警鐘
124
「お元気ですか」
「はい、大丈夫です」
125
人は誰でも歴史を持っている。
そして、その歴史は往々にして、自分で認識できないものの方が多い。
靴谷氷花も、例外ではない。
常人と一線を画している彼女ではあるが、自分のことを理解出来ているかというと、きっとその首を縦に振ることはないだろう。
それでも、枠綿無禅は知っている。
彼女が知らない彼女のことを、枠綿無禅は知っている。
「おい、あんた。大猫って言ったよな。じゃあ狩渡っておっさん知ってるか?」
「ああ、彼のことは知っているよ。何を隠そう、今回僕がここに来たのは、彼に依頼されてのことだからね」
「あ? どういう意味だよ」
「お嬢さんは、彼の関係者みたいだから説明するよ。その前に、一旦目の前の敵を片付けようか」
二人、靴谷氷花と大猫正義がいるのは、枠綿無禅の屋敷の地下である。
屋敷から逃げるのならば、地下に行くというのはあり得ない選択なのだが、二人は迷うことなく地下へと降りた。
当然である。
この二人に、逃げる気がないのだから。
屋敷と研究所の距離は、それなりに離れてはいるが、視認できないほどの距離ではない。
大猫の身体能力ならば、「クロ」と闘った直後に屋敷に移動してくることなど、造作もないことである。
実際、彼は「クロ」と別れた後、一瞬で屋敷を見つけ出し、潜入し、靴谷氷花を救出することに成功している。
「この地下で何が行われていたのかは、想像すらもしたくないところではあるけれど、これは如何にもって感じだね」
「あいつらはここで、人間を造ってんのか? こんなことして、あいつらを人間と言っていいのかよ」
「残念ながら、ね。欲望に歯止めをかけられない一面も、人間らしさなのだろうね。お嬢さんや僕が守るべき対象に入る、善良な国民ということになる」
「あり得ねえだろ。呑荊棘を殺して、その命すら弄んで、あたしはこいつらの何を守ればいいんだよ。出来ることなら、あたしがこの手で殺してやりたいくらいだってのに」
屋敷の地下には、人体実験の痕跡が至る所に見てとれた。
血塗れになった作業着や、何かを切断するために使ったであろうノコギリが雑に放置されており、吐き気を催すような異臭を放っている。
そして、その異臭を最も強く放つ部屋で、二人は敵と向かい合っている。
「枠綿様の崇高な計画にケチをつけるなんて、よっぽど頭の作りが残念なのね。可哀想に、脳みそを弄って正常な判断ができるようにしてあげましょうか?」
敵、枠綿側の人間。
その女は、心の底から残念そうに二人を見ていた。
白衣という表現が正しいのかは定かではないが、彼女は医者や科学者が来ているような白衣を身に纏っていた。
但し、全身に誰かの、決して一人ではない数の誰かたちの返り血を浴びている。
「ここにいるやつらは、全員仲良く徹頭徹尾、狂ってんだな。あたしの家族がこんな連中に目をつけられてるってのに、あたしは今まで何もしてやれてなかったんだな。それがどうしようもなく腹立たしい」
「お嬢さんの気持ちは正しい、でもそれでは駄目だよ。正しいだけでは何も救えないし、何も変えられない。僕みたいな存在ですら、正しいだけでは何者にもなれない。強くなろう、お嬢さんなら大丈夫さ」
目の前の狂気を無視するかのように、二人は話す。
狂うことに慣れてしまった人間に、今更何ができるというのだろうか。
正義を掲げる二人に、明確な答えはないのだ。
「私のことを無視しないでよ、傷付くじゃない。あなたたちの為を思って言ってあげているのに、どうしてそんな酷いことができるのかしら」
血に染まった白衣を揺らしながら、女は高らかに声を張り上げる。
真面な会話など、最早成立するはずもない。
「やれやれ、困ったね。ここは僕が相手をしよう、お嬢さんは今のうちにこれからの目的をシンプルに書き換えておくといい。白塔梢の救出が最大の目的だとして、ここにはまだ救わなければならない者がいるのだろう? お嬢さんは、ここから先、何を為したい?」
「うふふ、おじ様が相手なんてつまらないわ。大猫正義、正義の味方を謳う戦士。彼岸様の足元にも及ばない時代遅れの老害に、私の相手なんか務まらないわよ。それよりもそっちの可愛い子と遊びたいわ。絶望に片足を踏み入れたばかりのひよっこに、本当の絶望がどんなものか丁寧に教えてあげたいのよ。うふ、うふふふ、ふっふっふふふふ」
大猫正義と白衣の女に、同時に視線を当てられ、靴谷氷花は軽く舌打ちをして、頭を掻く。
苛立ちを隠そうともせず、乱暴に、そして静かに気持ちを整える。
「わかった、正義のおっちゃん、あたしのこと守ってくれ。その代わり、みんなのことはあたしが絶対に守ってみせる。あと、そっちの変態。あんたの遊びに付き合う余裕はあたしらにはない。呑荊棘の身体弄った罰をしっかり払わせてやるから」
「うふふ、変態だなんて、酷いわね。私は枠綿水仙と言います、覚える必要はないわ。どうせ直ぐに、私以外の人間のことなんて認識できなくなるのだから」
枠綿水仙。
枠綿無禅の娘ではあるが、その存在は秘匿されている為、外部の人間で彼女の存在を知る者は皆無である。
仮にその存在が公になっていたとしたら、流石の枠綿無禅でも庇いきれなかっただろう。
それくらいのことは、欠伸をしながらやってのける彼女である。
人間を生きたまま解剖することなど日常茶飯事で、彼女の元には、毎週足が付きにくい人間がダースで届いている。
用途は言うまでもないし、存命の者がいないことも容易に想像できる。
「確か、あなたは生かして捉えろとの命令があったわね、氷花ちゃん。実験に使えないのは残念だけれど、いつでも私の玩具になりに来ていいのよ」
見た目には分かりにくいが、大猫正義もかなりの強さを有する者であり、本人も多少なりとも、その強さに自負はある。
しかし、そんな大猫正義を全く警戒しない様子の枠綿水仙に、二人は違和感を覚える。
彼を知らないのなら、まだわかる。
彼を知っていて、その態度だということがおかしいのである。
例えば、四四咲彼岸にしても、露骨に反応こそしてはいなかったが、それでも多少の警戒レベルの引き上げくらいはしていた筈である。
もし、枠綿水仙の余裕が虚勢でもなく、警戒に値する類の態度だとするのならば、この闘いは圧倒的に彼女に有利なものとなる。
「お嬢さん、少し離れていてもらえるかな。あまり手加減が効きそうにないんでね」
「あぁ、あいつはあんたや殺人鬼の強さとは別の何かを持ってんだろうな。あたしは闘えねぇし、お荷物になるくらいなら、黙って従うさ」
十歩、念を入れてもう十歩。
靴谷氷花は、二人から距離を取った。
「うふふ、賢いのね。そこなら大丈夫よ、氷花ちゃん。あなたは巻き込まれないわ、万が一にも吸い込むことはないでしょうから」
微かに聞こえた。
聞こえた瞬間、靴谷氷花は叫んでいた。
「おっちゃん、逃げろっ! ガスだ」
「ふふふ、うふふふふふふふふふふ」
叫びは響くが、届くことはなかった。
ほんの数秒後、大猫正義の体は無防備に地に倒れ込んでしまった。
ゆらりと、枠綿水仙は大猫正義に近付く。
彼女、靴谷氷花は拳銃を構えては見せるも、枠綿水仙は臆することなく歩みを進める。
「打ってもいいのよ、氷花ちゃん。ここには私たちしかいないから、私を殺せば彼のことは助けられるかもしれないわよ。解毒薬も私のポッケを探せば、簡単に見つけられるだろうし。ほら、お巡りさんなんでしょ、貴方」
ーーダァン
煽り文句に乗ったわけではない。
靴谷氷花は激昂していても、思考をやめない。
力を持たざる者が、闘えない訳ではないのだ。
靴谷氷花は、枠綿水仙と対峙する。
己の命を賭けて。
「ったく、血の気の多いやつが多すぎんだよ。全部人任せってのも性に合わないとは思ってたんだよ、今まで溜まりに溜まった鬱憤晴らすの手伝ってくれよ。水仙ちゃん」
「うふふ、私、貴方となら仲良くできる気がしますわ」
「死んでも御免だね」
正義は倒れ、戦う術も持たない彼女は、それでも笑う。
狂気に満ちた敵を目の前にして、震える身体を無視しながら。
殺人鬼の彼を模すかのように、気丈に、気高く、彼女は笑った。




