対話
95
自らを示す記号という意味での「名前」に、どれだけの信頼を置いているかで、己の人生の色は何色にも変わり得る。
96
地下通路はとある工場につながっていた。
白塔梢は、妹の姿をした何者かに連れられ、その工場に足を踏み入れた。
彼女には、そこがどこなのか全く見当もついていないだろう。
大分県大分市の外れにあるその工場は、何年も前に枠綿無禅が買い取っていたもので、いわば敵のホームというものである。
しかし、流石に日常的に使用されていた訳ではないようで、全くの無人だった。
その場にいるのは、白塔梢とあと一人。
白塔呑荊棘の姿をした何か。
「ねえ、梢?私を見てどう思った?」
「••••••」
白塔梢は応えない。
応えることができない。
かつて、目の前で命を落とした双子の妹が、当たり前のように自分の前にいるのだ。
順応しろという方が無理な話である。
「無視か、そっか。私は楽しみにしてたんだ。梢に会えるのを心の底から楽しみにしていたよ。警戒しなくても大丈夫だよ、私に梢を殺す技術は微塵も組み込まれていないから」
「••••••」
白塔梢の頭の中では、様々な疑問が渦巻いていた。
どうして妹がここにいるのか。
最期に見た妹と全く同じ姿、同じ声で自分と向き合っている彼女は一体何者なのか。
自分に合うことを楽しみにしていたとはどういうことなのか。
「組み込まれていない」とは、何を意味しているのか。
頭の中で入り乱れる疑問は、確かに考えなければならないものだったのだろう。
しかし、それらに対する答えは一向に出てきてはくれない。
まともな言葉にすらなってはくれないのだ。
「梢は会いたかった?私に」
「••••••っ」
応えることはできない。
その代わりに、白塔梢の瞳から涙が溢れ出した。
「そっか、よかった。泣いてくれるんだね、梢は優しいお姉ちゃんなんだね」
「やめて••••••、もう、やめて」
渋り出したかのような震える声で、彼女はやめてと願った。
その言葉は、悲痛で悲惨で悲哀に満ちていて、今にも壊れそうだった。
「梢、聞いて。今から梢が行くところは、希望なんて一つもないし、望みなんて何の価値もないようなところだけれど、私が守るから」
「え••••••」
「混乱するのもわかる、いきなり死んだはずの私が目の前に現れたんだから、そりゃ正常じゃいられないよ。でもそれじゃ駄目、この先、生き延びることなんてできない。私には梢と過ごした時間も記憶も絆もないけれど、わかるんだよ。私の細胞が遺伝子が、心の奥にある何かが君を守りたいって思ってる」
それは、奇跡と呼べるものなのかもしれない。
少なくとも、ここまで彼女の人生に起きた出来事を鑑みた時、この出会いは奇跡と言っていいくらいのものだった。
「枠綿無禅は五年前、白塔呑荊棘の遺伝子を入手した後、海外の研究施設にそれを渡して、非合法な手段で私たちを造った。おそらく、梢の血液も同じように何らかの手段で入手され、使われていると思う。培養器の中で生まれた私たちは、無理矢理この年齢まで成長させられているけれど、実際はまだ生まれてそれほど時間は経っていない。それでも脳に直接情報を流し続けることで、知識や経験を得たことになる。梢のこともその中で知った。私はね、オリジナルである君と呑荊棘を守りたいんだ。命をどう扱うかなんてことを論じるつもりはないけれど、君たち二人は、もう解放されるべきだと、私は思うよ」
彼女はさらに続ける。
「名前すらない私は、白塔呑荊棘の代わりになんてなれないけれど、それでも私は君を守る。脳に埋め込まれたマイクロチップが私の生命活動を遮断する瞬間まで、私は白塔呑荊棘を全うしたい」
この世の中に、都合のいい救いなど一つとしてない。
白塔梢にとって、これほどまでに自分の理性を揺さぶられることは初めてのことだっただろう。
それは、自分の妹の死に対する冒涜であるのだ。
「梢、落ち着いて聞いて。今日一緒にいたもう一人のところにも、『私たち』のどれかが行っていると思う。殺し合いになるようなことはないとは思うけれど、そのお仲間さんが梢や呑荊棘の関係者なら、少しまずいかもしれない」
顔面蒼白のまま、棒立ちを続ける白塔梢に対し、彼女は可能な限り優しく語りかける。
「これからどうしたい?今の梢には三つの道が残されてるよ。一つは仲間の元へ戻る道。もう一つは、このまま大人しく私についてくる道。そして最後、私と一緒に戦う道。どれを選んでも梢はきっと後悔する、報われることはないかもしれない。でも、梢が選んだ道には私もいる。ここに連れてきたことは枠綿無禅にはまだ知られていないはず、時間に余裕がある訳じゃないけれど、少しの時間稼ぎはできているはずだから、ちゃんと考えて選んで」
示された道は、五年前、初木町偽恋が彼女らに託したものと似ていた。
引くか進むか、はたまた流れに任せるか。
五年前と違うことは、ただ一つ。
白塔梢の隣に、もう白塔呑荊棘はいないということ。
「ちょ、ちょっと待って、ください。いきなりそんなことを言われても何が何だか、わかりません。私は、あなたたちのことを信用することはできないし、思い通りに動いてあげるつもりもない、です。ただ、私をこの場で殺すつもりがないことくらいは、わかります」
「確かに、すぐに飲み込めないのはわかるけれど、そんな都合を枠綿無禅は忖度してはくれない。梢には選ぶ権利はあっても、逃げる自由はもう無いよ。私は梢をとある屋敷まで連れてこいと命令を受けているけれど、それが済めば、こうして梢と接触することは、もうできないかもしれない。梢にとっても、私にとってもここがおそらく最後の分岐点。さあ、覚悟を決めて」
白塔梢は何を選ぶのだろうか。
そして、何を選ばないのだろうか。
彼女の瞳に宿る迷いは、どんな選択へと繋がるのだろうか。
少しばかりの沈黙の後、白塔梢は、その重たい口をゆっくりと開いた。
同時刻、地下通路内。
「ほら、ほらほらほらほら。舞白ちゃんは、私の言うこと聞いてくれるよね?」
白塔梢が数時間前に通った場所で、「シロ」たちはよくわからない何かと対峙していた。
それは「シロ」とって馴染みのある姿形をしていて、聞き覚えしかない声色をしているのだが、本人ではないと確信できる。
白塔梢の姿のそれは、明らかに正気を失っている。
瞳孔は開き、口からは涎を垂らし、必要以上に大きな声を出し、彼女が絶対に口にしないであろう言葉を「シロ」に投げかけてくる。
それらの事実が、「シロ」をさらに苦しめる。
そして、その苦しみは決意と変わりつつあった。
「殺さなきゃ、殺してあげなくちゃ」
静かに、そして明確な殺意を「シロ」は解放していく。
「あの子は君の知り合いなのかい?その割には穏やかではない雰囲気になってきているようだけれど」
大猫正義は、不遜な態度を崩さないまま「シロ」に尋ねるが、その声はもう既に、「シロ」には聞こえてすらいなかった。
「シロ」にとっては、姉の姿をした彼女を殺すことに抵抗がないわけではない。
寧ろ、この場にいる者の中で最も彼女を殺すことに対する心構えができていないと言ってもいいほどに。
「真冬くん、真夏くん。君たち二人であの子を取り抑えてもらえるかな?僕はシロくんを抑えておこう。できるだけ傷付けず、迅速かつ的確に。できるね?」
「お前に指図される謂れはないが、了承した」
「お前に指図される謂れはないが、了承した」
たったのそれだけの会話で正義の味方と殺し屋は、自らの役割を割り振り、それを可能にするために行動を開始する。
「シロ」と白塔梢の姿をした彼女の間に、背中を合わせるようにして割って入る。
誰一人として、武器は構えない。
それでも、その空間の空気は一気にひりつき始める。
殺人姫と正義の味方は、向き合う。
「お願い、邪魔しないで」
「うむ、しかし君に人を殺させるわけにはいかないね。あの子を捕らえて情報を聞き出すと言うことならまだしも」
一方、その何者かと殺し屋は睨み合う。
「けらけらけら、舞白ちゃぁん、早くこいつら殺してよ。お前らも私と舞白ちゃんの邪魔するなよぉ」
「心配するな、すぐに終わる」
「心配するな、すぐに終わる」
それぞれが呼吸を合わせたかのように動き出そうとした瞬間、そこにいた五人全員が何かを察知した。
それは殺意だったのかもしれない。
それは悪意だったのかもしれない。
それは誠意だったのかもしれない。
それは何でもなかったのかもしれない。
ただ、その何かはその一瞬で人間一人分の命を殺してみせた。
バラバラに。徹底して細かく刻まれて。
白塔梢の姿をした彼女は殺された。
「ふん、やはり欠陥品だったな。遣いの一つすら真面にできんとは」
そして畳み掛けるように、その場にもう二人。
精悍な表情の青年が、一人の女性を横に連れ姿を表した。
迎える形をとる四人は、青年ではなく、その横にいる女性の方に目がいってしまった。
その女性は、当然のように現れた彼女は、無力そうで非力そうな彼女は、まさに今殺された彼女と同じ顔、同じ姿だった。
「これは流石に、笑えないね。枠綿無禅ってのはこんなものにまで手を出していたのかね」
「シロ」と向き合っていた大猫正義は、新たな来訪者に向き直りながらボヤいた。
その目にはいつもの余裕はないようだ。
ここまでくると、全員答えに辿り着いてしまう。
大猫正義も千切原双子も、そういう事例はもちろん知っている。
助けたり殺し合ったりする者たちの日常には、こういった異常すら当たり前なのかもしれない。
そして辿り着く答えは簡単である。
枠綿無禅のしていること、そしてそれに白塔梢らが巻き込まれ、文字通り利用されていることだ。
「お前ら、抵抗せずについて来い。枠綿様が準備した会場へと向かう。余計な真似をしたら、その時点で殻柳優姫と靴谷氷花、白塔梢を殺す」
青年は名乗ることなく、高圧的な口調で「シロ」たちに告げる。
彼がここに現れた理由と、人質の存在を。
「シロくん、確認だが、今名前が上がった三名は?」
「みんな私の家族、こいつら本当に許せない」
「待ちたまえ、圧倒的にこちらが不利な状況だよ。とりあえずは従おう。真冬くんと真夏くんはここで離脱しても構わない」
青年は既に「シロ」たちに対する興味を失った様で、既に背を向けて地下通路の奥へと歩き出している。
「私らも行くぞ。シロは危うい」
「私らも行くぞ。シロは危うい」
「••••••」
四人は最短で行動方針を話し合う。
「シロ」以外の三人にとって、人質の存在はあまり効果を発してはいないが、それでも今回の件の黒幕であるところの枠綿無禅には、思うところがある様で、その意思は「シロ」が思うよりも堅かった。
「うむ、ここからはあくまで自己責任ということにして、彼の跡を追うとしようか。彼の横にいた子と、殺された子、そしてシロくんが目を離した隙に殺された子。それらはおそらく、人工的に造られた人間なのだろうね。裏の世界ですらなかなか見ないよ。こういうことに関して、僕のような存在は見て見ぬ振りができないんだよ。ということで、行こうか」
自己責任。
その言葉の意味を、正しく理解できている人はどれほどいるのだろうか。
そして、その言葉の重みを理解した上で、動ける人はどれほどいるのだろうか。
四人の間に絆など無い。
利害関係すら一致していない。
それでも、この瞬間において、足並みが揃うということは何ら不思議なことでは無いのかもしれない。
「シロ」は家族を守り、取り戻すため。
大猫正義は自らが掲げる正義のため。
千切原真冬は「シロ」の行く末を見届けるため。
千切原真夏は「シロ」の危うさを心配して。
それぞれがそれぞれの目的を掲げ、勝手に行動した結果が同じであっただけ。
行き着く先は果たして地獄なんてもので済むものだろうか。
「シロ」は拳に力を込め、もう殆ど見えなくなっている青年の背中を睨みつける。
どこまで人の尊厳を踏み躙れば気が済むのか。
どれだけ人の命を弄べば気が済むのか。
多くの人間を巻き込んだ、白塔梢と白塔呑荊棘の復讐劇の終演はすぐそこまで近づいている。
誰が生き残り、誰が殺され、誰が願いを叶えるのか。
物語は加速し、加速し、ブレーキを失った暴走列車の如く、全てを蹂躙する。




