たちは、好き好きに言葉を発する。
その言葉が、誰かを傷つけていることなどお構いなしに。
「申し訳ないが、この程度の余興に時間を使うことはできない。購入した後どう使おうが自由だ。何ならこの場で殺していただいても、こちらは一向に構わない」
冷静に、冷酷に四四咲彼岸は答えた。
その言葉に、会場は安堵に包まれる。納得したような、空気が一瞬緩む。
その一瞬を、彼女は見逃さない。
「梢、アイっ!! 走りなさい!!」
刹那、二人は会場の出口に向かって走り出す。
それは、完璧なタイミングだった。
もしも、この場に四四咲彼岸が来ていなければ、二人は出口から出ることくらいはできたかもしれない。
もしも、この場に「シロ」か靴谷氷花がいれば、その結果はまた違ったかもしれない。
どちらにせよ、この場には四四咲彼岸がいて、彼女たちはいない。
奇跡は起きない。
四四咲彼岸にとって、それは遅すぎた。
彼女らの行動に気付き、視認して、思考して、呆れてから動いたとしても、十分過ぎるくらいに遅かった。
(殺す手間が省ける、か。余興としてはお粗末ではあるが、白塔梢さえ生かしていれば問題ない)
表情一つ変えず、四四咲彼岸は二本のナイフを構える。
殻柳優姫も、同時にそれに気付く。
「ふざけるなぁ!! お前らなんかに、この子らの未来を奪わせるか!!」
ナイフは放たれる。
常人では、目で追うことなどできない速度で。
それは、殻柳優姫も例外ではない。
彼女は、常人でしかない。
警察に所属していた経歴こそあれど、長い時間をひだまり園で過ごしてきた彼女である。
暗殺を生業とする者の動きなど、目で追えるわけがないのだ。
それでも彼女は命を賭ける。
双方を結ぶ斜線上に、一切の躊躇なく踏み込む。
両手を精一杯に広げて、死を恐れることなく。
奇跡は起きない。
放たれたナイフは、当然のように殻柳優姫の身体に深く刺さる。
一本は左肩に、そしてもう一本は右の脇腹に。
衝撃に耐えられず、彼女は後ろに倒れてしまう。
誰が見ても、致命傷と解る。
しかし、彼女は血を吐きながら、痛みに涙を流しながら、それでも立ち上がる。
「母親、舐めんなよ」
彼女が言葉を言い終わると同時に、さらに二本、彼女の体にナイフが飛んできた。
避けることなど、もはや考えるだけ無駄である。
白塔梢とアイが出口の扉に手をかけると同時に、彼女は再び倒れ込む。
身体に四本のナイフを刺されて。
足を止めるべきではなかったのかもしれない。
振り向かなければよかったのかもしれない。
復讐など、願わなければよかったのかもしれない。
「姫ちゃんっ!!」
白塔梢が、最後の最後で母親の姿を見てしまった時点で、彼女たちの選択肢は霧散してしまったのかもしれない。
その背中が、彼女の小さな背中が「いきなさい」と告げているとわかっていても、置いていくことなどできない。
白塔梢は、もうその選択をすることができない。
「梢、駄目っ。行ったら、殻柳さんの覚悟が全部無駄になる」
アイは正しいことを言っている。
白塔梢も頭ではわかっている。
ここで引き返したら、殻柳優姫を否定することになる。
彼女が流した血を、涙を。
でも、家族なのだ。
一度は失くしたはずだった。
そんな彼女たちを、ずっと守ってくれた母親なのだ。
そんな人を、こんなところにおいていくことなどできるわけがない。
家族だから、足を引っ張ることもあるし、否定することだってある。
でも、彼女たちは家族だから、見捨てることも見限ることもできない。
「••••••っ、アイちゃんごめんっ」
「来るな、馬鹿っ」
そして、それは殻柳優姫にとっても同じである。
娘をこの場から逃す、そうしてしまえば、誰かが間に合うはずだと信じて、彼女は命を賭けた。
その可能性に、自分の可能性を全て賭けたのだ。
殻柳優姫はもう振り返る気力すらない、ただ何となく娘が駆け寄ってくる気がしただけである。
優しいあの子は、自分のこんな姿を見たら全てを投げうってでも戻ってきてしまう。
だから、声を上げる。
「絶対に戻ってきちゃ駄目っ!! さっさと出ていきなさい!!」
(ごめんね、梢。本当はもっと優しい言葉で送り出したいよ。怒鳴って怖い思いをさせて、ごめんね)
反射的に、足が止まってしまう。
しかし、今度はしっかり見てしまう。
さらに、彼女の身体に四本のナイフが刺さる瞬間を。
「ぐ••••••、がっ」
既にそのナイフが、白塔梢やアイを狙っていないことに気付く者はいなかった。
(梢、生きなさい。私は、あなたたちの母親になれて幸せだった。たくさんの幸せを教えてもらった。強く、生きて。あり••••••が、とう)
最後の一本が彼女の心臓に深く深く刺さった。
彼女の瞳には、もう何も映っていない。
何も聞こえないし、何も見えない。
それでも、彼女には見えていた。
何年もの間、共に生きてきた家族の皆の笑顔が。
ひだまり園の存在意義は、彼女が思っていたようなものではなかったかもしれない。
権力者たちの娯楽のため、それに加担していた自分を呪ったことだろう。
枠綿無禅に捕まり、軟禁されていた期間、全てを聞かされた彼女は何度自分を呪ったことだろうか。
できることなら、殺してやりたいとすら思ったかもしれない。
自分が面倒を見てきた子どもたちが、どんな未来を辿ったのか、その結末をどれだけ否定したかったことだろうか。
あの子が一体何をしたというのか、あの子がそんな目に遭う理由がどこにあるというのか。
あの子が、あの子が、あの子が、あの子が。
未来を望むことすら叶わない世界なんて、終わってしまえばいい。
(皆、ごめんなさい。最低な母親だった、母親なんて名乗る資格すら私にはない。それでも最期に見えるあなたたちは、私に笑いかけてくれるのね。こんな私に、その笑顔をもう一度見せてくれるのね)
殻柳優姫の身体は、ゆっくりと倒れていく。
深く刺さったナイフのことなど、既に認識できていないかのように前に傾いていく。
しかし、彼女の身体が、そのまま床に倒れ込むことはなかった。
両側から、しっかりと抱えられ、その身体は静止する。
右には白塔梢が、左には「時野舞白」が。
「姫ちゃん、ごめんね。痛かったよね」
「••••••、おか、お母さん」
娘に抱えられた彼女は、心なしか幸せそうに見えた。
笑っているようにも、安心しているようにも見えた。
「ほ••••••んと、あんた、たちは、私のじ、まんの、む、すめだよ」
最期の言葉は、二人に届いた。
二人が抱える身体が、途端に重くなる。
彼女は、もう二度と目を覚ますことは無くなったのだとわかってしまう。
二度と語りかけてはくれないのだと。
「お願いしますっ••••••もう、やめてください」
彼女は誰にその言葉を届けたかったのだろうか。
隣で血を流し、息を引き取った殻柳優姫を見て、何を思ったのだろうか。
そして、「時野舞白」は、「シロ」は、殺人姫は。
届かぬ願いは、どこまでも淡く切なく、悲しみの色に染まりながら膨らんでいく。
宴は終わりに近い。
しかし、まだ足りない。
さらなる混沌を、深い憎しみを。
復讐の贄は、まだ足りない。
次は誰だ。




