進歩
126
涙は乾き、声は枯れ、痛みだけが残る。
127
この世に絶対はない。
圧倒的な強者であっても、負けないということはないのだ。
統計的に、傾向的に、勝つ期待値が高いというだけである。
枠綿水仙は、油断しない。
態度や表情からは、読み取りづらいところではあるのだけれど、彼女の頭の中は冷静に回転している。
分類としては、靴谷氷花と同じである。
違うのは、対象を殺すことに躊躇わないこと、そしてその術を幾つも有していることである。
靴谷氷花もまた、油断しない。
目の前にいる女が、一瞬で大猫正義を制して見せたのだ。
直感的に、毒ガスや神経毒の類を疑い叫んだが、実際のところ、何をされたのか全く理解できていない。
だからといって、諦められるような性格ではないのが彼女である。
武器は不切木刃の拳銃と、「クロ」から預かっているナイフ一本のみ。
「いい緊張感ね、氷花ちゃん。そのまま警戒していなさい、気を緩めては駄目よ。私の全てから目を離さないことね」
「いちいちうるせぇな。この程度の修羅場は何度も潜ってきてんだ、恐怖も絶望もあんた程度じゃ足りねぇよ」
「随分強い言葉を使うのね、可愛いわ。うふふふふ」
靴谷氷花は、最大限の警戒をしていた。
瞬きすら、しない程に。
しかし、枠綿水仙に先制を許す羽目になってしまった。
一切の予備動作なしで、目の前にメスが飛んできたのだ。
「••••••っ」
その一瞬、靴谷氷花は目を離してしまう。
決して、目を離してはいけない相手から、ほんの一瞬だけ。
「ど、どこいった?」
靴谷氷花の視界には、誰もいない。
枠綿水仙はもちろん、大猫正義も同様に姿を消している。
体格差を考えて、大猫正義を彼女が運んだとは考えにくい。
そうなると、何かしらの仕掛けを使われたか、まだ潜んでいる誰かがいるのか。
どちらにせよ、靴谷氷花が目を離した一瞬で二人の人間が姿を消している。
「何が起きている? 何をされた? 何を見落とした?」
大丈夫、混乱してはいるが、取り乱すほどではない。
靴谷氷花にとって、人の枠を外れた者など、然程珍しくもない。
だからこそ、こういう時に何を考えるべきかは、熟知している。
右手に拳銃を、左手にナイフを。
頭では、自分に何が起こっているのか、何をされているのかを思考する。
耳も目も、使えるものは全て使って、状況に順応していく。
(あっちは、あたしを生け捕りにしたいっつってたな。てことは眠らされるか拘束されて、適当な拷問か洗脳ってとこか。最悪なのは、このままここに縛られ続けて、梢や舞白を助けられないこと。あたしが死ぬことは、この際別にいい。でも、あたしの家族は、あたしが守る。妹たちが命賭けてんだ、あたしも自分の命くらい、喜んで賭けてやる)
無意識なのだろう、無自覚なのだろう。
彼女は、窮地に追い込まれる程、顔を綻ばせる。
皮肉に満ちた笑みで、敵を睨みつけるのだ。
不敵に、不遜に。
(くくく、待ってろよ。梢、舞白。お前らの姉ちゃんは、絶対に負けねぇからさ)
奇跡は起きない。
順当に、勝つべくして、勝つべき者が勝つ。
ただ一人、部屋の中で動かない靴谷氷花を、枠綿水仙はじっと観察する。
彼女はあの一瞬で、大猫正義を抱え、部屋に設けていた隠し通路を通り、屋敷の設計図にはない部屋へと移動していた。
それがどれだけ異常なことか、どれだけ理不尽なことか。
兎も角、枠綿水仙は靴谷氷花を観察する。
狂気に満ちた、妖艶な笑みを浮かべて。
128
「シロ、俺は先に行くから、落ち着いたら追ってきな」
「••••••」
殺人鬼と殺人姫の戦闘は終了していた。
完膚なきまでに敵を殺戮してみせた「クロ」に対し、白塔呑荊棘の顔が苦痛に歪むのを受け入れられなかった「シロ」は、何処かうわの空といった様子だった。
「ねぇ、クロ。私、強くなったよね、ちゃんと闘えるようになったんだよね? だったら、どうして私はこんなにも弱いままなの?」
「シロ••••••、あまり自分を追い込むなよ。今回はシロにとっちゃ、これ以上ないくらいキツかっただけだろうよ。現時点で言うなら、シロは十分闘えているさ。それに、まだ何も終わってねぇ。反省会は全部終わってからにしよぉぜ」
失敗は成功の母だという。
確かに、失敗から何かを学べる者は、成功への道を歩めるのかもしれない。
もし、その言葉が真理だとするのなら、彼女は一体何度失敗すればいいのだろうか。
何度打ちのめされれば、自分を許すことができるのだろうか。
家族を守ると誓った側から、家族を傷付けられている。
その事実を、彼女は一体どんな形で受け入れればいいのだろうか。
「私は、あの日クロに見つけてもらえた日から、何も変わってない」
「人はそんな簡単に変わんねぇよ、生き方も考え方も儘ならねぇ。だから俺たちは生きてんだろ」
「うん、でも••••••悔しいね。強くなりたい、守りたいものを守れる強さが欲しい」
「なら、目の前のもんから逃げんな。安心して突っ込め、転けようがぶっ飛ばされようが、俺がなんとかしてやるから」
柄にもないことを言ったと思ったのかもしれない。
殺人鬼らしいという形容が、どれだけの者に伝わるのかは定かではないが、少なからず彼らしくはない言葉ではあった。
もしこの場に、殺人鬼である彼をよく知る善良な殺し屋がいたとしたら、そんな彼を見て、嬉しそうにたっぷりと皮肉を込めた説教の一つでもしていたかもしれない。
「ありがと、いつも私を支えてくれて」
「それも、全てが終わった後に、だな。俺もシロも、他のお姉さんたちだって、生きて帰れる保証は全くない。でも、全員で帰るんだろ? 俺たちの勝利条件は、枠綿っつー黒幕を殺した上で、シロの家族全員の救出ってところか。
ハードモードが過ぎるが、もう既に動き始めちまってるし、抜け出せないところまでハマってる。だったら進むしかない」
守るものが多いということは、それだけ弱みを抱えるということである。
しかし、守りたいものがない者に、本物の強さは芽吹かない。
殺人鬼が、「クロ」が教えようとしていることは、そういうことなのかもしれない。
殺すことしかできないと、寂しげに自虐していた彼が伝えようとしていることは、もしかしたら愛に満ちた優しい強さなのかもしれない。
後で追いついてこいと言われた後ではあるが、「シロ」は立ち上がり、ゆっくり深呼吸をして「クロ」の隣に並んだ。
まだ、迷いはあるだろう。
また目の前に姉の顔をした敵が現れてしまえば、力を振るうことを躊躇うかもしれない。
しかし、弱いことは、足りていないことは、足を止める理由になり得ないのだ。
強くありたいと彼女は願った。
その願いは、靴谷氷花とも、白塔梢とも重なるものであり、そして白塔呑荊棘が願ったそれとも同じものだった。
誰かの為に強くなる。
言葉にするのは簡単なのだろう、気持ちがいいものだろう。
しかし、実践することは途轍もなく難しいことなのだ。
二人は、数えるのも億劫になるほどの死体を背に、部屋を出た。
向かう先に希望はあるのか、絶望か手招きしているのか。
殺人鬼と殺人姫の生きる道に、何を期待できるというのかわからないが、二人が引き返してくることはないだろう。
殺してきたから、殺されてきたから。
二人は振り返らない。
ただ真っ直ぐ、何かを目指して、肩を並べて共に歩く。
同時刻、実験場のとある会場で響いた、白塔梢の叫び声はまだ二人には届かない。




